第26話 フランスへ向かう旗
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
春が近づくと、ミュンヘンの通りには泥が増えた。
雪は消えたが、石畳の隙間に残った水が靴底にまとわりつき、馬車の車輪と自動車のタイヤがそれを黒く伸ばしていく。店先の硝子には冬の白さがまだ残っていたが、窓の内側では少しずつ明るい布や旅行鞄が飾られ始めていた。
駅前の旅行代理店には、早くもフランス行きの案内が出ている。
パリ。
マルセイユ。
ランス。
ストラスブール。
そして、その横には小さく、1938年フランス大会の文字があった。
アドルフ・ヒトラー意匠事務所の一階では、ユンゲが朝の郵便を整理していた。
封筒の中には、商工会からの礼状、ベルナドッテ商会の追加相談、硝子業者の請求書、そしてゲッベルス広告社からの妙に厚い包みがあった。
ユンゲはその包みを見て、少しだけ眉を動かした。
「これは」
エルゼが帳簿を見ながら答える。
「開ける前から騒がしい封筒ですね」
「まだ中は見ていません」
「差出人でわかります」
二階では、ヒトラーが朝から機嫌を悪くしていた。
理由は、昨日届いた旅行代理店の案内板見本だった。フランス語併記の案内板で、ドイツ語の下に小さなフランス語が添えられている。ヒトラーはそれを見て、文字の高さが合わない、国名の扱いが雑だ、矢印が腰抜けだと怒っていた。
「矢印に意志がない」
フランツは図面台の前で、黙って線を引き直していた。
「矢印にも意志が要るんですか」
「要る。行けと言うなら、行けと示せ。こちらかもしれません、という矢印は案内ではない」
「フランス語の方は少し小さくしますか」
「小さくしすぎると失礼だ。大きくしすぎると主従が崩れる」
「難しいですね」
「だから仕事になる」
その時、一階の扉が開いた。
ユンゲの声がする。
「ご用件は…」
それに続いて、聞き覚えのある、やや低く整った声が返った。
「予備提案書を持参いたしました」
フランツは手を止めた。
クレープスが製図机から顔を上げる。ヨードルは工程表を伏せた。カイテルは電話機の横で小さく溜息をついた。
ブルクドルフが言った。
「またか」
エルゼの声が下から上がる。
「所長。ヒムラー様です」
ヒトラーは赤鉛筆を握ったまま、目を閉じた。
「またヒムラーか」
階段を上がってきたヒムラーは、相変わらず整っていた。
帽子を取り、丸眼鏡の奥から事務所を一通り眺める。両腕には、きっちり紐で束ねられた書類の束がある。紙の端は揃い、分類札には細かな番号が振られていた。
ユンゲはその後ろから来客簿を持って上がり、机の端で書いた。
ヒムラー様
国際スポーツ関連予備提案書持参
分類済
契約前
要警戒
ヒムラーはそれを横目で見て、少しだけ満足そうにした。
「記録が整ってきましたね」
ユンゲは顔を上げない。
「受付ですので」
ヒトラーは机を叩いた。
「何だ、今度は」
「1938年フランス大会に関連する、鉄道・旅行代理店・スポーツ用品店・応援用品の意匠計画です」
ヒムラーは書類の束を机に置いた。
紐を解くと、分類札が扇のように広がった。
「第一分類。鉄道駅掲示」
「第二分類。旅行代理店窓口」
「第三分類。スポーツ用品店店頭装飾」
「第四分類。応援旗および携行用品」
「第五分類。フランス国内現地案内」
「第六分類。観戦者識別整理」
エルゼが即座に言った。
「第六分類は当事務所の業務ではありません」
ヒムラーは少し残念そうに頷いた。
「現段階では参考分類です」
「参考でも業務外です」
「迷子防止、団体移動の効率化、駅構内滞留の軽減に有効です」
「人を番号で管理する依頼は受けません」
「番号ではなく、分類です」
「なおさら受けません」
ヒトラーは、第五分類までの書類を見ていた。
「フランス国内現地案内」
「はい」
ヒムラーが静かに答える。
「ベルリン大会以降、所長の会場構成、案内導線、地方展示の評判はミュンヘンの外にも届いております。国内の展示だけではありません。この機に、国外も視野に入れてみてはいかがかと」
「国外」
ヒトラーはその言葉を、舌の上で転がすように繰り返した。
ヒムラーは頷いた。
「国境を越える前から、すでに展示は始まっています。駅に向かう看板、旅行代理店の窓口、応援旗、切符袋、観戦案内。人々がフランスへ向かう時、彼らはすでに見られています」
ヒトラーは黙った。
気に入らない。
だが、間違ってはいない。
「外国へ向かう者は、駅に着いた時点ですでに見られている」
ヒトラーは低く言った。
「帽子、荷物、切符、旗、案内板。そのすべてが、国の玄関になる」
ヒムラーは満足げに首を傾けた。
「まさに、その通りです」
「君に言われると腹が立つ」
「恐縮です」
「褒めていない」
エルゼは書類の最初の一枚を取った。
「正式依頼はどこからですか」
ヒムラーは間を置いた。
「現段階では、複数方面への予備提案です。鉄道関係、旅行代理店、スポーツ用品組合、商工会のいずれにも可能性があります」
エルゼは顔を上げた。
「正式依頼はまだない、ということですね」
「予備提案です」
「契約前です」
「はい」
「では、請求書は出せません」
「準備に価値があります」
「価値と売上は別です」
ヒムラーは、それも分類済みだと言いたげな顔をした。
そこへ、一階から騒がしい足音が聞こえた。
ユンゲが階段の方を向く。
「今度はどなたでしょう」
返事を待つ前に、二階の扉が開いた。
ゲッベルスが、大きな筒を抱えて入ってきた。
「お集まりのようで何よりです」
ヒトラーは眉間に皺を寄せた。
「呼んでいない」
「呼ばれなくても、必要な時に来るのが広告です」
「広告ではない。迷惑だ」
ゲッベルスは机の空いた場所に筒を置いた。
「1938年フランス大会向けの応援ポスター案です。鉄道、旅行代理店、スポーツ用品店、どこへ出しても目に入る」
「目に入るだけなら石でも投げればいい」
「石は記憶に残りません。ポスターは残ります」
ゲッベルスは筒からポスター案を取り出し、机いっぱいに広げた。
紙面は騒がしかった。
大きなサッカーボール。
斜めに走る太い線。
旗。
走る選手の脚。
叫ぶような文字。
フランスへ。
勝利へ。
ドイツの声をスタジアムへ。
ヒトラーは、しばらく黙って見た。
それから、低い声で言った。
「これはポスターではない」
ゲッベルスはにやりとした。
「では何でしょう」
「喧嘩だ」
フランツは咳をこらえた。
ヒトラーは赤鉛筆を持ち上げた。
「文字が大きすぎる。球が前に出すぎる。選手の脚で案内が読めん。旗が三つもある。斜線が叫んでいる。全体に、品がない」
ゲッベルスは平然としていた。
「フランスで見られるのです。静かにしていては、誰もこちらを見ません」
ヒトラーは赤鉛筆を止めた。
室内に、少しだけ間ができた。
国内なら、叩き潰していた。
駅に貼るなら、方向を優先させた。商工会館に出すなら、線を整えさせた。販売店なら、入口と受付を先に考えさせた。
だが、これはフランスへ向かう旗だった。
駅の雑踏の中で、旅行代理店の窓の中で、スポーツ用品店の棚の横で、外国行きの切符を握った者に届かせる紙である。
フランスの通りに埋もれるなら、静かな正面だけでは足りない。
ヒトラーは、いかにも不本意そうに赤鉛筆を机に置いた。
「……好きにしろ」
ゲッベルスが瞬きをした。
「よろしいので?」
「よろしいとは言っていない。好きにしろと言った」
「ほとんど同じです」
「違う」
「では、どこまで」
ヒトラーはポスターを睨んだ。
「読める範囲で騒げ」
ゲッベルスは笑った。
「それは良い制限です」
「良くない。必要最低限の譲歩だ」
「譲歩は広告の友です」
「君の友人は多すぎる」
ヒムラーが書類を一枚差し出した。
「応援用品の分類と併せれば、非常に効果的です。旗の寸法を三種類に分け、団体観戦者の移動先別に色帯を」
エルゼが遮った。
「色帯による観戦者区分も業務外です」
「応援旗の寸法規格です」
「旗の寸法は業務内です。人の区分は業務外です」
ヒムラーは眼鏡を直した。
「区別できれば保護できます」
「保護の契約はありません」
ヒトラーは、ヒムラーの分類表を手に取った。
そこには、ドイツ代表観戦者、オーストリア代表観戦者、ドイツ語圏観戦者、国境経由別、宿泊予定地別といった項目が、細かく並んでいた。
ヒトラーの指が、一つの項目で止まる。
「ドイツ語圏観戦者」
ヒムラーは頷いた。
「ドイツとオーストリアの観戦者導線は、一部重なります。案内文面も共通化できます。効率のため、同一分類の下に」
「なぜオーストリアを同じ束に入れる」
ヒムラーは少し首を傾げた。
「言語圏としては近く、鉄道経路も一部重複しますので」
「近いことと、同じことは違う」
室内が静かになった。
フランツは、ヒトラーの横顔を見た。
その声には、いつもの怒りと、別の硬さが混ざっていた。
ゲッベルスが軽く肩をすくめる。
「しかし、一枚のポスターで済みます。ドイツ語圏の誇り、フランスへ。どうです、悪くない」
「悪い」
ヒトラーは即答した。
「ウィーンは飾りすぎる。ミュンヘンは頑固すぎる。ベルリンは背伸びしすぎる。これを一枚にするな。紙が裂ける」
ゲッベルスは口を開きかけて、少し笑った。
「所長の故郷びいきですか」
「黙れ」
「では、違うと」
「旗が違う。歌が違う。駅で迷う場所も違う。なら案内板も違う」
ヒムラーは分類表を見た。
「ですが、共通部分を整理すれば」
「共通部分だけを見て、違う部分を畳むな」
ヒトラーは赤鉛筆で、ドイツ語圏観戦者という項目に線を引いた。
「旗は人をまとめる。だが、人を畳むための布ではない」
ヒムラーは一瞬だけ目を細めた。
「畳む、ですか」
「畳まれるのは図面だけで十分だ」
エルゼが、その分類表をヒトラーの手元から取り上げた。
「この項目は削除します。ドイツ代表とオーストリア代表は別資料。共通文面は参考に留める。観戦者識別整理は除外」
ヒムラーは少しだけ残念そうに頷いた。
「承知しました」
「承知が早い時ほど不安です」
「改善の余地があるということです」
「ありません」
ユンゲは来客簿に追記した。
観戦者識別整理案
除外
ドイツ・オーストリア案内
別資料
ゲッベルスはその横で、ポスター案を机の上にさらに広げた。
「では、こちらはどうです。ドイツ向けとオーストリア向けで色を変える。構図は似せる。文字は別にする」
ヒトラーは唸った。
「似せるな」
「では完全に別で」
「別にしすぎるな」
「難しいですね」
「だから仕事になる」
フランツは思わず笑った。
ヒトラーは彼を睨んだ。
「何がおかしい」
「いえ。いつもの話になったので」
「いつもの話なら、仕事をしろ」
その日から、事務所は妙な忙しさに包まれた。
正式契約ではない。
だが、予備提案は必要だった。ヒムラーは鉄道、旅行代理店、スポーツ用品店、商工会への提出順まで分類し、ゲッベルスはポスター案を次々と増やした。
うるさい紙。
静かな案内板。
旗。
切符袋。
窓口の飾り。
スポーツ用品店の店頭に置くサッカーボール台。
フランス語併記の小冊子。
そして、ドイツ代表とオーストリア代表を雑に重ねないための、二種類の旅行案内。
ヒトラーはそのすべてに文句を言った。
「球を大きくしすぎるな。球は競技の中心だが、紙の中心ではない」
「旗竿が細い。紙の中の旗でも、折れそうな旗は不安に見える」
「フランス語のアクセント記号を馬鹿にするな。読めない文字は飾りではない」
「応援用品の棚は入口に置くな。客が詰まる」
「切符袋に顔を描くな。切符は顔ではない」
ゲッベルスは、そのたびに言い返した。
「顔があれば手に取ります」
「声がなければ応援ではありません」
「斜線は速度です」
「大きい文字は勝利です」
「読ませる前に振り向かせるのです」
そしてヒトラーは、毎度のように怒った。
「振り向かせた後に読めなければ、ただの騒音だ」
ヒムラーはその横で、いつの間にか別の表を作っていた。
駅別掲示物分類表。
旅行代理店窓口対応表。
応援旗寸法規格案。
団体旅行者移動導線案。
現地集合者補助案。
エルゼは最後の二つを抜き取り、机の端へ置いた。
「業務外」
「補助です」
「業務外」
「将来的には」
「将来的にも、契約書を見てからです」
ヒムラーは黙って、分類番号だけを書き直した。
夕方、フランツはポスターの色校正を眺めていた。
ゲッベルスの案は、たしかに騒がしい。
だが、ヒトラーが赤鉛筆で視線の流れを直した後のものは、前より見やすくなっていた。大きな文字は残っている。サッカーボールも大きい。斜線もまだ叫んでいる。だが、目が迷わない。
騒がしいが、読める。
フランツがそう呟くと、ゲッベルスが嬉しそうに言った。
「その通りです。騒がしく、しかも読める」
ヒトラーは隣から言った。
「不本意な完成度だ」
「褒め言葉として受け取ります」
「受け取るな」
「では、広告用語として記録しておきます。不本意な完成度」
「記録するな」
ユンゲが受付机から顔を上げた。
「記録しますか」
ヒトラーが睨む。
「しなくていい」
ゲッベルスは笑っていた。
「惜しいですね。良い言葉なのに」
「良くない」
「耳に残ります」
「君の言葉は、たいてい耳に残りすぎる」
「広告ですから」
「病気だ」
その夜、事務所の机には、三種類の完成見本が並んだ。
一つ目は、鉄道駅向けの案内掲示。
文字は落ち着いている。ドイツ語とフランス語は同じ線の上に置かれ、矢印ははっきりと進む方向を示している。旗は小さいが、見失わない。
二つ目は、旅行代理店の窓口ポスター。
これはゲッベルスの勝ちだった。大きな球、大きな文字、斜めに走る選手。だが、ヒトラーが線を整えたせいで、騒がしさの中に一つの流れがある。
三つ目は、ドイツ代表とオーストリア代表を分けた旅行小冊子の表紙。
似ているが、同じではない。
ドイツ向けは直線が強く、鉄道の線路が遠くへ伸びている。
オーストリア向けは、少し飾りのある枠が使われている。だが、甘すぎない。ウィーンの装飾を嫌いながら、完全には消さない。ヒトラーはそこにかなり長い時間を使った。
フランツはそれを見て言った。
「所長、オーストリア向けの方が少し丁寧ですね」
ヒトラーは不機嫌そうに振り向いた。
「何だと」
「いえ、枠の扱いが」
「ウィーンは飾りすぎる。だから削る場所を間違えると、ただの貧相になる」
「なるほど」
「なるほどではない。覚えろ」
フランツは頷いた。
「所長は、オーストリアをドイツと一緒に扱われるのが嫌なのですか」
ヒトラーはしばらく黙った。
二階の窓の外では、街灯が濡れた石畳に映っていた。
「一緒に扱うなとは言っていない」
ヒトラーは低く言った。
「雑に重ねるなと言っている」
それだけだった。
だがフランツには、それで十分だった。
数日後、予備提案は正式な形で各方面へ送られた。
鉄道関係者からは、駅掲示の案が好評だった。
旅行代理店は、ゲッベルスの騒がしいポスターを気に入った。
スポーツ用品店は、応援旗とサッカーボール台の見本を求めた。
商工会は、ドイツ代表とオーストリア代表を別資料にした点について、少し面倒だと書いてきた。だが、最終的には「整理として妥当」と返した。
ヒムラーはその返答を見て、少しだけ残念そうに言った。
「共通分類の方が効率的だったのですが」
エルゼは返した。
「効率だけで紙を作ると、人が紙に合わせることになります」
ヒムラーは眼鏡を直した。
「それは、悪いことばかりではありません」
エルゼは即答した。
「当事務所では悪いことです」
ヒトラーは、赤鉛筆で最後の校正をしながら言った。
「紙に人を合わせるな。人が迷う場所に紙を置け」
ヒムラーはその言葉をじっと聞いた。
「興味深いですね」
「興味を持つな」
「分類上、重要な考え方です」
「分類するな」
ゲッベルスは新しいポスター見本を丸めながら笑った。
「所長、ご安心ください。私のポスターは分類される前に人の目に入ります」
「だから危ないのだ」
「危ないものほど売れます」
「売るな」
「売ります」
「せめて読めるように売れ」
「そこは所長に直していただきました」
ヒトラーは顔をしかめた。
「不本意だ」
「不本意な完成度ですね」
「その言葉を繰り返すな」
ユンゲは受付簿を開いた。
国際スポーツ関連予備提案
1938年フランス大会向け
鉄道掲示
旅行案内
スポーツ用品店装飾
応援旗および携行用品
観戦者識別整理案は除外
ドイツ・オーストリア案内は別資料
ポスター案、騒がしいが採用
彼女は最後の一行を読み返した。
騒がしいが採用。
そのまま残した。
夜になり、事務所の灯りが落とされるころ、ヒトラーは一階の窓に貼られた試作ポスターを見ていた。
大きな球。
斜めの線。
フランスへ向かう文字。
その下に、小さく整えられた旅行案内。
遠くから見れば、まず騒がしさが目に入る。近づけば、道が読める。
ヒトラーは腕を組んだ。
「騒がしい」
フランツが横で言った。
「採用されました」
「だからなお悪い」
「でも、読めます」
「読める騒音ほど厄介なものはない」
フランツは笑いかけて、やめた。
窓の外には、夜のミュンヘンがあった。
フランスへ向かう旗は、まだここにある。
これから駅へ行き、旅行代理店へ行き、スポーツ用品店へ行き、やがて国境を越える人々の手に渡る。
ドイツの旗。
オーストリアの旗。
似ている言葉。
違う駅。
違う歌。
同じ紙に畳まれなかったものたち。
フランツは、机の上に残されたヒムラーの分類表を見た。赤鉛筆で消された線が、まだ紙の上に濃く残っている。
人を畳むための布ではない。
所長は、そう言った。
その言葉がどこまで届くのか、フランツにはわからなかった。
ただ少なくとも、この事務所の机の上では、旗は一枚に畳まれなかった。
ユンゲが受付簿を閉じる音がした。
エルゼが帳簿を棚へ戻す。
ゲッベルスは最後まで自分のポスターを見て満足そうにしていた。
ヒムラーは、除外された第六分類の紙を黙って鞄に戻した。
ヒトラーは窓のポスターを見たまま、最後に一言だけ言った。
「次は、もう少し静かに騒げ」
ゲッベルスは笑った。
「努力します」
「信用できん」
「広告屋ですから」
「なおさらだ」
夜の硝子の向こうで、フランスへ向かう旗が、街灯の光を受けて少しだけ揺れて見えた。
作品統計
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