四階に用がある⑥
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
「俺は四階に用がある。何の用だったかは思い出せない」 不条理文学。実験作。問題作。エンディングテーマ曲あり。一部ボイスあり。ヘッドフォン推奨。 ボイス:音読さん ©ondoku3.com エンディングテーマ曲:SUNO AI
本文
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「裏表をひっくり返す」
頭が割れるように痛い。右のこめかみから左の耳の後ろまで、金属の楔を打ち込まれたような鋭い疼きが走る。脈打つたびに脳髄が揺さぶられ、視界がちらつく。眼球の奥の血管が膨張し、まぶたの裏を押し広げようとする圧迫感。呼吸が浅くなる。吸い込む空気が肺の底まで届かず、喉元で止まってしまう。
体が重い。まるで全身に鉛の鎧を着込んだような、あるいは重力そのものが何十倍にも増したような感覚。立っていることさえままならない。膝ががくがくと震え、太ももの筋肉が痙攣を起こす。足首に鎖が巻きつけられ、それを巨大な錘が引っ張っている。一歩も動けない。
俺はうめき声を漏らし、その場にしゃがみ込んだ。いや、しゃがむというより、崩れ落ちた。背中が冷たい床に打ちつけられ、仰向けに転がる。後頭部がコンクリートにぶつかり、鈍い音が頭蓋骨に響く。天井の蛍光灯が、白く濁った光を撒き散らしている。その光が、痛む目を直撃する。まぶしすぎる。涙が勝手に溢れ出る。
「裏表をひっくり返す」
声にならない唸りが喉を掠める。唇を動かそうとする。詠唱を続けなければ。途切れたら死ぬ。そのルールだけは、どんな状態でも頭に刻み込まれている。でも、息が続かない。吸って、吐いて、その合間に言葉を挟む余裕がない。胸が押し潰されそうな圧迫感。肋骨の内側で心臓が暴れ、鼓動が耳朶を殴打する。
右手に握っていたスプレー缶が、床を転がる音がした。指先に力が入らない。関節が緩み、自然に開いてしまう。缶は俺の脇に転がり、キャップが外れたまま、ノズルが俺の方を向いている。自動噴射はしていない。ただ、無力に横たわっている。
ダメだ。塗らなければ。黄色い領域を広げなければ。でも、体が動かない。腕を上げることさえ、途方もない労力を要する。肩の関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。やっとの思いで右腕を床から剥がし、ほんの数センチ浮かせただけなのに、まるで鉄アレイを掲げたような疲労が襲う。
「裏表をひっくり返す」
声がかすれる。喉の奥が砂のように乾き、言葉が擦れる。唾を飲み込もうとするが、喉仏が動かない。窒息しそうな感覚。天井の蛍光灯が、ちらちらと点滅する。明滅のリズムが、俺の鼓動と同期しているような気がする。点灯している間は心臓が早くなり、消える間は一瞬止まる。そんな錯覚に囚われる。
ズリ、ズリ。
這いずる音がする。自分の体が床を引きずる音だ。仰向けのまま、かろうじて肘と踵を使って、前に進もうとしている。だが、進んでいる実感がない。せいぜい数十センチだろう。床の冷たさが、シャツの薄い生地を通して背中に伝わる。タイルの継ぎ目のざらつきが、皮膚に食い込む。
人影たちが、境界線の外で立ち止まっている。五、六人。皆、無表情のまま、こちらを見下ろしている。首をかしげる者、腕を組む者、ただじっと立っている者。彼らは動かない。踏み込んでこない。まだ、黄色い領域が有効だからだ。でも、このまま動けなくなったら? 詠唱が完全に止まったら?
恐怖が、背筋を氷の柱のように凍りつかせる。
「裏表をひっくり返す」
一語一語、噛みしめるように発する。唇が震える。歯がガチガチと鳴る。寒いわけではない。むしろ、額には脂汗がにじみ、首筋を伝って流れている。それなのに、体の芯から冷え切っているような感覚。体温が床に吸い取られていく。
呟きが漏れる。絶望が、胃の底から這い上がってくる。喉元までせり上がり、吐き気を催す。目を閉じれば、楽になるかもしれない。そのまま眠りに落ちれば、すべてが終わるかもしれない。でも、目を閉じたら、もう二度と開けられない気がする。
蛍光灯の点滅が速くなる。明滅の間隔が短くなり、光の残像が網膜に焼き付く。白と闇が交互に襲いかかり、脳を揺さぶる。頭痛がさらに激しくなる。こめかみが脈打ち、眼球が押し出されそうだ。
俺は無意識に、左手の拳を強く握りしめた。指の関節が白くなる。痛みを感じる。その痛みが、かすかな覚醒をもたらす。くそ。動け。動かなきゃ、ここで終わりだ。灰色に飲み込まれて消える。記憶からも、存在からも消し去られる。
「裏表をひっくり返す」
声が震える。子供のように、無力な言葉が零れる。頬を伝うものが、汗なのか涙なのか分からない。視界が滲む。天井の蛍光灯が、ぼんやりと光の輪に溶ける。
歯を食いしばり、全身に力を込める。腹筋に力を入れ、上半身を起こそうとする。背中が床から離れる。数センチ。肩が上がる。でも、それ以上は無理だ。腰が浮かない。足がまったく言うことを聞かない。太ももが痙攣し、ふくらはぎが硬直している。
くそ。くそくそくそ。
無念が、喉の奥で滾る。唾を飲み込むと、鉄のような味がした。歯茎から血が出ているのかもしれない。唇を噛みしめすぎたのか。