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四階に用がある⑤

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/19 📚 シリーズ: 四階に用がある 📝 2,394文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

「俺は四階に用がある。何の用だったかは思い出せない」 不条理文学。実験作。問題作。エンディングテーマ曲あり。一部ボイスあり。ヘッドフォン推奨。 ボイス:音読さん ©ondoku3.com エンディングテーマ曲:SUNO AI

本文

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シュッ、シュッ。

音がリズムを作る。右手から噴射される黄色い霧が、灰色の床を侵食していく。塗料の甘ったるい匂いが喉の奥に貼りつき、吐息と混ざって肺を満たす。俺は呼吸を数えている。一、二。吸って、吐いて。その合間に、唇を動かす。

「裏表をひっくり返す」

声は乾いていた。喉の粘膜が擦れ合うような感触。でも、途切れてはいけない。途切れたら、効果が切れる。効果が切れたら、死ぬ。頭の中に刻まれた絶対的なルールが、心臓を締め付ける。鼓動が早い。胸の裏側で、何かが小刻みに震えている。

黄色い領域は半径三メートルほどに広がっていた。俺の周りを円形に囲む、鮮やかな結界。その外側、薄暗い本棚の間から、幾つかの人影が見えている。五、六人か。皆、無表情で、虚ろな目をこちらに向けている。近づけない。黄色い境界線の手前で、足を止めている。一人が首をかしげた。別の一人は、ゆっくりと腕を上げ、指を伸ばす。俺の方を指さしている。でも、踏み込もうとはしない。

安全だ。今は。

「裏表をひっくり返す」

もう一度唱える。今度は少し強く。声帯に力が入りすぎて、かすれるかと思った。危ない。リズムを乱すな。呼吸を整えろ。吸って、吐いて。心拍が耳元で鳴る。ドクン、ドクン。その音に合わせて、手を動かす。シュッ、シュッ。

缶が軽い。いや、錯覚か。中身は減らないはずだ。確認するために振ってみる。重さは変わっていない。相変わらず、新品と同じような満たされた感触。なのに、なぜか不安がよぎる。もし、突然空になったら? もし、この缶だけが例外で、塗料が尽きたら?

考えるな。

脳が拒絶する。考えることは、リズムを乱すことだ。リズムを乱せば、詠唱が途切れる。途切れたら、死。

俺は目を閉じ、また呼吸を数えた。三、四。開いた目は、床の黄色い部分だけを見つめる。塗り残した灰色の斑点がある。そこへ狙いを定め、スプレーを噴射する。黄色が広がり、斑点を飲み込む。完了。次へ。

足を一歩前に出す。黄色い床の上。足裏に伝わる確かな硬さ。これが正常だ。これが、本来の俺の感覚なのだ。

「裏表をひっくり返す」

声が震えた。慌てて息を整える。だめだ。緊張しすぎている。でも、緊張しなければ、死ぬ。この狭間で、俺は細い糸の上を歩いている。落ちれば即死だ。

黄色い領域をもっと広げなければ。この円の中に閉じこもっていても、いつかは限界が来る。塗料が尽きるかもしれない。いや、尽きないはずだ。

息が乱れた。すぐに呼吸を整えようとするが、心臓が暴れている。鼓動が耳の中で暴力的に響く。まずい。リズムが崩れかかっている。冷や汗が額をつたう。頬を伝う一滴が、顎先で揺れる。落ちそうだ。その感触が気になって、集中が削がれる。

ダメだ。気にするな。塗れ。唱えろ。

俺は両手を激しく動かした。シュッシュッッ! 連続噴射だ。黄色い霧が濃くなり、床一面に広がる。新しい領域が、前方に半メートルほど拡大する。進んだ。よし。

でも、呼吸が苦しい。詠唱の間隔が開きすぎている。効果が切れかかっているかもしれない。そう思うと、恐怖が首筋を這う。背筋が凍りつくような感覚。

急いで唇を動かす。

今度は小声で、速く。息継ぎを最小限に。心拍と詠唱のリズムを合わせようとする。

「裏表をひっくり返す」

うまくいかない。心臓の音が先行する。焦りがさらにリズムを乱す。

もうだめかもしれない。このままでは、リズムを完全に失う。そうなったら、あの連中が踏み込んでくる。灰色の床に引きずり込まれ、同化して消えてしまう

それはつまり、地獄ではないか。

「裏表をひっくり返す」

叫んだ。声が裏返った。喉が痛い。でも、叫ばなければならなかった。叫ぶことで、途切れを防いだ。効果は持続する。まだ死なない。

俺は前へ進む。黄色い床の上を、一歩、また一歩。スプレー缶から、絶え間なく霧を噴き出し続ける。塗料の匂いが、もう俺の体の一部になったようだ。肺が黄色く染まっていくような錯覚さえある。

スプレー缶から噴き出す霧が、床を覆う速度は圧倒的だ。灰色は瞬く間に飲み込まれ、黄色い領域はみるみる拡大する。俺の周りには、もう十メートル四方の安全地帯ができあがっていた。

少し、楽になった。

呼吸が整い始める。心拍も落ち着いてきた。詠唱のリズムが、自然な呼吸と同期する。

「裏表をひっくり返す」

うまくいっている。

この調子でいけば、いつかはこの古本屋全体を黄色に染め上げられるかもしれない。そうすれば、もう詠唱も必要なくなるのか? すべてが黄色い床になったら、そこは完全な安全地帯になるのか?

希望のようなものが、胸の奥に灯った。しかし、すぐに消える。希望を持つことは、油断につながる。油断は、リズムを乱す。

俺は視線を下ろし、塗り進める作業に没頭した。スプレー缶から放たれる黄色い流れは、まるで生き物のように床を這い、灰色を貪り食っていく。その光景を見ているうちに、時間の感覚が薄れていく。一分が一時間に感じられるかと思えば、一時間が一瞬に感じられることもある。歪んだ時間の中、俺はただ、自動人形のように動き続ける。

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冥界焔つむぎ

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