第二十六話 女王陛下の娘
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第二十六話 女王陛下の娘
その日も、アリスはノアと一緒にハートの城の執務室で過ごしていた。
ハートの城での暮らしにも、少しずつ慣れてきた。
廊下を歩けば、城の人たちが声をかけてくれる。
「あら、ルーシーちゃん。今日も白兎様のお手伝い?」
「はい。書類を運ぶだけですけど」
「偉いわねぇ。迷い子なのに、よく働く子だこと」
厨房の前を通れば焼き菓子をひとつ渡され、掃除係の女の人には、曲がり角で迷わないようにと廊下の目印を教えてもらった。
この城の人たちの目に、アリスはアリスとして映っていない。
少し丸い頬に、小さな豚耳。服の後ろには、短い尻尾まである子ぶた娘のルーシー。
最初はその姿で見られるたびに落ち着かなかったけれど、最近は少しだけ慣れてきた。慣れてしまうことがいいのかどうかは、まだ分からない。
けれど、城の中で少しずつ居場所を覚えていくたびに、アリスの中でも変わっていく場所があった。
白兎の執務室。
最初は、檻みたいな場所だった。
けれど今は、違う。
ノアはもう、執務室を出る時に鍵をかけなくなった。
開いている扉。
それは、アリスを閉じ込めないという、ノアの小さな約束みたいだった。
ノアが私を信じてくれている。
そう思えるだけで、この部屋の空気は前より少しだけ軽くなる。
怖かったはずの場所が、今は、居心地の良い場所に変わり始めていた。
アリスは、書類を揃えながら、ふとノアを見た。
ノアは大きな机に向かい、羽ペンを走らせている。白銀の髪が横顔にかかり、赤い瞳は書類の文字を静かに追っていた。
いつもの砂糖菓子みたいな笑顔はない。
仕事をしている時のノアは、少しだけ知らない人に見える。
細い指が迷いなく紙をめくり、羽ペンの先が静かに走る。時折、眉がほんの少しだけ寄る。
その横顔は綺麗で。
気づけば、アリスは手を止めたまま、ノアを見つめていた。
「アリス」
呼ばれて、はっとする。
「はい」
「手が止まってるよ」
ノアがこちらを見て、少しだけ笑った。
アリスは慌てて書類へ視線を戻す。
「ごめんなさい!」
「何か考え事?」
「……はい」
「僕の顔を見ながら?」
悪戯っぽい笑みを浮かべているノア。
「ちっ、違います」
「ふうん」
ノアはそれ以上追及せず、また書類へ視線を戻した。
頬が熱い。
最近、気づくとノアを目で追ってしまう。
声をかけられるだけで胸が跳ねるし、目が合うだけで指先が少し落ち着かない。
ほんの少し笑われただけなのに、さっきまで揃えていた書類の文字が、急に遠くなるような気がした。
自分でも制御ができない。
前のように、自然に振る舞えなくなっていた。
「ふっ……」
ノアが思わず吹き出した。
「顔、赤くなりすぎ」
アリスは反射的に、手元の書類を持ち上げた。
顔を隠すように胸元へ寄せると、紙の端がかすかに震える。
ノアが椅子から立ち上がり、ゆっくり近づいてきた。
足音が近づくたびに、書類を持つ指先に力が入る。
「こら。それは提出用の書類だから、シワにしちゃ駄目だよ」
ノアの白い指が、書類の端にそっと触れた。
紙越しに隠れていた視界が、少しずつ開いていく。
アリスが慌てて手を離すと、書類はノアの手の中へ移った。
隠すものがなくなった途端、すぐ目の前にノアの顔があった。
「やっと、目を合わせてくれた」
少し屈んだノアが、甘く笑っている。
その笑みには、砂糖菓子みたいな柔らかさと、からかうような悪戯っぽさが混ざっていた。
アリスは、はっとした。
近くで見るノアの赤い瞳は、夕方の光を受けて、苺シロップみたいに艶めいている。
見つめてはいけないと思うのに、目を逸らせなかった。
「……あれ?」
先に戸惑ったのは、ノアの方だった。
からかうつもりだったのかもしれない。
けれど、アリスが何も言えないまま真っ直ぐ見上げてしまったせいで、ノアの笑みがほんの少しだけ止まった。
その瞳には、照れも、戸惑いも、まだ名前のつかない気持ちも、全部そのまま浮かんでいた。
隠し方を知らない、あまりにも澄んだ目。
ノアは一瞬、そこから逃げることができなかった。
近すぎる距離のまま、二人の間に小さな沈黙が落ちる。
ノアの白い兎耳が、ぴくりと揺れた。
「……ノア」
気づいた時には、夢から覚めきらないような小さな声で、名前がこぼれていた。
呼びたかったわけではない。
ただ、胸の奥からあふれたものが、そのまま声になってしまった。
その瞬間、ノアの頬にさっと赤みが差した。
悪戯っぽかった笑みが消えて、今度はノアの方が目を逸らす。
少し遅れて、彼は慌てたように身体を起こした。
「少し用事があるから、外に出てくる」
「えっ……?」
「そんなに時間はかからないから」
ノアは白い上着を羽織り、机の上の書類を少し乱雑に整えた。
そして扉の前で、一度だけアリスを振り返る。
「退屈なら本棚の本を読んでいいよ。ただし、右から三番目の棚の赤い本は噛むから触らないでね」
「……はい」
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
ノアが出ていく。
アリスはしばらく、その扉を見つめていた。
ノア、なんだか慌てていたな。
もしかして、ノアも少しは意識してくれているのかな。
「そうだったら、うれしいな……」
思わず口から出た本音に、アリス自身が驚く。
ドクン、と心臓が鳴る。胸の奥がうるさい。
私……もしかして、ノアのこと――。
そう考え始めた時だった。
扉の向こうで、足音がした。
ノアの足音ではなかった。
軽い。
けれど、迷いがない。
まるで、自分がどこへ行っても許されると知っている者の足音。
アリスは立ち上がった。
ノックもなく、扉が開いた。
入ってきたのは、ひとりの少女だった。
年はアリスと同じくらいか、少し上だろうか。
夕方の光を受けて、少女の髪がふわりと揺れた。
ハートの女王が纏う赤に、甘い花色を一滴混ぜたような、鮮やかなピンク色。
花びらのように柔らかい色なのに、ただ可憐なだけではない。光が流れるたび、淡い桃色と赤紫が髪の奥で揺れて、まるで熱を持った花が人の形を取ったようだった。
淡いピンクのドレスは、幾重もの花びらを重ねたように上品で、胸元の小さなハートの宝石だけが、夕闇の中で静かに光っていた。
可愛らしいのに、近づきがたい。
育ちの良さと、退屈に慣れた冷たさが、同じ仕草の中に混ざっている。
少女は最後に、アリスを見た。
「あなた……」
その視線が、アリスの頭の上あたりで一度止まる。
アリスは反射的に背筋を伸ばした。
一瞬だけ、ちらりと窓を見る。
そこには、小さな豚耳と短いしっぽ姿のルーシーが映っていた。
アリスは、ほんの少しだけ息をつく。
大丈夫。
少なくとも、この少女の目にも、自分は〈子ぶた娘ルーシー〉として映っているはずだ。
少女はアリスを上から下まで眺め、それから小さく笑った。
「その耳、あまり似合っていないわね」
アリスは息を止めた。
「……耳、ですか」
「ええ。白兎も趣味が悪いわ。どうせなら、もっと可愛い姿にしてあげればいいのに」
その一言が、針のように胸へ刺さった。
アリスは思わず聞き返しそうになって、唇を結ぶ。
この少女は、何かを知っているのか。
それとも、知っているように見せているだけなのか。
どちらにしても、ここで不用意に揺れてはいけない。
アリスは慎重に背筋を伸ばし、丁寧に礼をした。
「ルーシーと申します」
「知っているわ」
少女は退屈そうに微笑んだ。
「白兎が執務室に置いている子ぶた娘って、今ちょっとした噂ですもの」
噂になっていることは、薄々分かっていた。
廊下で声をかけられるたび、厨房で焼き菓子を渡されるたび、城の人たちが自分を見ていることには気づいていたから。
けれど、それをこの少女の口から聞くと、まるで柔らかい布を一枚はがされたような心地がした。
アリスは唇を結び、できるだけ静かに答えた。
「……迷い子なので。白兎様が、少し気にかけてくださっているだけです」
少女はくすりと笑う。
「無難な答えね」
少女は笑っている。
けれど、アリスを見ているというより、アリスの反応を見ている気がした。
何を知っているのかではなく、何を隠そうとするのかを試している。
アリスは小さく息を吸った。
「あの……」
アリスが尋ねかけると、少女は優雅にスカートをつまみ、ほんの少しだけ膝を折った。
「アザレア」
その名を聞いた瞬間、空気が変わった気がした。
「ハートの女王の娘よ」
アリスの心臓が、強く鳴った。