4話 偽りの天才ピアニストの身代わりはもうやめます。~私を暗闇から救い出したのは、至高のサックス奏者の執着愛でした~
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
従姉妹イザベラの「影」として、地下の防音室でピアノを弾き続けるエレーナ。 才能を搾取され、幽霊のように生きる彼女を見つけ出したのは、冷酷な天才サックス奏者、ギルバートだった。 嘘にまみれた華やかなステージ。その裏で、ギルバートはエレーナの指と魂を執拗に暴いていく。 今夜、偽りのミューズが堕ち、地下の幽霊が真実の愛に鳴り響く――。
本文
深夜二時。客も従業員も去り、静まり返った『ブルームーン』のフロアには、都会の喧騒が遠い波音のようにわずかに届くだけだった。
エレーナは、地下ブースの清掃を終え、重い扉を開けて地上へと上がってきた。いつものように通用口から夜風に吹かれて帰るはずだった彼女は、ステージの上、一点に落ちているスポットライトの下で足を止めた。
「……あ」
そこに、彼がいた。
ギルバート・ウィンストン。彼は椅子に深く腰掛け、銀色のテナーサックスを膝に置いたまま、琥珀色の液体が揺れるグラスを傾けていた。
「遅かったな。影の功労者は、掃除まで完璧にこなさなければならないのか」
彼の低い声が、無人のフロアに心地よく響く。エレーナは心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受け、その場に釘付けになった。
「ギ、ギルバート様……。失礼いたしました、すぐに帰ります」
「待ちなさい。……君がエレーナだね。イザベラの影武者(ゴースト)さん」
逃げようとしたエレーナの背中に、その言葉が鋭い矢のように突き刺さった。彼女は血の気が引くのを感じ、ゆっくりと彼を振り返った。
ギルバートは立ち上がり、音もなく彼女に近づく。長身の彼に見下ろされ、エレーナは震える肩を抱いた。
「何を……おっしゃっているのか……」
「とぼける必要はない。私は耳がいいんだ。そして、不純な音が混じるのを何より嫌う」
彼はエレーナのすぐ目の前で立ち止まり、その細い顎を指先で掬い上げた。至近距離で見つめる彼の瞳は、冷徹な鑑定士のそれでありながら、奥底には熱い炎が揺らめいている。
「昨日、そして今日のリハーサル。……私のサックスに答え、私を絶頂へと導いたのは、あの上に座っていた人形(イザベラ)じゃない。地下にいた、君だ。そうだろう?」
エレーナは言葉を失った。否定すべきなのに、彼の指から伝わる体温と、その圧倒的な存在感に、魂が降伏を叫んでいた。
「……君のピアノは、私を求めていた。私のアドリブに狂わされ、もっと激しく、もっと深く愛してほしいと……音で泣いていただろう?」
「あ……っ……」
ギルバートは彼女を離すと、ステージ上のアップライトピアノを指し示した。
「証明してみせろ。……今ここで、私のためだけに弾け。もし君が私の期待を裏切るなら、イザベラ共々、この店から叩き出すだけだ」
それは、残酷な招待状だった。エレーナはフラフラと歩み寄り、鍵盤の前に座った。
ギルバートがサックスを構え、最初の一音を放つ。
――それは、リハーサルよりもずっと密やかで、淫靡なほどに柔らかい音色。
エレーナの指が、誘われるように鍵盤をなぞった。
スピーカーを通さない、生の音。ピアノの弦が震え、サックスのリードが震える。二人の吐息が重なり合う距離でのセッション。
ギルバートの音が、エレーナの首筋を這い上がる。彼女は夢中で応えた。イザベラに禁じられていた「余計な装飾」も、今はすべて彼に捧げるための宝石に変えた。
彼が低く唸るような音を吹けば、彼女は鍵盤を深く、強く叩いて彼の腰を支える。彼が高音で切なく泣けば、彼女は繊細なアルペジオでその背中を愛撫した。
音階が重なるたびに、エレーナの背筋には未知の快感が走り、意識が白く染まっていく。
(ああ、これだ……。私は、このために生まれてきたんだ……)
地下のブースでは決して味わえなかった、生の共鳴。
ギルバートのサックスが、彼女のピアノを力強く抱きしめ、押し潰し、そして一つに溶け合う。それは音楽を通じた、どんな行為よりも官能的な交わりだった。
最後の一音が夜の空気に溶け、静寂が訪れたとき、エレーナは肩で息をしながら鍵盤に突っ伏した。
「……素晴らしい。期待以上だ」
背後から、ギルバートの熱い腕が彼女を包み込んだ。
彼はエレーナの耳元に唇を寄せ、震える彼女の指先を自分の大きな手で覆った。
「君の指は、私の音を食べるのがこんなに上手いのか。……震えているな。快感に耐えきれず、ピアノでイッてしまったか?」
「ギルバート、様……っ」
恥辱と、それ以上の喜びでエレーナが涙をこぼすと、彼はその涙を優しく舌で掬い取った。
「決めたよ。君を、私の私物にする。……イザベラのような三流の入れ物には、もう二度とこの音は触れさせない」
ギルバートは、エレーナの指先に誓いの口づけを落とした。
その瞳には、救済者としての慈悲など欠片もなく、ただ「極上の楽器」を手に入れた蒐集家の、暗く、深い欲望が渦巻いていた。
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