第十四話 狼の忠告
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第十四話 狼の忠告
アリスは、浅い眠りの中にいた。
眠っているのに、眠りきれていない。意識の半分だけが水の底に沈み、もう半分は、ソファーの硬い縁や、頬に触れる布の感触をぼんやりと拾っていた。
夢の中で、アリスは薔薇園にいた。
けれどそこは、屋敷の薔薇園ではなかった。
空は夕暮れよりも赤く、地面は白い石で敷き詰められていた。咲いている薔薇はどれも美しいのに、花びらの端が妙に濡れたように艶めいていて、近づけば指を切りそうなほど鋭かった。
その中心に、小さな女の子が立っている。
淡く柔らかなブラウンの髪。少しそばかすのある丸い頬。大きな新緑の瞳。
六歳くらいの、幼いアリスだった。
幼いアリスは泣いていた。
泣きながら、誰かの袖を掴んでいる。
白い袖。
金の刺繍。
蔦と薔薇の紋章。
「いや」
幼い声が震えていた。
「ノアを怒らないで」
目の前には、たくさんの影があった。
鳥。鹿。トカゲ。花の顔をした人。帽子をかぶった影。人の形をしているのに、人ではない何か。
みんなが口々に何かを言っている。
責めている。
恐れている。
そして、その中心でノアが静かに立っていた。
けれど、その目だけが今よりずっと暗かった。
「アリス」
夢の中のノアが言う。
声はやさしい。
けれど、どこか遠い。
「こちらへ来てはいけない」
「いや」
小さなアリスは首を振る。
「ノアは悪くないもん」
白兎の耳が、わずかに揺れた。
その瞬間、赤い薔薇の奥から笑い声がした。
くすくす。
くすくす。
女の人の声。
甘くて、艶やかで、冷たい声。
「まあ、可愛らしいこと」
赤い髪が見えた。
扇子が開く。
白い指先。
紅い唇。
その姿がはっきり見える前に、夢が揺れた。
カチ。
カチ。
カチ。
時計の音に引き上げられるように、アリスはゆっくりと目を開けた。
白い天井に、金の縁取りと赤い薔薇の模様が揺れている。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
胸の中にはまだ夢の赤が残っていて、指先には、幼い自分が誰かの袖を掴んでいた感触まで残っているような気がする。
けれど、すぐに思い出した。
ハートの女王の城。
ノアの執務室。
鍵のかかった部屋。
アリスはソファーの上で身体を起こした。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓から差し込む光は少し傾き、午後の淡い金色に近くなっていた。
部屋の中は静かだった。
ノアの大きな書斎机。壁一面の書棚。整然と並ぶ資料棚。アリスのために置かれた小さなテーブル。深い緑色のソファー。
どこもきちんと整っている。
整いすぎていて、余計に息苦しい。
ノアはまだ戻っていない。
アリスは胸元を押さえた。
夢の名残が、まだ消えていなかった。
小さな自分がノアを庇っていた。
八年前も、自分はノアを庇ったのだろうか。
花たちも同じようなことを言っていた。
――白兎が叱られて、アリスが怒ったの。
夢と記憶の境目は曖昧だとネムリは言った。
けれど、夢の中で見たノアの目は、あまりに生々しかった。あれはただの空想ではない。そう思ってしまうくらい、胸の奥に残っている。
その時、廊下の向こうで足音がした。
こつ。
こつ。
こつ。
ノアの足音ではない。
ノアの足音はもっと静かで、音を立てないようにしているのに、不思議と耳に残る。今聞こえる足音は、もっと硬かった。まっすぐで、迷いがない。まるで兵士の靴音のようだ。
アリスは反射的に立ち上がり、扉を見た。
ここには鍵がかかっている。
外からしか開かない。
そう思った瞬間、胸の奥が少し冷えた。
カチャリ、と鍵の開く音がする。
アリスはソファーの横で両手を握りしめた。
ノアだろうか。
それとも、別の誰かだろうか。
扉が開く。
入ってきたのは、ノアではなかった。
黒茶色の髪をした青年だった。
肩のあたりまで伸びた少し癖のある髪。青い瞳。狼の耳。男らしく凛々しい切れ長の眼差し。形の整った眉。すっと伸びた鼻筋。硬く結ばれた薄い唇。
隙のない顔をしている。
青年は部屋に入ると、アリスの前で足を止めた。
青い瞳が、まっすぐにこちらを見る。
射抜くようなのに、乱暴ではない。
アリスは息を呑んだ。
その視線には、ロビンのような遠慮のなさはない。チェシャ猫のような悪戯めいた不気味さもない。けれど、嘘を許さない鋭さがあった。
「……あなたが」
青年は低く言った。
少し間を置いて、言葉を選ぶように続ける。
「ルーシーさん、ですね」
ルーシー。
その名前を聞いた瞬間、アリスは小さく息を整えた。
そうだ。
ここで自分はアリスではない。
ノアが用意した偽りの名前。
ぶたの姿をした少女、ルーシー。
アリスは背筋を伸ばした。
「はい。ルーシーと申します」
アリスはスカートをつまみ、そっと膝を折った。
屋敷で何度も教えられた礼だった。
自分でも思うより、自然に身体が動いていた。
その瞬間、青年の眉がわずかに動いた。
「私はガルと申します」
彼は静かに名乗った。
「ノアさんと同じく、ハートの女王陛下にお仕えする側近です」
ノアと同じ。
アリスの胸に、その言葉が重く落ちた。
この青年は城の人間だ。ノアの仕事を知っている。ハートの女王を知っている。
そして、きっとノアのことも、アリスよりずっと知っている。
「はじめまして、ガル様」
「様は不要です」
「では、ガルさん」
ガルは小さく頷いた。
それから、アリスの礼の姿勢を見て静かに言った。
「家政婦と聞いていましたが、礼の仕方が随分と整っていますね」
胸がぎくりとした。
しまった。
アリスはすぐに顔を上げた。
「以前、お屋敷で働いていたことがあるので」
嘘ではない。
屋敷にはいた。
働いてはいなかったけれど。
ガルの狼耳が、わずかに動いた。
まるで言葉ではなく、鼓動や呼吸の揺れまで聞き分けているようだった。
アリスは動揺を悟られないように、両手を前でそっと重ねる。
「ノアは……ノアさんは、まだ戻っていません」
「分かっています」
ガルは部屋の中へ入り、扉を閉めた。
鍵は、かけなかった。
アリスはそれに気づいた。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけ緩む。
ガルはノアの机、書棚、アリス用の小さなテーブル、ソファーを順に見た。
「ノアさんが自分の執務室に誰かを入れるのは珍しい」
その声には、驚きよりも確信があった。
「……そうなんですか」
「ええ。まして、鍵をかけて置いていくなど」
アリスの指がかすかに動く。
ガルはそれを見逃さなかったらしい。
青い瞳がアリスへ戻る。
「閉じ込められていたことには、気づいていましたか」
「扉を開けようとはしました」
アリスは慎重に答えた。
「でも、開きませんでした」
「でしょうね」
「ノアさんは、安全だから待っていてと言いました」
言いながら、自分の声が少し硬くなるのを感じた。
安全だから。
その言葉を、信じたかった。
けれど、鍵のかかった扉は、どうしても別の意味を持ってしまう。
ガルは閉ざされた扉を一度見てから、静かに言った。
「ノアさんがここまで慎重になる相手は、そう多くありません」
その視線は責めるものではなかった。
けれど、ノアの行動をただの親切として見ているわけでもない。
「……あなたは一体何者ですか?」
アリスは小さく息を吸った。
「私はただの迷い子です」
アリスだと悟られないように。
それだけ、守られる理由があるかのように。
「以前使った扉が、今は不安定で……元の場所へ戻れなくなってしまって。だから今は、ノアさんのお世話になっているだけです」
ガルの青い瞳が、わずかに細くなる。
「それでチェシャ猫と交渉を……」
「え?」
アリスの喉が小さく鳴った。
「微かにですが、あなたからチェシャ猫の匂いがします」
見透かされている。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
けれどガルは責めるような顔をしなかった。
「忠告しておきます」
青い瞳が、まっすぐにアリスを見る。
「チェシャ猫の誘いに乗って、安易に扉を開けるのは危険です。特に、古い扉には注意した方がいい」
「古い扉……?」
「ええ。この国には、もう使われていない扉があります。閉じられたもの、壊れたもの、場所だけが残っているもの。その中には、近づくだけで道に飲まれるものもある」
「道に……飲まれる?」
「扉は、すべてが帰り道とは限りません」
ガルの声が少し低くなった。
「特に今は境界が乱れています。扉が反応したとしても、それがあなたの望む場所へ繋がる保証はない」
アリスは唇を結んだ。
古い扉。
閉じられたもの。
壊れたもの。
場所だけが残っているもの。
それは危険な言葉のはずなのに、胸の奥で小さく光った。
「……でも、反応する可能性はあるんですね」
「ルーシーさん」
ガルの声が、はっきりと硬くなった。
「私は、探せと言っているのではありません。近づくなと言っています」
アリスは息を呑んだ。
ガルは止めている。
その言葉に嘘はなかった。
この人は、帰り道を教えようとしているのではない。危ない場所へ踏み込むなと、警告しているのだ。
ガルはさらに続けた。
「それに、あなたの動き次第で、ノアさんの立場も悪くなります」
「えっ……」
「ノアさんが何を隠しているのかは分かりませんが、きっと女王陛下の領分に触れることなのでしょう……そうなれば、首が飛ぶのはノアさんです」
アリスの胸が、きゅっと縮んだ。
ノアを疑っていた。
ノアが何を隠しているのか知りたかった。
けれど、自分の動きがノアを追い詰めるかもしれないことまでは、考えていなかった。
ハートの女王。
まだ直接会ってもいないその人の名が、急に重くのしかかってくる。
この国では、扉も、名前も、秘密も、きっと簡単には扱ってはいけないものなのだ。何気なく触れたつもりのものが、誰かの首に刃を落とすこともある。
そう思うと、掌の中が冷たくなった。
「ですから、節度を持った行動をお願いします」
ガルの声は静かだった。
責めているわけではない。
けれど、その言葉は冷たい釘のように、アリスの胸へまっすぐ打ち込まれた。
「……わかりました」
アリスは小さく頷いた。
頷くしかなかった。
そう思った時、アリスはふと、時計塔で聞いた言葉を思い出した。
薔薇の鍵。
この国を救うための大切な鍵。
それがあれば、止まった歯車がまた動き出すと、フロロは言っていた。
「あの……ガルさん」
「何でしょう」
「薔薇の鍵という言葉を、知っていますか」
ガルの表情が、わずかに変わった。
「薔薇の鍵……?」
その時、ガルの狼耳がぴくりと動いた。
アリスには、まだ何も聞こえなかった。
けれどガルは、廊下の向こうへ静かに視線を向ける。
「ノアさんが戻ります」
聞きたかった答えは、そこで途切れた。
アリスの胸が跳ねる。
ノアは、まだ遠くにいるのだろう。
足音も、声も、アリスには届かない。
それでもガルには分かるらしい。遠い廊下の奥で、白兎の気配が近づいてくることが。
ガルは扉へ向かった。
そして出て行く直前、もう一度だけ振り返る。
「ルーシーさん」
「はい」
ガルは懐から、小さな鈴を取り出した。
銀色の、指先ほどの鈴だった。表面には小さな狼の紋章が刻まれている。
「何かあれば、これを鳴らしてください」
アリスは目を見開いた。
「これを……?」
「ええ。大きな音はしません。ですが、私には聞こえます」
ガルの青い瞳が、まっすぐアリスを見た。
「不思議の国……特に、ハートの城で油断は禁物です」
その言葉は脅すようではなかった。
ただ、事実を置くような静けさがあった。
アリスはそっと鈴を受け取った。
小さくて、冷たい。
けれど掌の中にあるだけで、不思議と少し息がしやすくなった。
「……ありがとうございます」
「使わずに済むなら、それが一番です」
ガルはそう言って、静かに扉を開け、廊下へ出た。
扉が閉まる。
ほんの少し遅れて、廊下の向こうから足音が聞こえた。
こつ。
こつ。
こつ。
ノアの足音だった。
アリスはひとり、部屋の中に立っていた。
ルーシーとして。
けれど胸の奥では、アリスという名前が静かに息をしていた。
ノアを信じたい。
でも、何も知らないまま信じることは、きっと違う。
チェシャ猫。
使われていない扉。
薔薇の鍵。
掌の中の小さな鈴。
ガルは、答えをくれなかった。
けれど、警告をくれた。
なら、その警告の中にあるものを、自分で確かめるしかない。
帰るために。
そして、ノアが何を隠しているのかを知るために。
鍵が開く音がした。
扉が開く。
ノアが戻ってきた。
白銀の髪。
白い制服。
金の刺繍。
そして、いつもの甘い笑顔。
「ただいま、ルーシー」
その声はやさしかった。
とても、やさしかった。
だからこそ、アリスの胸は苦しくなった。
アリスは微笑んだ。
「おかえりなさい、ノア」
声は、思ったより落ち着いていた。
ノアはアリスを見つめる。
何かを探るように。
その赤い瞳の奥に、ほんの一瞬、白い影が揺れた気がした。
「いい子にしてた?」
アリスは頷いた。
「はい」
嘘をついた。
その瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
でも、アリスは目を逸らさなかった。
ノアが怖い。
それでも、ノアの優しさを信じたい。
帰りたい。
父と母の薔薇園へ。
お姉様のいる屋敷へ。
自分の名前を、誰にも隠さず呼べる場所へ。
けれど、泣いて待っているだけでは、きっと帰れない。
誰かに守られているだけでも、扉は開かない。
帰り道を見つける。
それだけは、変わらない。
ノアが何を隠していても。
この国にどんな秘密があっても。
ハートの女王が、どれほど恐ろしい人だったとしても。
アリスは、帰らなければならない。
だから今は、何も知らないルーシーの顔で白兎の隣に立つ。
笑って、頷いて、気づいていないふりをする。
怖いから、立ち止まるのではなく。
信じたいから、目を閉じるのでもなく。
ただ帰るために。
アリスは、真っ直ぐ前を向こうと思った。
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