青いマグの夜

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/16 📚 シリーズ: 短編・番外編 📝 4,073文字 ✅ 全年齢

あらすじ

短編・番外編 - 青いマグの夜

本文

別れてから二十三日、夏帆は夜になると、決まってスープを二人分つくってしまった。

 玉ねぎをゆっくり炒めて、ベーコンを入れて、塩をほんの少し強くする。自分ひとりなら、こんな味にはしない。なのに手は覚えていて、気づくと、彼が好きだった濃さに寄っている。

 食卓に器をふたつ並べてから、あ、と止まる。

 向かいの椅子は、もうずいぶん前から空いたままだった。

 湯気はすぐに細くなり、手をつけないほうのスープの表面に、うすい膜が張る。夏帆はそれを流しへあけるたび、またやってしまった、と思う。誰に見られるでもないのに、ひどくきまりが悪い。

 スマホには最後のメッセージが残っていた。

 少し時間を置こう。

 夜になると、その一行だけが妙に広がって見えた。やさしいのか、もう無理なのか、読むたび形が変わる。

 朝は駅前の花屋で働いた。バケツの水を替え、茎を落とし、薄紙で花を包む。冷たい水に手首まで浸すと、そこだけ現実へ引き戻される。指先の感覚がはっきりするぶん、頭の中だけがぼんやりしていることも、よくわかった。

「最近、少し遅いね」

 奥でラナンキュラスを束ねていた真由さんが言った。

「何がですか」

「返事。呼ばれてから、半拍くらい」

 夏帆は笑おうとして、笑いきれなかった。

「寝不足かもしれません」

「そういうことにしとく」

 それ以上、真由さんは聞かなかった。そういう距離の取り方がありがたかった。

 帰り道から雨になった。

 部屋へ入っても灯りをつける気になれず、窓の外の街明かりだけで食器棚の輪郭がうっすら見えた。いちばん上に、青いマグが残っている。

 同棲を始めたころ、雑貨屋で一緒に買ったものだ。彼はコーヒーは何でもいいと言うくせに、器だけは妙にこだわるところがあった。そのマグを手に取って、これ、重さがいいな、と言った声を、夏帆はまだ覚えている。

 返さなきゃと思いながら、そのままだった。

 今夜こそ箱に入れようと背伸びした拍子に、濡れた指が取っ手をすべった。

 澄んだ音がした。

 床に散った青は、思いのほかきれいだった。破片の角に窓の光が触れて、濡れた石みたいに光る。しゃがみ込んだ夏帆は、ひとつ拾おうとして指先を切った。じわ、と滲んだ赤が青に落ちる。

 たいした傷でもないのに、うまく息が吸えなくなった。

 気づけば電話をかけていた。

 出ないでほしい、と少しだけ思った。出てほしい、のほうがずっと強かった。

 三度目の呼び出し音で、彼が出た。

「……もしもし」

 その声を聞いただけで、喉の奥が熱くなる。

「ごめん」

「うん」

「青いマグ、割った」

 向こうがすぐには答えない。雨の音が、窓の向こうで細く続いている。

「怪我しただろ」

「少しだけ」

「どこ」

「指」

 短い息遣いが受話器の向こうで動く。

「血、出てる?」

「出てるけど、大したことは」

「大したことあるかどうかは、見ないとわからない」

 夏帆は思わず目を閉じた。そういうところが、ずるいと思う。まっ先にそこへ来るところ。

「いまから行く」

「いいよ。そこまでじゃないし」

「そこまでじゃないなら、電話してこないだろ」

 きつい言い方ではなかった。ただ、こちらの逃げ道だけを静かに塞ぐ声だった。

「……破片、床にある」

「うん」

「まだ片づけてない」

「わかった。玄関だけ開けてて」

 電話が切れたあと、部屋が急に広くなった気がした。会いたかったのだと、認めたくないのに、身体のほうが先に知っていた。

 ほどなくして、インターホンが鳴った。

 玄関を開けると、彼は濡れた肩で立っていた。髪の先から落ちた雫が、廊下に小さな丸をつくる。雨の匂いにまじって、洗いたてのシャツみたいな清潔な匂いがした。そんなことまで、身体が先に思い出してしまう。

「ごめん」

 なぜか、また先にその言葉が出る。

 彼は、何に対してかわからないまま頷くような顔をして、中へ入った。部屋へ上がると、まず足元を見て、それから散らばった破片に目をやる。そこでようやく、少しだけ眉を寄せた。

「動いた?」

「ちょっとだけ」

「……そう」

 責めるより先に呆れた声だった。けれど、しゃがみ込んだ手つきは慎重で、新聞紙を広げ、ひとつずつ破片を拾っていく。昔から、彼は割れものを先に片づける人だった。洗いかごの中でも、グラスだけは必ず奥に立てていた。

 包み終えると、彼は顔を上げた。

「手、見せて」

 夏帆は右手を差し出す。手首を支える指が少し冷えていた。そこにふれられた途端、自分が思っていた以上に張っていたのだと気づく。

 消毒液が傷にしみた。

「痛い」

「うん」

 彼はそう言って、昔と同じように、傷口へ軽く息を吹いた。

 それだけで、たまらなくなる。指先より先に、別れてからふれられていなかった時間が疼く。

「……そういうの、やめて」

 彼の手が止まる。

「痛かった?」

「そうじゃなくて」

 言い方が見つからない。気まずさと、情けなさと、懐かしさみたいなものがいっぺんに上がってきて、喉のところでつかえている。

「そういうふうにされると……戻れそうになる」

 部屋が急に静かになった。雨音だけが遠くで鳴っている。

 彼は絆創膏を貼り終えてから、すぐには手を放さなかった。指先が、手首の骨のあたりに少しだけ残る。その熱が、かえってこたえる。

「前みたいには、戻れないと思ってる」

 夏帆の胸が小さく強ばる。

「でも」

 彼はそこで目を伏せた。

「このまま終わるのも、違う気がしてる」

 夏帆は息を吐いた。責めるでも、縋るでもない、その言い方がひどく彼らしかった。

「わたし、あのメッセージ、ほんとに嫌だった」

「うん」

「少し時間を置こうってやつ」

「うん」

 夏帆は絆創膏の端を指の腹でなぞった。白い端が少し浮いて、そこばかり見てしまう。

「……変な言い方なの、わかってるけど」

 喉の奥がつかえて、目を上げられない。こんなことを言うのは子どもみたいだと、自分でもわかっていた。

「置かれるの、わたしだけみたいで」

 口にした途端、頬が熱くなる。言い直したいのに、もっとましな言葉は出てこなかった。

 彼はしばらく黙っていた。

「ごめん」

 それから、少し間を置いて、

「考えて書いたつもりだったんだけど、全然だめだった」

 夏帆は笑いたかったのに、涙が先に落ちた。

 彼は一度だけ目を伏せた。

「遅いよ」

「……遅い」

 彼も否定しなかった。

「長く書いたら、たぶん止めた」

「……止めてほしかった」

 言ってしまったあとで、恥ずかしさが遅れてきた。けれど、彼はそこで目をそらさなかった。

「うん。わかってた」

 そこで一度、口元が苦く歪む。

「……だから困った」

 夏帆は少しだけ目を見開く。

「じゃあ、なんで」

「止めて、その夜だけ戻っても、また同じになる気がした」

 夏帆は黙る。

 たしかにそうだった。喧嘩をしても、話し合う前にどちらかが折れた。やさしさでつないで、その場を越えて、あとから同じことを繰り返した。

 彼は、テーブルの上に置いたままの自分の手を見ていた。

「俺、待ってればそのうち話してくれるって、ずっと思ってた」

「……うん」

「待つのがやさしいみたいに、勝手に思ってた」

 夏帆は指先の絆創膏を見つめた。端の白が少し浮いている。

「わたしも、言わなかった」

「うん」

「言ったら重いかなとか、疲れてるかなとか、そういうことばっかり考えて」

「うん」

 彼の相づちは短い。けれど雑ではなく、逃げてもいない。そのことが、いまは少しありがたかった。

 しばらくして、彼が口を開く。

「夏帆」

「なに」

「今すぐ何か決めようとは思ってない」

 その声音には、変に甘いところがなかった。

「でも、あの一文のままで終わるのは嫌だ」

 夏帆は目を上げる。

「ちゃんと話したい」

 それだけのことに、思いのほか胸がほどけた。復縁したいとも、やり直そうとも言わない。その代わり、逃げないことだけを差し出してくる。

「……わたしも」

 彼はそこで、ようやく少しだけ表情をやわらげた。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。近いのに、触れない距離がある。けれど、彼が手を離したあとも、手首のところだけまだ熱かった。

 彼が立ち上がる。

「絆創膏、置いてく」

「買ってきたの」

「途中で薬局あったから」

「……そう」

 玄関まで見送ると、彼は靴を履きながら、ふと思い出したように言った。

「白いマグ、まだ使ってる?」

 夏帆は一瞬だけ目を瞬いた。

「使ってるよ」

「そっか」

 それきりだった。けれど扉に手をかけてから、彼はほんの少しだけ振り向く。

「そのうち、それでコーヒー飲ませて」

 夏帆は返事をするまで、少し時間がかかった。

「……砂糖、入れすぎるよ」

「知ってる」

 そこでようやく、彼は笑った。大きくではない。前と同じように、口元だけ少しやわらぐ笑い方だった。

 扉が閉まる。残ったのは、廊下の湿った空気と、置いていかれた小さな消毒液だった。

 テーブルの上には絆創膏。流しのそばには新聞紙に包まれた青い破片。壊れたままのものが、割れたときより静かに見えた。

 夏帆は窓を少しだけ開けた。雨上がりの匂いが入ってくる。濡れた土と、遠いアスファルトと、若い葉の青い匂い。

 深く息を吸う。胸の奥が少し痛む。それでも、昨日までみたいに息が詰まる感じはしなかった。

 翌朝、白いマグにコーヒーを淹れ、角砂糖をひとつ落とした。

 落ちていく白い四角を見つめながら、昨夜の最後の声を思い出す。思い出しただけで、胸の奥に小さな熱が残る。

 店へ行くと、真由さんが水揚げをしながらこちらを見た。

「少し、顔色がまし」

「言い方」

「元気そう、って言ってほしいなら考える」

 夏帆は笑った。昨日より、ちゃんと笑えた。

「まだそこまでは」

「でしょうね」

 エプロンの紐を結び直しながら、夏帆は指の絆創膏にふれた。

「でも、平気なふりは、少し減らせそうです」

 真由さんは、それで十分、とだけ言った。

 開店のベルが鳴る。朝の空気が店先を抜け、花びらをかすかに揺らした。

 夏帆は白い花を抱え直す。茎の冷たさが、エプロン越しに腕へ移った。胸の奥はまだ少し痛い。それでも、手は次の花束を作る場所を覚えていた。

 レジ前のガラスに、花を抱いた自分の姿が淡く映る。絆創膏の白が、指先で小さく目立っていた。

 そのまま次の客を迎えに出る。開いた扉の向こうから、雨のあとを残した春の匂いが、静かに流れ込んできた。

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作者について

ひさちぃ

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