90式のいない夜
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
部屋の整理が一段落したころには、窓の外が少し暗くなり始めていた。
大湊の冬の夕方は早い。
海の方から薄い灰色が押し寄せてきて、基地の建物の輪郭を少しずつぼかしていく。窓ガラスの向こうでは、除雪された通路を隊員が数人歩いていた。遠くで車両のエンジン音が低く鳴り、すぐに止まる。
部屋の中には、ようやく三人分の場所ができていた。
シオナのベッド脇には、90式の簡易マニュアルと道路地図。
サヤの棚には、大洗のメモと小さな私物袋。
ミズホの机には、記録ノートと医療ポーチ、分類した薬と衛生用品。
床にはまだ少し荷物が残っていたが、少なくとも足の踏み場はあった。
それだけで、三人には十分な進歩だった。
サヤは自分のベッドに腰を下ろし、両手を後ろについて天井を見た。
「……静かだね」
シオナは窓のそばに立ったまま振り向いた。
「基地なのに?」
「基地だからもっと音がすると思ってた。でも、なんか変な静かさ」
ミズホは机の前で薬の箱を閉じながら言った。
「外の音はあるよ。人もいるし、車も動いてる」
「そうなんだけどさ」
サヤは言葉を探すように、少し黙った。
「90式の音がしない」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
シオナは窓から視線を外した。
ミズホも手を止めた。
90式は格納庫にいる。
整備隊員たちが見てくれている。
富士学校の車両で、砲弾も銃弾も積んでおらず、エンジン回りには消音装備があり、車体側は簡易診断では万全と言われた。今は一番安全な場所にいる。
それは分かっている。
分かっているのに、部屋の中には、何か一つ大きなものが足りなかった。
サヤは苦笑した。
「変だよね。戦車が近くにないと落ち着かないって」
ミズホは箱のふたを押さえながら、静かに答えた。
「変じゃないよ。ずっと一緒だったから」
シオナはベッド脇の簡易マニュアルを見た。
最初に見つけた時は、あの車体はただの大きな機械だった。
動くかどうかも分からない。自分に扱えるものなのかも分からない。ただ、そこにあって、そこから離れる方が怖かった。
渋谷を出た。
東京を抜けた。
アクアラインを渡った。
大洗へ行った。
土浦、宇都宮、福島、会津、山形、秋田、青森、下北。
ずっと、90式の中か、すぐ近くにいた。
「……あの子がいない夜って、初めてかもしれない」
シオナが言うと、サヤが少しだけ目を丸くした。
「ほんとだ」
「ホテルでも温泉でも、外にはいたから」
「駐車場とか、玄関前とか、道の駅とか」
ミズホが続けた。
「神町でも秋田でも、整備はしてもらったけど、完全に預けて離れたわけじゃなかったね」
シオナはうなずいた。
「今回は、ちゃんと預けた」
「ちゃんと休ませるためにね」
サヤが言った。
その言い方が、少しだけ優しかった。
夕食は、食堂で取ることになった。
三人は部屋を出て、案内された食堂へ向かった。廊下の途中で何人かの隊員とすれ違う。会議室で会った人もいれば、格納庫で90式を見ていた陸自隊員もいた。
若い陸自隊員がシオナたちに気づき、軽く会釈した。
「荷物、片付きましたか」
サヤがすぐに答える。
「第一部は終わりました」
「第一部?」
「洗濯編がまだです」
隊員は少し笑った。
「それは長編ですね」
ミズホが真顔で言う。
「かなりの長編です」
食堂は、朝より少し賑やかだった。
大湊の海自隊員、しもきたに同乗していた陸自隊員、むつ市側の連絡員らしい人たちが、それぞれの席で食事を取っていた。声は大きくない。けれど、完全な沈黙ではない。
温かい汁物の匂いがした。
三人は端の席に座り、配られた夕食を前に手を合わせた。
白米。汁物。魚。野菜の煮物。漬物。
特別なものではない。けれど、旅の途中なら、これだけで十分なごちそうだった。
サヤは一口食べて、目を細めた。
「毎回言ってる気がするけど、普通のごはんって強い」
ミズホがうなずく。
「強いね」
シオナは汁物をゆっくり飲んだ。
温かさが喉から胸に落ちていく。
走らなくていい夜。
どこかへ出発する準備をしなくていい夕食。
燃料残量や雪の具合や道路幅を考えなくていい時間。
それなのに、どこか落ち着かなかった。
食事を終えて部屋に戻ると、暖房が低く鳴っていた。
外はもう暗い。
窓の向こうには、基地の灯りがぽつぽつと見える。遠くに岸壁の照明があり、その向こうは黒い海だった。
サヤはベッドに腰を下ろして、ブーツを脱いだ。
「なんかさ」
「うん」
シオナが返事をする。
「こういう部屋で寝るの、久しぶりすぎて、逆に寝られるか不安」
ミズホは洗面道具を片付けながら言った。
「寝られるよ。疲れてるから」
「そうかな」
「たぶん寝る。文句言いながらすぐ寝る」
「ミズホ、最近私の扱い雑じゃない?」
「慣れた」
サヤは少し笑い、ベッドに横になった。
シオナは自分のベッド脇に簡易マニュアルを置き直した。
それから、地図を一枚だけ取り出す。
東京から大湊まで。
会議室で引かれた線ほど正確ではない。旅の途中で何度も折りたたみ、端が擦れた地図だった。
サヤが横になったまま言った。
「また地図見てる」
「うん」
「明日どこ行くか決めなくていいんだよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
ミズホが机の前から振り返った。
「明日は、まず基地内の案内を受ける予定だよ。90式の整備状況も聞けるはず」
「それは見たい」
シオナがすぐに言う。
サヤは枕に顔を埋めたまま笑った。
「ほら、やっぱり90式のこと考えてる」
「それは考えるよ」
「シオナの相棒だもんね」
シオナは少し黙った。
相棒。
そう呼んでいいのか分からなかった。
90式は車両で、機械で、戦車だった。けれど、ただの機械なら、ここまで来られなかった気もする。
ミズホが記録ノートを閉じた。
「今日の記録、書いておくね」
「まだ書くの?」
サヤが顔を上げる。
「今日も大事だから。会議のこと、荷物を下ろしたこと、90式を整備に預けたこと、部屋に荷物を入れたこと」
「部屋に荷物を入れたことまで記録するの?」
「するよ」
「なんで?」
ミズホはペンを持ったまま少し考えた。
「今日、初めて移動しない前提で荷物を置いたから」
その言葉に、サヤは黙った。
シオナも地図から目を離した。
移動しない前提。
それは、たしかに今日の一番大きな変化だった。
これまでは、どこで寝ても、翌朝には荷物をまとめた。
いつでも出られるようにした。
長靴はすぐ履ける場所。地図は手元。食料は取り出しやすい場所。医療品はミズホの近く。燃料と天気と道路状況を気にする。
でも今、服はロッカーに入っている。
医療品は机に並んでいる。
寝具はベッドに敷かれている。
水は部屋の隅に置いた。
地図は、明日の出発のためではなく、これまでを確かめるために広げている。
サヤは天井を見ながら言った。
「じゃあ、記録しておいて」
ミズホはうなずいた。
「うん」
ペンが紙を走る音が、部屋の中に小さく響いた。
シオナはその音を聞きながら、窓の外を見た。
格納庫はこの部屋からは見えない。
けれど、あのどこかに90式がいる。荷物を下ろされ、内部まで見られ、砲塔や旋回装置も確認される。三人を運ぶためではなく、車両として点検されている。
それが少し寂しく、同時に少し安心だった。
サヤはもう眠そうだった。
「ミズホ、電気消す前に言って」
「まだ書いてる」
「じゃあ先に寝るかも」
「言うと思った」
シオナは地図を畳んだ。
簡易マニュアルの隣に置き、布団に入る。
ベッドは柔らかかった。柔らかすぎるくらいだった。
90式の車内とは違う。
外の冷気も、鉄の匂いも、狭さもない。
エンジンの余熱もない。車体のかすかな軋みもない。
安全なはずなのに、少しだけ心細い。
「シオナ」
暗くなる前の部屋で、ミズホが声をかけた。
「なに?」
「90式は、ちゃんと見てもらってるよ」
「うん」
「私たちも、ちゃんと休もう」
シオナはしばらく黙ってから、うなずいた。
「うん」
ミズホが机のランプを消す。
部屋の明かりも落とされ、窓の外の基地の灯りだけが、薄くカーテン越しに残った。
サヤの声が、暗がりの中から聞こえた。
「おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみ」
三人の声が重なり、部屋は静かになった。
90式のいない初めての夜。
それは、思ったより落ち着かなくて、思ったより暖かかった。
そして三人は、久しぶりに、出発の準備をしないまま眠りについた。
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