第十三話 白兎の執務室
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第十三話 白兎の執務室
ハートの女王の城は、遠くから見た時よりもずっと大きかった。
黒い石壁は朝の光を受けてもなお暗く、血のように赤い屋根が幾重にも重なって空へ伸びている。尖塔は細く鋭く、まるで空を刺す針のようだった。金の縁取りが施された窓は美しく輝いているのに、どこか見張りの目のようにも見える。
壁を這う赤薔薇の蔦は、遠目には花飾りのように見えた。けれど近づくと、その棘は思っていたよりも鋭く、黒い石壁に爪を立てるように絡みついている。
美しい。
けれど、ただ美しいだけではなかった。
アリスの屋敷にも、豪華な調度品や広い客間はあった。祖父の代から受け継いだ絵画も、銀の燭台も、大理石の階段もあった。
でも、この城は違う。
ここにある豪華さは、人を迎えるためのものではない。
ひれ伏させるためのものだ。
門をくぐると、赤い絨毯が血の川のように長く伸びていた。黒い柱は真っ直ぐで、冷たく、少しも揺らがない。壁に飾られた薔薇の絵は美しいのに、どれも花びらの端が刃物のように鋭く描かれていた。
アリスは思わず、ノアの手を握る力を強めた。
ノアはそれに気づいたのか、少しだけこちらを見る。
「大丈夫?」
「……はい」
返事をしながらも、声は小さくなった。
ノアはいつもの甘い笑顔を浮かべている。
けれど城へ入った瞬間から、彼の雰囲気は少し変わっていた。
柔らかい。
穏やか。
でも、隙がない。
白い制服の胸元には、蔦と薔薇の金刺繍が光っている。城の者たちはノアを見ると、軽く頭を下げた。中には、わずかに緊張した顔になる者もいた。
アリスはそれを見逃さなかった。
ノアは、ただの白兎ではない。
この城の中で、確かな立場を持っている。
それも、軽く扱われるような立場ではない。
「ノア」
「うん?」
「いつも、どんな仕事をしてるんですか?」
ノアは少しだけ目を細めた。
「女王陛下のお手伝い」
「……お手伝い」
「言い方を変えるなら、側近かな」
側近。
アリスは息を呑んだ。
ハートの女王の側近。
その言葉は、想像していたよりずっと重かった。
「そんな大事なこと、今まで何も言ってくれなかったんですか!」
「隠していたつもりはないよ」
「でも、言ってもくれませんでした」
「そうだね」
ノアは悪びれずに微笑んだ。
「でも、今教えたね」
ふわりとかわされてしまう。
いつものことだ。
けれど今日は、その軽さが胸に引っかかる。
長い廊下を抜け、いくつかの扉を通り、やがて城の本館から少し離れた別棟に着いた。
そこは城の華やかさとは少し違っていた。
黒い石造りの外壁は同じなのに、赤い装飾は少なく、静かで落ち着いている。窓の外には小さな中庭があり、そこには赤い薔薇ではなく白い薔薇が咲いていた。
「ここが、僕の執務室」
ノアが扉を開ける。
中は思っていたより広かった。
大きな書斎机。壁一面の書棚。書類棚。背の高い窓。深い緑のカーテン。隅には柔らかそうなソファーと、小さな暖炉がある。
整っている。
けれど、生活の気配は薄かった。
ノアの家にあるような、にんじん柄のエプロンや、兎の足の食卓や、ミルキーブルーの床のような愛嬌はない。
ここにあるのは、仕事のための静けさだった。
ノアは机の横に、小さなテーブルを置いた。
「ルーシーには、ここで資料整理をお願いしようかな」
「資料整理?」
「うん。こっちの書類を日付順に並べて、赤い紐で束ねて。青い印がついているものは別にしておいて」
ノアは書類の山をいくつか置いた。
アリスはそれを見下ろす。
文字は読める。
ただし、内容は難しそうだった。
城の物資。
街道の管理。
扉の報告書。
夢鳥の飛行記録。
庭園の薔薇の色の変更申請。
薔薇の色まで申請がいるのか。
ワンダラーは自由なようで、妙なところで細かい。
「分かりました」
「無理はしないで。疲れたら休んでいいからね」
「はい」
ノアはアリスの頭を撫でようとした。
けれど、途中で一瞬だけ手を止めた。
アリスはその小さなためらいに気づいた。
昨夜のことを、ノアも覚えているのだろうか。
許可なく額に口づけたことを。
アリスが怯えたことを。
けれどノアはすぐに、いつものように笑った。
「じゃあ、少し外出してくる」
「え?」
アリスは顔を上げた。
「外出ですか?」
「うん。夕方には戻るよ」
「ここで待っていて」
ノアの声は柔らかかった。
けれど、有無を言わせない響きがあった。
「ここなら安全だから」
安全。
その言葉が、また胸に引っかかる。
ノアは扉の方へ向かう。
「あの、ノア」
「なに?」
「どこへ行くんですか?」
「少し、女王陛下のところへ」
ノアは振り返り、砂糖菓子みたいに甘く微笑んだ。
「いい子にしていてね、ルーシー」
そう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
執務室は、急に広くなったように感じられた。
アリスはしばらく扉を見つめていた。
いい子にしていてね。
ノアはよくそう言う。
以前はそれを、ただの子ども扱いだと思っていた。少しむっとして、少し安心した。
でも今は違う。
その言葉が、鍵の音みたいに聞こえる。
いい子にしている限り、安全。
いい子でなければ?
アリスは首を振った。
考えすぎだ。
仕事をしよう。
そう思って、椅子に座る。
書類を日付順に並べ、赤い紐で束ねる。青い印のものは横へ避ける。
作業自体は単調だった。
けれど集中できなかった。
書類の文字を追っていても、目はすぐにノアの机へ向いてしまう。
大きな書斎机。
引き出し。
鍵つきの小箱。
壁際の戸棚。
この部屋なら、何かあるかもしれない。
ノアが隠していること。
八年前のこと。
アリスという名前の意味。
帰る方法。
アリスは椅子から立ち上がった。
いけないことだ。
分かっている。
人の机を勝手に探るなんて、屋敷で教わった礼儀に反する。お姉様が見たら、きっと眉を下げて叱る。
でも、知らないままではいられない。
何も知らないまま、ただ守られているだけではいられない。
アリスはそっとノアの机に近づいた。
一番上の引き出しを開ける。
中には羽ペン、封蝋、金のクリップ、整然と並べられたメモ用紙。特に怪しいものはない。
二段目。
報告書の控え。
城の職員名簿。
鍵束。
だが、どれもノアの仕事に関するものばかりだった。
三段目には小さな箱が入っていた。
アリスの心臓が跳ねる。
だが開けてみると、中には裁縫道具が入っていた。針、糸、ボタン、小さなにんじん形の刺繍飾り。
こんなところにも、にんじん。
緊張していたのに、少しだけ肩の力が抜けた。
戸棚も調べた。
資料。
古い地図。
ワンダラーの通行記録。
扉の管理表。
けれど、アリスが知りたいことは見つからなかった。
八年前のアリス。
薔薇の鍵。
小瓶。
そういった言葉は、どこにもない。
まるで初めから、すべて片づけられているみたいだった。
アリスは小さく息を吐く。
やはり、ノアは簡単に見つかるような場所に大事なものを置いたりしない。
次に、扉へ向かった。
少し外へ出てみよう。
廊下に誰かいれば、話を聞けるかもしれない。ノア以外の人から、帰る手掛かりを知れるかもしれない。
アリスは扉の取っ手に手をかけた。
回す。
動かない。
「……え?」
もう一度回す。
ガチャ。
ガチャガチャ。
開かない。
鍵がかかっている。
アリスは一瞬、理解できなかった。
ノアが出ていった時は確かに開いていた、けれど、扉は確かに閉じられている。
「嘘……」
何度も確かめる。
ガチャガチャ。
ガチャ。
やっぱり、開かない。
胸の奥が冷たくなる。
安全だから、ここで待っていて。
ノアの声がよみがえる。
安全。
それは、外の危険からアリスを守るという意味だったのか。
それとも、アリスが外へ出ないようにするという意味だったのか。
アリスは扉に額をつけた。
落ち着いて。
考えなさい。
ここは城から少し離れた別棟だ。先ほど来るまで、廊下で人にほとんど会わなかった。窓の外には中庭が見えるが、人の姿はない。職員らしき者もいない。
つまり、叫んでも誰かが来るとは限らない。
仮に来たとしても、ノアの執務室にいる見慣れない少女を、どう扱うだろう。
ルーシー。
家政婦。
偽りの名前。
偽りの姿。
アリスはドアノブから手を離した。
怖がってはいけない。
泣いても開かない。
騒いでも状況は良くならない。
屋敷で、エドワードの気配を避けていた時もそうだった。焦るほど相手に隙を見せる。落ち着いて、周囲を見て、できることを探す。
アリスは部屋を見渡した。
窓。
高い。
中庭には出られそうだが、窓には細い金属の飾り格子がはまっている。すぐに外せそうにはない。
暖炉。
使われていない。煙突から逃げるには狭すぎる。
書棚。
隠し扉があるかもしれないと思って本を押してみたが、何も起こらなかった。本の一冊が「雑に触らないで」と小声で文句を言っただけだった。
アリスは疲れて、ソファーに腰を下ろした。
柔らかい。
深い緑色のソファーは、座ると身体を包み込むように沈んだ。
緊張が少し緩む。
すると、自分が思っていた以上に疲れていることに気づいた。
眠れなかった夜。
ノアへの疑い。
城への緊張。
そして、鍵のかかった扉。
胸の中でいろいろなものが絡まっている。
アリスは横になった。
窓から差し込む光が、天井に揺れている。
ここは女王の城の一室で、ノアの執務室で、鍵のかかった部屋。
安全な場所。
閉じ込められた場所。
その二つが重なって、どちらが本当か分からなかった。
アリスは胸元の紋章に触れた。
蔦と薔薇。
ノアと同じ紋章。
自分は今、彼の隣にいるのだろうか。
それとも、彼の掌の中にいるのだろうか。
「……お姉様」
小さく呟く。
返事はない。
お姉様なら、何と言うだろう。
辛くなったらいつでも私のところへ来なさい。
そう言ってくれた姉の声が、遠い。
帰りたい。
けれど、帰り方が分からない。
信じたい。
けれど、信じきれない。
アリスは目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
でも、身体は疲れていた。
閉じられた部屋の中、遠くで時計の針が進む音だけが聞こえる。
カチ。
カチ。
カチ。
その音に包まれながら、アリスの意識は少しずつ沈んでいった。
ソファーの上で丸くなった少女を、窓辺から差し込む白い光だけが静かに見守っていた。
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