四階に用がある④
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
「俺は四階に用がある。何の用だったかは思い出せない」 不条理文学。実験作。問題作。エンディングテーマ曲あり。一部ボイスあり。ヘッドフォン推奨。 ボイス:音読さん ©ondoku3.com エンディングテーマ曲:SUNO AI
本文
四
手の中に、冷たい金属の感触があった。
俺はゆっくりと目を開けた。視界はぼんやりとしていて、天井の蛍光灯が白く霞んでいる。横を向くと、床が見えた。コンクリート打ちっぱなしの灰色。気が付くと、黄色い缶が一つ、右手に握られていた。カラースプレーの缶だ。キャップは外れていて、ノズルがこちらを向いている。重さが手のひらに馴染む。指が自然にトリガーを包み込んだ。
なぜ持っているのか。どこから来たのか。そんな疑問は、頭の表面を滑り落ちていくだけだった。深く考える必要はない。持っているのだから、使えばいい。三浦さんが言っていた。床を黄色に塗り替える。そう言っていた。
俺は膝をつき、缶を床に近づけた。ノズルを灰色のタイルの一角に向け、指に力を込めた。シュッという乾いた音が、静まり返った空間に響いた。鮮やかな黄色の線が、灰色の上に浮かび上がる。塗料の匂いが鼻を刺す。少し甘ったるい、化学的な臭いだ。線はみるみる広がり、タイル一枚を覆った。境界はくっきりと、まるでそこだけが別世界に切り取られたようだ。
次へ。隣のタイルに移動する。シュッ。また黄色が広がる。一つ、また一つ。作業は単調で、ほとんど無思考に近い。考えることは何もない。ただ塗る。黄色に染め上げる。それだけが、今の俺に与えられた唯一の行為のように感じられた。
塗り終えたタイルの上に、そっと足を乗せてみる。靴底がコンクリートに触れる感触は変わらない。でも、何かが違う。先ほどまで足を引きずっていたあの重さが、消えている。水中を歩くような粘り気が、ふっと抜けた。まるで結界の中に立っているような安心感が、胸の奥からじわりと広がってくる。
「裏表をひっくり返す」
口が動いた。声に出して、唇が形を作る。呪文のように。三浦さんが去り際に呟いたあの言葉を、俺は繰り返す。唱えなければならない。唱え続けなければ、この安心感が消えてしまう気がした。
もう一度。声に出す。自分の声が、薄暗い空間に吸い込まれていく。それでも、唱えること自体に意味があるような気がする。強迫観念が、脳の奥をぎゅっと締め付ける。途切れたら終わりだ。途切れたら、灰色の床に飲み込まれて、動けなくなる。
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ふと、視界の端に動きがあった。ぼんやりとした人影が、数メートル先の本棚の間から現れた。無表情な男だ。四階の通行人と同じ、虚ろな目をしている。彼はゆっくりと、こちらへ歩いてくる。灰色の床の上を。
俺は手を止めなかった。シュッ、シュッ。黄色い線を伸ばす。男は近づいてくる。五メートル。三メートル。もうすぐ足元が黄色いエリアに差し掛かる。
その瞬間、男の足が黄色い部分に触れた。いや、触れなかった。彼は黄色い床に近付くことができない。まるで背景に溶け込むカメレオンのように、動きは止まり、存在そのものが薄れていった。
俺は息を詰めていたのに気づき、ゆっくりと吐き出した。効果はあった。黄色い床の上に立っていれば、あの無表情な連中に取り囲まれることはない。安全だ。
「裏表をひっくり返す」
また呪文を唱える。声は少し力強くなっていた。もう惑わされないぞ。記憶の飛びも、突然の移動も、三浦さんの消失も、すべてはこの灰色の空間が仕掛けてくる欺瞞だ。俺はただ、黄色に塗り替えていけばいい。そうすれば、この場所の支配から逃れられる。
塗り進めるスピードが、少し速くなった。手首の動きに無駄がなくなる。缶を握る指の力も強く、確かだ。次のタイル、そのまた次。黄色い領域が広がっていく。俺の立つ場所は、確実に安全地帯となっていく。
重要なのは今だ。今、ここで、黄色に塗り続けること。それだけが、俺を現実に留めておく錨なのだ。
通路の向こうから、また人影が現れた。今度は二人。男女らしい。やはり無表情で、虚ろな目をしている。彼らもゆっくりと近づいてくる。俺は手を休めず、淡々とスプレーを噴射し続ける。黄色い領域は、俺の周りに半径二メートルほどの円を描き始めていた。
二人は黄色い境界線の手前で止まった。彼らの目が、ぼんやりと俺を見つめる。でも、踏み込もうとはしない。ただ、立ち尽くしている。まるで、ある種の結界の前に阻まれたかのように。
俺は彼らを無視し、塗り進める。背中を向けても大丈夫だ。黄色い床の上にいれば、安全なのだから。
「裏表をひっくり返す」
呪文は、今や呼吸のようなものだ。規則的なリズムで、唇をついて出る。唱えている間は、思考が整理される。混乱が収まる。すべてが一本の線の上に乗っているような、奇妙な確信に満たされる。
塗り終えたタイルの上を、一歩ずつ前進する。黄色い領域は、俺の進路に合わせて広がっていく。まるで道が敷かれていくようだ。どこへ向かっているのかは分からない。ただ、進むしかない。
体が先に動いた。黄色い霧が噴き出す。シュッ、シュッという音が二重に響く。塗料の匂いがより濃厚になり、喉の奥に染みつくような感覚がある。でも、気にならない。むしろ、この匂いが、俺が正しいことをしている証のように思えてきた。
作業は加速する。黄色い領域の拡大速度は倍になった。灰色が次々と飲み込まれていく。俺の周りには、だんだんと黄色い島が広がっていく。本棚の足元も、通路の中央も、すべてが鮮やかな黄色に染まっていく。
そのうち、ある変化に気づいた。黄色い床の上に立っている時、灰色の部分を見ると、微かに揺らいで見えるのだ。ゆらゆらと、水面のように。でも、黄色い部分はしっかりと固まっている。現実として確かだ。
「裏表をひっくり返す」
もう何度目かの呪文。声は低く、力強い。効果は絶大だ。この言葉を唱え続ける限り、俺は絶対に惑わされない。すべての欺瞞から逃れられる。この黄色い床の上にいれば、あの虚ろな視線も、すべて無力化される。
塗り進めながら、ふとある考えが頭をよぎった。この行為は、いつまで続けるのだろう。この古本屋全体を黄色に染め上げるのか。それとも、どこか特定の場所まで行けばいいのか。でも、その疑問もすぐに消える。考える必要はない。ただ続ければいい。三浦さんがそう言っていたから。
彼の顔を思い出そうとする。でも、ぼんやりとしか浮かばない。特徴のはっきりした輪郭や表情が、記憶から抜け落ちている。代わりに、彼の最後の言葉だけが、くっきりと残っている。
「床を黄色に塗り替える」
それだけが、すべての指針だ。
俺は両手を動かし続けた。黄色い霧が舞い、床を染めていく。その行為そのものが、今の俺の存在理由になっていた。塗る。唱える。進む。それの繰り返し。思考は単純化され、雑念は消えていく。すべて色褪せて、遠のいていく。
ただ一つ、確かなことがある。この黄色い床の上に立っている限り、俺は安全だ。もう二度と、無表情な通行人に取り囲まれたりすることはない。
だから、塗り続ける。永遠に。