四階に用がある③
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
「俺は四階に用がある。何の用だったかは思い出せない」 不条理文学。実験作。問題作。エンディングテーマ曲あり。一部ボイスあり。ヘッドフォン推奨。 ボイス:音読さん ©ondoku3.com エンディングテーマ曲:SUNO AI
本文
三
気づいたら俺は六階に立っていた。
何故だ。
さっきまで四階にいたはずなのに。階段もエレベーターも使った覚えはない。二人と別れた後、空っぽになった廊下をぼんやり見つめていただけだ。ただ、次の瞬間、視界が一瞬だけ揺らいだような、そんな気がした。そして今、ここにいる。
六階。
壁は四階と同じ薄いベージュの塗装。床は同じ灰色のタイル。でも、何かが違う。空気の密度が。四階はまだ人の気配が残る商業施設のフロアだったが、ここはもっと事務的で、無機質だ。ドアには企業名のプレートが並び、どれも見覚えがない。廊下の奥からはコピー機の低い駆動音が響いている。
訳が分からない。
頭が混乱する。いや、混乱以前に、理解が追いつかない。階段を上った記憶がない。エレベーターのボタンを押した記憶もない。ただ、気がついたらここにいた。まるで映画のカットが突然変わったように。
「……田所か?」
声がした。
振り返ると、そこには三浦さんが立っていた。スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっている。少し疲れたような表情だが、目はしっかりとこっちを見ていた。職場でいつも世話になっていて、寡黙だが、信頼できる人だ。
「三浦さん……」
声が出る。少し嗄れていることに自分で気づく。
「どうしたんだ? 顔色が悪いぞ」
三浦さんが一歩近づく。その動きに、安堵が胸をよぎった。訳の分からない状況で、知っている顔に出会えた。それだけで、少しだけ立て直せそうな気がした。
「いや、その……何故か六階にいて……」
言葉が続かない。どう説明すればいいのか。階段も使っていないのに、いきなり六階に飛ばされた? そんなこと言っても信じてもらえないだろう。
「四階に用があったんです。確かに四階に用があったんですが……」
「四階?」
三浦さんが首をかしげる。その仕草が、いつもの彼らしくて少し落ち着く。
「でも、ここは六階だぞ」
「はい。だから、訳が分からなくて……」
「まあいい。落ち着け。まずは四階に行くか」
三浦さんはそう言って、軽く俺の肩を叩いた。その手の温もりが、妙に現実的で、ここが夢や幻ではないことを確信させた。
「すみません、お忙しいところ……」
「別に良いよ。俺もちょうど用事が終わったとこだし」
彼はそう言って、階段の方へ歩き出した。俺は慌てて後を追う。
階段はコンクリート打ちっぱなしの、やや薄暗いスペースだった。手すりは金属で冷たい。一段降りるごとに、靴音がこだまする。三浦さんは二段ほど先を歩き、時折振り返ってこっちの様子を確かめる。
「で、四階のどこに行くんだ?」
「えっと……」
また詰まる。四階のどこだ? 何の用だった? 思い出せない。ただ、四階に行かなければならないという強迫観念だけが、胸の奥で脈打っている。
「……詳しいことは、四階に着いてから思い出せるかもしれません」
「ふーん」
三浦さんはそれ以上追及せず、ただうなずいた。彼のそういうところが好きだった。余計なことを聞かず、でも放っておかない。程よい距離感でいてくれる。
階段を下りるにつれ、下の階から人の声が聞こえてくる。五階だろうか。でも、三浦さんはそのまま通り過ぎ、四階のドアを押し開けた。
四階に戻ってきた。
先ほどまでいた廊下とは違う場所に出た。ここはどうやら商業施設の一角らしい。明るい照明の下、ショーウィンドウが並び、通行人がちらほらと歩いている。しかし、誰も俺たちには関心を示さない。ただすれ違うだけだ。
「ここでいいのか?」
三浦さんが聞く。
「……はい。多分」
何の根拠もない。でも、ここに来れば何か思い出すかもしれない。そういう気がした。
「じゃあ、用事が済むまで付き合うよ。急いでるわけじゃないし」
「ありがとうございます」
心からそう言った。一人でいたら、きっと立ち尽くしたままだっただろう。訳の分からない焦燥感に押し潰されそうだった。さっきまであんなに鮮明だった会話が、今では遠い記憶のように霞んでいる。敗北感。恥ずかしさ。それらも、今この不可解な状況の前では、些細なことに思えてきた。
いや、些細ではない。まだ胸の奥に引っかかっている。負けたという事実。でも、今はそれにこだわっている場合じゃない。
「何かあったのか?」
三浦さんが尋ねる。彼は俺の表情の変化に気づいたらしい。
「いえ、ただ……ちょっとした出来事で」
「そうか」
彼は深くは聞かず、ただうなずいた。
周りを見渡す。ここはどうやら雑貨や書籍を扱うフロアのようだ。奥にはカフェらしき店も見える。人通りはあるが、みな無表情だ。どこか虚ろな目をして、ただ前を見て歩いている。
「三浦さん、ここって……」
「ん?」
「なんか、みんな……」
言葉に詰まる。どう表現すればいいのか。生きているのに、まるで亡霊のように感じる。そんなことを口に出していいものか。
三浦さんは少し間を置いてから、低い声で言った。
「気にすんな。みんなそうだよ」
「そう……ですか」
何を言っているのかよく分からない。でも、それ以上は聞けなかった。
ふと、ある店の前で足が止まった。古本屋だ。看板はぼんやりとした緑色で、店内は薄暗い。なぜか、そこに引き寄せられるような感覚があった。
「ここに用があるのか?」
三浦さんが尋ねる。
「……分かりません。でも、何か」
そう言いながら、俺は自動ドアをくぐった。
店内は思ったより広かった。天井は高く、本棚が迷路のように立ち並んでいる。紙の匂いと、ほこりっぽい空気が鼻をくすぐる。誰もいない。店員の気配すらない。
「人がいないな」
三浦さんが呟く。
「ええ……」
俺は一番近い棚に近づき、背表紙を眺めた。どの本もタイトルがかすれていて、よく読めない。手に取ろうとしても、なぜか指が届かない。目の錯覚か。距離感がおかしい。
「おい、大丈夫か?」
三浦さんの声が遠くに聞こえる。振り返ると、彼の姿がかすんで見えた。まるで霧の中にいるようだ。
「三浦さん……?」
三浦さんの姿がかすんで見えたのは、一瞬のことだった。次の瞬間、彼は明瞭に戻り、首をかしげた。
「床を黄色に塗り替える」
唐突な言葉が古本屋の薄暗がりに落ちた。俺は理解できず、ただ彼の口元を見つめた。三浦さんは床を見下ろしている。コンクリート打ちっぱなしの無機質な灰色。そこに何か特別なものが見えているのだろうか。彼の視線は一点に固定され、微かに震えているようにも見えた。
「裏表をひっくり返す」
続けて彼が呟く。声にはいつもの淡々とした調子がなく、どこか熱を帯びていた。まるで何か重要な発見をした直後の、興奮を抑えきれないような響きだ。彼の目は依然として床に向けられたまま、焦点が合っていない。天井の照明が彼の肩に落ち、影を不自然に長く伸ばしていた。光の加減がおかしい。先ほどまで均一だった明るさが、今では三浦さんの周囲だけがぼんやりと霞んでいる。
「三浦さん?」
声をかける。だが三浦さんは答えなかった。代わりに、スタスタと足早に歩き出してしまう。俺の方を振り返ることなく、本棚の間の通路を奥へと進んでいく。足取りは確かで、迷いがない。
「待ってください!」
追いかけようとする。しかし、足が思うように動かない。まるで水中を歩くような感覚だ。水の抵抗はないのに、膝から下が鉛のように重い。一歩踏み出すごとに、太ももの筋肉が軋む。空気が粘り気を帯び、服が皮膚に張り付くような圧迫感がある。耳の奥で低い唸りが続き、自分の呼吸音さえ遠くに聞こえる。
なぜ追いつけない。三浦さんはどんどん先に行ってしまう。距離が縮まらない。むしろ広がっていく。彼の背中が小さくなり、本棚の陰に隠れそうになる。
焦りが喉を締め付ける。この状況が理解できない。彼は何を見たのか。あの言葉は何を意味するのか。説明がない。いつも三浦さんは結論だけを投げて去っていく。でも、今日はそれでは困る。置いていかれる。この不可解な空間で、唯一の頼みの綱が消えていく。
「三浦さん!」
叫ぶ声も、ぬかるみに吸い込まれるように消えた。彼は振り向かなかった。最後に、通路の曲がり角で一瞬だけ姿を見せた時、彼の口が微かに動いたように見えた。何か言っていたのか。それとも、ただの錯覚か。次の瞬間、彼は視界から消えた。
一人になった。
重かった足の感覚が、ふっと抜ける。あまりに突然で、よろめきそうになる。手を伸ばして近くの本棚に掴まる。木の感触が冷たく、埃っぽい匂いが立ち上がる。深呼吸を一つ。肺に染み渡るのは、紙の腐ったような甘ったるい臭いだ。
周りを見回す。三浦さんがいた時と、何が変わったのか。物理的には何も変わっていない。同じ本棚、同じ薄暗い照明、同じ静寂。でも、気配が違う。彼がいる時は、そこに「人間」という確かな存在があった。呼吸音、衣服の擦れる音、視線の圧。それらが全て消え、空間が急に広がったように感じる。天井が高くなり、壁が遠のいた。自分の存在が、この場所に染み込んでいくような、そんな不安。
音がない。いや、あるにはある。遠くで何かが軋むような、かすかな響き。定期的に、間を置いて。でも、それが何の音か判断できない。照明の蛍光灯が微かに唸っている。その音さえ、今まで気づかなかった。
ふと、先ほどのことを思い返す。四階に戻ってきたこと。六階から階段で降りてきたこと。あの移動には確かな連続性があった。一段ずつ踏みしめ、手すりの冷たさを感じながら。だから、空間の飛び越しではない。それなのに、なぜこんなに違和感が募るのか。四階に着いた途端、全てがおかしくなった。通行人の無表情。三浦さんの謎めいた発言。そしてこの古本屋の歪んだ感覚。照明はさらに少なく、数メートル先が霞んで見える。
三浦さんは「床を黄色に塗り替える」と言った。
黄色。何の意味だろう。警告色か、あるいは単なる比喩か。この建物のどこかに、黄色い床がある場所があるのだろうか。それとも、彼はメタファーを使ったのか。裏表をひっくり返す。それは、物事の見方を変えよ、という意味か。それとも、文字通り何かを反転させる必要があるのか。
考えるほどに混乱が深まる。今必要なのはこの状況を読み解く手がかりだ。でも、何も浮かばない。頭の中が空白に近い。
通路の先に、ドアが見えた。木製で、古びている。取っ手は黄銅色で、錆びたような曇りがある。これが出口だろうか。それとも、さらに別の空間へ続くのか。
ためらいながら手を伸ばす。取っ手に触れる。冷たい。力を込めて回す。軋み音とともに、ドアが外側に開いた。