はまなす停滞日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
露天風呂から戻ったあとも、雪はやまなかった。
窓の外は白い。
強くなったり弱くなったりしながら、雪は絶えず降り続いている。駐車場に停めた90式は、朝に落とした分など最初からなかったように、また雪をかぶり始めていた。
シオナは窓辺に立って、しばらく外を見ていた。
「今日は無理だね」
ミズホは布団の上に腰を下ろしたまま、静かにうなずいた。
「うん。さっきの除雪だけであれだったし、出たらもっと危ない」
サヤは畳の上で足を伸ばし、タオルでまだ少し湿った髪を拭いていた。
「90式が雪だるまになる前に、私たちが雪だるまになったもんね」
「笑いごとじゃないけど、まあそう」
ミズホはそう言いながらも、少しだけ笑った。
シオナは窓から離れた。
「今日は整備教本を読む」
サヤが顔を上げる。
「整備教本?」
「土浦で積んだやつ。神町でも葛西曹長に見てもらったけど、私がちゃんと読んでおかないと」
ミズホは納得したように言った。
「今日みたいに動けない日は、勉強するにはちょうどいいかもね」
「うん」
シオナは荷物の中から、厚めの整備教本と点検表、葛西曹長が書き足してくれたメモを取り出した。紙は少し擦れていて、何度も開いた跡がある。
サヤはそれを見て、軽く目を細めた。
「うわ、文字が多い」
「文字が多いものを読む仕事してた人だから」
ミズホが言うと、シオナは苦笑した。
「翻訳とは違うけどね」
「でも、読む体力はあるでしょ」
「まあ、ある」
シオナは座布団を一枚引き寄せ、低い机の前に座った。
教本を開く。隣にノートを置く。葛西曹長のメモを挟む。
そこから、シオナはしばらく黙った。
履帯。
転輪。
起動輪。
誘導輪。
油圧。
冷却。
始動前点検。
積雪時の注意。
凍結。
異音。
漏れ。
締め具。
専門用語のすべてを完璧に理解できるわけではない。
それでも、今の自分に必要な部分は分かる。
何を見れば危ないのか。
何がいつもと違えば止まるべきなのか。
どこに雪や氷が溜まるとまずいのか。
音が変わった時、すぐ疑うべき場所はどこか。
教本の中の言葉が、神町での葛西曹長の声と重なっていく。
「出発前点検は、覚えていても紙で見てください」
その言葉を思い出して、シオナは小さくうなずいた。
サヤとミズホは、最初のうちはシオナの邪魔をしないように静かにしていた。
ただ、サヤが静かにしていられる時間には限界がある。
彼女は部屋の隅に置いてあった座布団を二枚重ね、そこにあごを乗せて外を眺めた。
「雪、ずっと降ってる」
ミズホはノートを膝に置いていたが、今日はいつものように細かく書き続けてはいなかった。
「日本海側って感じだね」
「ミズホ、来たことある?」
「ない。秋田も青森も、ほとんど」
「私も。まさか90式で来るとは思わなかったけど」
「普通は思わないね」
サヤは畳の上にごろりと転がった。
「動けない日って、変な感じ」
「焦る?」
「ちょっと。でも、さっき外に出たら分かった。これは無理」
「うん。無理な日は、無理」
ミズホはそう言って、ノートを閉じた。
サヤが意外そうに見る。
「今日は書かないの?」
「最低限はもう書いた。あとは、ずっと記録してても仕方ない」
「珍しい」
「私だって休むよ」
サヤは少し笑った。
「じゃあ休もう。公式に」
「公式に休むって何」
「本日の任務、のんびり」
「それはいいかも」
二人は布団に寄りかかり、持ってきていた非常食の袋を整理したり、ワークマンで手に入れた靴下や手袋を乾いたものと湿ったものに分けたりした。
サヤは厚手の靴下を一足手に取り、しみじみと言った。
「この靴下、命だね」
ミズホがうなずく。
「だから言ったでしょ」
「靴下担当の言葉は重い」
「濡れた足は本当に危ないから」
「はい」
サヤは素直に靴下を畳み、個人別の袋へ入れた。
それから、食料袋を開ける。
「おやつにしていいやつは?」
ミズホは少し考えてから、舟形でもらった干し柿の残りを指差した。
「少しだけなら」
「少しだけって、どれくらい?」
「二つ」
「三つ」
「二つ」
「二つ半」
「半分を作る方が面倒」
「じゃあ二つ」
サヤは干し柿を二つ取り、ひとつをミズホへ渡した。
「はい。休憩」
ミズホは受け取って、少しだけ笑った。
「ありがとう」
昼過ぎ、食堂で簡単な食事を作った。
通電時間は限られているため、調理も最小限だった。
ご飯と味噌汁、缶詰を使った煮物、漬物。昨日と大きくは変わらない。
それでも、温かいものが食べられるだけで十分だった。
巡回班はまだ戻っていなかった。
ただ、途中で短い無線連絡が入り、道の駅象潟までは確認に向かえているらしい。無理はせず、天候を見ながら戻るとのことだった。
食後、三人はまた和室へ戻った。
外は変わらず白い。
昼になっても空は明るくならない。雪雲が厚く、時間の感覚が少し曖昧になる。
シオナは再び教本を開いた。
今度は雪道と低温時の点検に関わる部分を読む。
「凍結時の確認……履帯周り、排気、吸気、視界装置、ハッチの固着」
サヤは布団に転がったまま聞いていた。
「ハッチ固まったら困るね」
「困る。出られなくなるし、確認もできない」
ミズホが横から言う。
「朝の雪落としで、ハッチ周りを先にやる理由だね」
「うん」
シオナはノートに書き写す。
ハッチ周りは最優先。
外部ラック固定。
濡れ物箱の開閉確認。
履帯に氷雪の詰まり。
視界装置の雪。
エンジン始動前の異音。
サヤはそれを見て、少しだけ感心したように言った。
「シオナ、だんだん本当に90式の人になってきたね」
「何それ」
「90式係」
「それは最初からそうじゃない?」
「最初は乗ってる人だった。今は面倒を見る人」
その言葉に、シオナは少し黙った。
面倒を見る人。
確かに、最初は動かすだけで精一杯だった。
今も分からないことだらけだ。整備士ではない。専門家でもない。葛西曹長が見れば、危なっかしいところばかりだろう。
それでも、自分はこの車両の音を聞くようになった。
雪の付き方を見るようになった。
外部ラックの緩みを気にするようになった。
燃料の匂いに敏感になった。
ただ乗っているだけではなくなっている。
「そうかも」
シオナは小さく言った。
サヤは満足そうにうなずいた。
「うん。90式も安心してるよ」
ミズホが微妙な顔をする。
「戦車が安心するかは分からないけど」
「するでしょ。たぶん」
「たぶんね」
シオナは教本に目を戻しながら、少し笑った。
午後は、ゆっくり過ぎた。
サヤは窓辺で雪を眺めたり、畳の上で軽く体を伸ばしたりしていた。
ミズホは持ち物の整理をし、薬品ケースの中身をもう一度確認した。
シオナは教本を読み続け、ときどきノートに短くまとめた。
吹雪の音が、ずっと窓の向こうにある。
時々、館内の照明が弱く揺れる。風力の出力が安定しないのだろう。
それでも灯りは落ちない。
残してくれている電気。
シオナはその言葉を思い出した。
完全ではない。
便利でもない。
でも、誰かが見て、調整して、守っているから、ここには灯りがある。
それは90式も同じなのかもしれないと思った。
走れるから走るのではない。
見て、手を入れて、止まる時は止まる。
そうして初めて、次の道へ行ける。
夕方近く、巡回班が戻ってきた。
道の駅象潟までは確認できたが、その先は吹雪が強く、無理をせず戻ったという。
施設に戻った自衛官は、雪まみれになりながらも笑っていた。
「三人が出なくて正解でした。今日は駄目です」
シオナはそれを聞いて、心からうなずいた。
「分かりました。明日も天気を見て決めます」
「それがいいです。90式でも、海沿いの吹雪は相手にしない方がいい」
サヤが小声で言った。
「90式でも駄目なら、人間はもっと駄目だね」
ミズホが答える。
「だから今日は部屋で正解」
その夜も、風呂は時間制だった。
三人は大浴場の時間に合わせて体を温め、朝のように雪へ寝転がることはしなかった。
サヤは少し未練がありそうだったが、ミズホが先に言った。
「今日はもうやらない」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「ミズホ、厳しい」
シオナは苦笑した。
「今夜は普通に温まろう」
「シオナが一番信用ならない」
「朝の一回だけ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは駄目」
三人は湯船の中で笑った。
部屋に戻ると、外はまだ吹雪いていた。
シオナは教本を閉じ、ノートを重ねた。
今日は一日、ほとんど進んでいない。距離としてはゼロだ。
それでも、何もしていないわけではなかった。
90式の低温時点検を読み込んだ。
装備を乾いたものと濡れたものに分け直した。
薬品を確認した。
そして、進めない時に進まないことを、もう一度体に覚えさせた。
ミズホは今日の記録を書いた。
吹雪継続。出発見合わせ。
由利本荘・秋田地本巡回班、道の駅象潟方面を確認。
強雪によりそれ以上の北上は見合わせ。
三人ははまなすに滞在。
シオナ、90式整備教本を確認。
サヤ、装備整理と休養。
ミズホ、医療品・記録整理。
移動距離なし。休養日。
サヤがそれを見て言った。
「休養日って、いいね」
「必要な日だから」
ミズホはそう言ってノートを閉じた。
シオナは布団に入った。
外では雪が降り続いている。
90式はまた白くなっているだろう。
明日も出られるかは分からない。
けれど今日、焦らずに止まれたことは、たぶん正しかった。
サヤは布団の中で小さく言った。
「明日は晴れるかな」
ミズホが答える。
「晴れなくても、せめて風が弱いといいね」
シオナは目を閉じた。
「出られる日に出よう」
それが、この旅の新しい約束になっていた。
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