雪の温冷浴
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
シオナは湯船に戻ると、肩まで湯に沈んでいた。
雪の中に突っ伏していた背中が、一気に湯の熱を吸い込む。肌の表面だけが冷えて、体の奥はまだ温泉で温まっている。その差がぞくぞくして、思わず息が漏れた。
「うわ……戻ってくる」
サヤはまだ笑っていた。
「戻ってくるって何が?」
「血の流れ」
「表現が生々しい」
ミズホは呆れた顔をしていたが、目だけは少し笑っていた。
「シオナ、あれ本当に何だったの。急に雪に突っ伏すから、心臓止まるかと思った」
シオナは湯船の縁に腕を置き、頭に積もった雪を手で払った。
「荻窪にいた頃さ」
「荻窪?」
サヤが首を傾げる。
「翻訳の夜勤明けによく、駅前の湯に行ってたんだよね。夜中ずっと作業して、朝になって頭がぐにゃぐにゃのまま行って、サウナに入って」
ミズホがうなずく。
「夜勤明けのサウナか。効きそう」
「効く。サウナで体がほかほかになって、もう何も考えられないくらい温まったあとに、水風呂に入るの。最初は冷たくて無理って思うんだけど、少しすると頭がすっとしてくる」
サヤは雪の降る空を見上げた。
「それで、ここでは水風呂の代わりに雪?」
「そう。露天で温まって、横に雪があったから、同じことできるかなって」
ミズホはすぐに釘を刺した。
「思いつきは分かった。でも長くやらない。顔を埋めない。心臓に負担かかるから、本当に一瞬だけ」
「分かってる」
「分かってる人は、無言で飛び出して雪に突っ伏さない」
「それは……ごめん」
サヤは湯の中で肩を揺らして笑った。
「でも、ちょっと分かるんだよね。見てたら気持ちよさそうだった」
ミズホが即座に見る。
「サヤ」
「いや、やるとは言ってない」
「目が言ってる」
「ちょっとだけ。仰向けならいい?」
「なんで相談が具体的になってるの」
シオナは少し笑って、露天風呂の脇に積もった雪を見た。そこは人が歩いていない場所で、ふかふかと厚く積もっている。さっき自分が突っ伏した跡だけが、妙にくっきり残っていた。
「仰向けの方が顔は埋まらないかも」
「シオナまで」
ミズホが眉を寄せる。
サヤは湯船の縁に手をかけた。
「じゃあ、三人で一瞬だけ。寝転がって、すぐ戻る。これなら危なくないでしょ」
「危なくないとは言ってない」
ミズホは深く息を吐いた。
外では吹雪がまだ続いている。けれど、露天風呂の周りは建物と岩に囲まれていて、風の直撃は少し弱い。雪は降っているが、足元の場所さえ選べばすぐ湯船へ戻れる。
「十秒」
ミズホが言った。
サヤの顔が明るくなる。
「十秒いいの?」
「一回だけ。三人一緒。立ちくらみしたら即中止。出たらすぐ湯船に戻る。戻ったあとはちゃんと温まってから出る」
シオナは真面目にうなずいた。
「分かった」
サヤも両手を上げる。
「分かった。ミズホ監督のもと、安全第一で雪ダイブ」
「ダイブじゃない。寝転がるだけ」
三人は湯船の中で一度顔を見合わせた。
そして、同時に湯船から出た。
冷気が一気に肌へ触れる。湯気をまとった体に雪の粒が当たり、肩や腕に白く残る。足元の石は冷たく、三人は小走りで雪の厚い場所へ向かった。
「せーの」
サヤの声で、三人は雪の上へ仰向けに寝転がった。
瞬間、背中に冷たさが刺さった。
「冷えっ」
サヤが声を上げた。
「冷たい、冷たいけど……」
シオナは空を見上げた。灰色の空から雪が落ちてくる。湯気をまとった体が雪に触れて、じわじわと熱を奪われていく。けれどその冷たさの奥に、確かにすっと抜ける感覚があった。
「すっきりする……」
ミズホは両腕を体の横に置いたまま、歯を食いしばるような顔をしていた。
「確かに、頭はすっきりする。でも寒い。もう寒い」
サヤは笑いながら震えていた。
「体はほかほかなのに背中が冷蔵庫」
「十秒。もう戻る」
ミズホが言った。
「え、まだ八秒くらいじゃない?」
「体感で十秒」
「体感ずるい」
「戻る」
三人はほとんど同時に起き上がった。
雪が背中や髪、肩に張りついている。サヤは自分の腕についた雪を見て、笑いながら悲鳴のような声を出した。
「白い。私、白い」
「早く戻って」
ミズホに促され、三人は湯船へ駆け戻った。
湯に入った瞬間、今度は熱が全身へ押し寄せた。
「あっつ……」
サヤが肩まで沈みながら目を閉じた。
「でも、気持ちいい……」
シオナも湯の中で息を吐いた。
「水風呂とは違うけど、これはこれで」
ミズホは湯船の縁に額を預けるようにして、しばらく黙っていた。
「ミズホ?」
サヤが聞くと、ミズホは小さく答えた。
「悔しいけど、ちょっと分かる」
サヤは満面の笑みになった。
「でしょ」
「でも、もうやらない。少なくとも今日は終わり」
「はい」
シオナも素直にうなずいた。
「風邪ひいたら大変だしね」
「そう。ここで風邪をひいたら、私たち何しに来たのって話になる」
ミズホは三人の髪や肩に残った雪を見ながら言った。
「ちゃんと温まって、出たらすぐ拭いて、乾いた服。髪もできるだけ水気を取る」
サヤが笑う。
「ミズホ、完全に温泉保健委員」
「必要なら何にでもなる」
シオナは湯船の中で、外の雪を見た。
空から落ちる雪。
湯から上がる湯気。
白い世界と、熱い湯。
さっきまで90式の除雪をして、全身を雪に叩かれていた。出発することはできなかった。国道7号線は白く閉ざされ、巡回班も道の駅象潟まで様子を見に行っただけだ。
進めない日。
けれど、ただ閉じ込められた日ではなかった。
電気の残し方を教わった。
雪の怖さを知った。
露天風呂で、ばかみたいに冷えて、ばかみたいに温まった。
サヤが湯船の中でぽつりと言った。
「なんか、生きてるって感じするね」
ミズホは少しだけ目を細めた。
「極端すぎるけどね」
「でも、こういうの覚えてる気がする。あとで」
シオナはうなずいた。
「覚えてると思う」
三人はしばらく、湯から出られなかった。
体は芯まで温まり、頭は雪の冷たさで妙に冴えていた。
その不思議な感覚が少し薄れてきた頃、ミズホが静かに言った。
「そろそろ出よう。温まってるうちに部屋へ戻る」
サヤは名残惜しそうに湯面を撫でた。
「出たくない」
「出ないと冷える」
「正論」
シオナは先に立ち上がった。
「今度は雪に行かない」
ミズホが即座に言う。
「絶対行かない」
「行かないって」
サヤが笑いながら続いた。
「私はちょっとだけ未練ある」
「サヤも行かない」
「はい」
三人は湯船を出て、急いで脱衣所へ戻った。
脱衣所の空気は冷えていたが、体はまだぽかぽかしている。タオルで髪をしっかり拭き、肩や背中についた雪の水分も取る。乾いた下着、防寒インナー、厚手の靴下。ワークマンで補充した装備がまた役に立った。
サヤは靴下を履きながら言った。
「温泉、雪、ワークマン。今日の三種の神器」
ミズホが髪を拭きながら答える。
「記録には書かない」
「ええ、書こうよ」
「書くとしても、温冷浴は短時間に限る、って注意つき」
シオナはネックウォーマーを直しながら苦笑した。
「私のせいで記録が変な方向に増える」
「反省してる?」
ミズホが聞く。
「少し」
「少しなんだ」
「気持ちよかったから」
サヤはまた笑った。
三人は廊下を通って和室へ戻った。
部屋の照明はまだ弱くついている。暖房は頼りないが、布団と毛布がある。外では相変わらず雪が窓を叩いていた。
シオナは窓から駐車場を見た。
90式は白く埋もれかけている。
今日、あれで出ることはできない。
けれど、焦りは少し薄れていた。
サヤは布団の上に座り込んだ。
「あったまった。眠くなってきた」
ミズホはノートを開いたが、すぐには書かなかった。
「今日の記録、どう書こうかな」
シオナが少し身構える。
「雪に突っ伏した件は、ほどほどで」
サヤがすぐに口を挟む。
「三人そろって仰向けも追加で」
「それは正式記録じゃない」
ミズホはそう言いながら、結局ペンを動かした。
吹雪のため出発見合わせ。
90式除雪を試みるも、短時間で全身に雪が付着し中止。
露天風呂で体を温める。
温冷浴は短時間に限る。長く続けないこと。
少し間を置いて、最後に小さく書き足した。
ただし、すっきりはした。
サヤがそれを見て満足そうにうなずいた。
「よし」
シオナは布団に足を入れながら、外の吹雪の音を聞いた。
進めない日にも、進んでいるものがある。
それが何なのか、はっきり言葉にはできなかった。
けれど、湯上がりの体の温かさと、雪に冷やされた頭のすっきりした感覚だけは、しばらく残っていた。
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