第五章 シャッターの向こう側
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
二〇二六年、一月。
新年を祝う華やいだ空気はまだ街の隅々に残り香を留めていたが、俺の意識はすでに日常のレールへと戻っていた。塾の冬期講習。冷え切った空気を切り裂くように自転車を走らせる。
カバンの中には、あの聖夜にレイさんから贈られた大葉健二さんのブロマイドが収まっている。それは単なるコレクションではなく、今の俺にとっては、どんな神社の守札よりも確かな効力を持つ「お守り」だった。
店に入ったら、まずは「あけましておめでとう」と切り出そう。
新年の挨拶自体はLINEですでに済ませてはいたが、やはり、あの琥珀色の空間で、彼女の瞳を真っ直ぐに見て伝えなければ始まらない。
受験シーズンが本格化すれば、レイさんもこれまでのように、店の手伝いをする暇もなくなるはずだ。だからこそ、この新年初の対面だけは、何があっても直接果たしておきたかったのだ。
いつもの角を曲がる。視線は無意識に、あの温かな光が漏れる場所へと向けられた。
「……は?」
思わずブレーキを強く握りしめた。タイヤがアスファルトを噛む嫌な音が響く。
そこにあるはずの光が、ない。
重々しい鉄のシャッターが地面まで固く下ろされ、そこには「臨時休業」と手書きされた紙が一枚、寒風に震えながら貼られていた。ただ沈黙を守るだけの鉄板が、冬の低い陽光を無機質に跳ね返している。
(臨時休業? なぜだ。こんなことは初めてだぞ……)
胸の奥に、ざらりとした砂を噛むような不安が広がる。いつもなら店先まで漂い、俺の鼻腔をくすぐるはずの芳醇なコーヒーの香りもしない。ただ、乾いた風が路地を空虚に吹き抜けていくだけだ。
スマホを取り出して、LINEのトーク画面を開く。最後のメッセージは三日前。「またマロンで会おうね。おやすみなさい」。既読はついている。だが、それ以降は何もない。
送ってみた。
「マロンが開いてないけど、何かあった?」
既読がつかない。
気のせいだ、と思った。受験前で忙しいんだろう。スマホを見る余裕もないくらい勉強に集中しているんだろう。
それでも、冷たいシャッターから目が離せなかった。しばらくその前に立ち尽くすも、聞こえてくるのは静寂だけだ。
「…ぐぅ…む」
声にならない呻きを飲み込み、再びスマートフォンの画面を叩く。LINEのトーク画面に変化はない。
俺は再びペダルを漕ぎ出した。きっと急な私用か何かだ。自分にそう言い聞かせ、言い訳を積み上げながら塾へと向かった。
いつもより三十分も早く着いてしまった塾のロビー。
自販機で買った微糖の缶コーヒーを握りしめ、ベンチに腰を下ろした。だが、アルミ缶が伝える熱さえ、指先の芯に残る冷えを解消してはくれない。
そこへ、佐藤がやってきた。
「よお、相羽……」
「ああ、佐藤。明けましておめでとう。今日も気合い入れて——」
言いかけて、言葉が止まった。佐藤の様子が明らかにおかしい。俺の視線を避けるように、何かを躊躇い、過剰に気遣っているような、そんな落ち着かない気配。
「なんだ、どうした? 新年早々、そんな神妙な顔して。お前らしくねぇぞ」
努めて明るく振る舞ったが、俺の言葉に反応して佐藤の表情はさらに強張った。
「……お前、まだ知らないのか? 江村さんのこと」
「江村さんのこと?」
俺の心臓が、嫌なリズムで跳ねた。胃の腑がせり上がるような、どす黒い予感が脳内を侵食していく。
「一昨日のことだよ。江村さんとお父さんが乗ってた仕事用の軽トラックが、駅前の交差点で信号無視の車に突っ込まれたんだ。……かなりの大事故だったらしい」
大事故。
その三文字が脳に突き刺さった瞬間、俺の思考回路は完全にショートした。
「…なんだって?」
「二人とも救急車で病院に搬送されたって、俺のところにもLINEが来てさ。詳しい容体までは分からないんだが……」
手に持っていた缶コーヒーから、温度が消えた。
指先から血の気が引き、全身が凍りついていくような錯覚に陥る。
「レイさんが事故? …おい、マジかよ。嘘だろ! どこだ? どこの病院だ。搬送先は分からないのか!」
俺は我を忘れ、佐藤の胸ぐらを力任せに掴んでいた。
「落ち着けよ、相羽! 分かる、お前の気持ちは痛いほど分かるから! おそらくここから一番近い総合病院だとは思うが……正直、俺もそれ以上よくわからねぇんだ」
その言葉に、俺はかろうじて腕の力を抜いた。
そうだ、落ち着け。ここでパニックを起こしても、現状は何一つ好転しない。
必死で自己制御を試みたが、激しい動悸と指先の震えはどうやっても止まらなかった。
俺とレイさんが最後に言葉を交わしたのは、三日前の夜だ。
彼女が綴った最後の一文は、「またマロンで会おうね。おやすみなさい」だった。
その翌日に、事故に遭ってたなんて
ようやくまた会える、新しい年が始まると信じて疑わなかったのに。
寝る前の「おやすみなさい」の儀式を、なぜもっと大切に、習慣にしておかなかったのか。そうすれば、もっと早く、彼女の沈黙に気づけたはずなのに。
講義が始まっても、意識は完全にここではない場所を彷徨っていた。
ホワイトボードを滑るマーカーの乾いた音も、講師の熱を帯びた解説も、今の俺には一切の意味を持たない空虚な雑音でしかなかった。
教卓の上には、年末に受けた模試の結果が置かれている。
俺の成績は「A判定」。志望校合格はほぼ確実という、文句のつけようのない数字だ。
正直に言えば、俺の学校での成績は決して褒められたものではなかった。一学期の通知表など、目を覆いたくなるような惨状だったのだ。それが、ここへ通い始めてから、二学期には急激な上昇曲線を描いた。
それは俺自身の努力の成果でもあり—何より、マロンという場所やレイさんとの出会いが、俺に未知の活力を与えてくれたからに他ならなかった。
だが、今の俺にとって、その「A」の文字は何の価値もない紙屑にしか見えない。
窓の外、どんよりと濁った冬の空からは、霙混じりの冷たい雨が降り始めていた。
講義の最中、思考を研ぎ澄ませた俺は、明日レイさんの通うU中を訪ねることを決意した。
明日からは三学期。彼女の身に起きたことについて、学校側で何らかの情報が共有されているはずだ。
講義が終了した瞬間、俺は佐藤を呼び止め、藤井ゆりかの所在を尋ねた。以前、俺が助けたレイさんの友人だ。案の定、彼女も同じU中だった。
「レイさんのことで話をしたい。明日、俺が学校へ行くことを伝えておいてほしい」
俺は佐藤にそう頼み込んだ。
「分かった。お前には借りがあるからな。任せとけ」
いい奴だ。心底そう思った。
帰り道、俺は吸い寄せられるように、もう一度だけ『マロン』の前を通った。
シャッターは相変わらず、冷たく、頑なに閉ざされたままだった。何度も通ったはずのこの場所が、これほどまでに無機質な鉄の塊に見えたのは初めてだった。
冷たい夜風が頬を刺す。霙はいつの間にか止んでいたが、空には星一つ見当たらなかった。
その夜、食事はほとんど喉を通らなかった。熱い湯を浴び、機械的に寝床につく。
布団の中で、ただ「早く明日になれ」と呪文のように念じ続けた。
眠りの淵は遠く、意識はずっと、暗いシャッターの向こう側を彷徨っていた。