第九章 初デート、透明な壁の向こう側
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
日曜日の朝は、冬にしては穏たやかな、どこか春の予感さえ孕んだ青空が広がっていた。 病院のロビーに据えられた長椅子で待っていると、楓さんに付き添われたレイさんが廊下の奥から歩いてくるのが見えた。 カジュアルなダウンジャケットに、スリムなジーンズ。中学生らしいシンプルな装いだったが、やはり彼女には、そのボーイッシュなショートカットと知的な眼鏡の組み合わせが、よく似合っていた。
(……効くぜ、本当に)
何がどう「効いて」いるのか。心の中で自分自身にツッコミを入れながらも、俺は呼吸を整え、努めて平静を装って立ち上がった。
「おはようございます」
「おはよう、ヒーローのお兄ちゃん!」
レイさんが、弾むような声と共に満面の笑みを浮かべた。
その背後、松葉杖をついた本郷さんと、寄り添う楓さんに向かって、俺は深く一礼した。 「今日は、よろしくお願いします。あまり無理はさせず、必ず早めに戻りますので」
「頼むよ、相羽くん」
本郷さんが、その大きな身体を少し揺らしながら、信頼を込めた眼差しを向けてくる。「レイのこと、任せたぞ」 「楽しんできてね、レイ」
楓さんが愛おしそうにレイさんの髪を優しく整え、それから俺の傍らに歩み寄ると、周囲に聞こえないほどの小声で囁いた。
「じゃあ相羽くん……レイをよろしくね」
その言葉の重みを、俺はしっかりと受け止めていた。
実は、お出かけの約束を取り付けた一昨日。俺が病院の正面玄関を出ようとした際、背後から慌てて走ってきた楓さんに呼び止められ、ある「お願い」を託されていたのだ。
『相羽くん、実はね……昔、家族でよく行っていた古い商店街があるの。レイがまだ本当に小さかった頃、毎週末のように三人で手を繋いで歩いた場所なの。もし差し支えなければ、今日、そこにあの子を連れて行ってほしいの』
楓さんの瞳の奥には、祈るような、かすかな期待が宿っていた。
『わかりました、任せてください』 あの時、俺は力強く答えた。
だからこそ、今回の日曜デートの舞台は、あえて最新の大型ショッピングモールではなく、下町情緒の残るあの懐かしい商店街を選んだ。当然、この二日間で周辺の裏道から休憩できそうな甘味処まで、頭の中に完璧なマップを叩き込んである。
病院の自動ドアを抜けた瞬間、レイさんが冷たく澄んだ冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「わあ……外の空気、すごく気持ちいい!」
「久しぶりだもんね、外の空気は」
「うん、ずっとあの白いお部屋に閉じ込められてたから」
弾むような足取りで歩き出したレイさんだったが、ふと、歩調を緩めて自分の手のひらを見つめた。じっと指を曲げ伸ばししながら、ぽつりと呟く。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん? どうした?」
「……私って、やっぱり変かな?」
「何がだい」
「だって……」
レイさんは一歩を止め、自分の身体を見下ろした。
「私、子どものはずなのに、身体が、全然違うんだもん。大きくて、手足が長くて……なんか、すごくしっくりこないの」
俺は彼女を見つめながら、ただ静かに次の言葉を待った。
「鏡を見るたびに、全然知らない人がこっちを見てるみたいで。自分の手なのに、プラスチックの手をはめてるみたいに変な感じがして」
「……怖いかい?」
「ちょっと、怖い。でも……」
レイさんは眼鏡の奥の瞳を僅かに曇らせ、もどかしそうに眉を寄せた。
「それよりも、なんかここ数日、ずっと胸の奥がざわざわするの」
「ざわざわ?」
「何か、とっても大切なことを忘れている感覚があるの。でも、それが何なのかがどうしても思い出せなくて……。目の前に透明な壁があって、その向こうにあるものが見えないみたいで。すごくもやもやして、嫌な感じなんだよね」
俺は小さく息を呑んだ。 (これは…もしかして、前兆なのか)
医師の言葉が脳裏をよぎる。脳への衝撃と一時的な防衛反応が解ければ、遅かれ早かれ記憶は戻る。彼女が感じているその「もやもや」とした違和感は、眠りについていた十五歳の「江村玲愛」が、必死に内側から扉を叩いている証拠ではないだろうか。
「そのもやもや、焦って消そうとしなくていい。大事にするんだよ」
「え?」
「きっと、心の準備をしてるんだ。悪いことじゃない」
レイさんは目を丸くし、俺の顔をじっと見つめた。やがて、もやが晴れるように小さな笑みを零す。
「……うん。お兄ちゃんがそう言うなら、そんな気がしてきた!」
再び歩き出した彼女の横顔を見ながら、俺の胸の中には、ほんの少しの不謹慎なワクワク感が混ざり合っていた。
今、俺の隣を歩いているのは、まぎれもない「九歳の江村玲愛」だ。普段の凛とした彼女からは決して見られない、特撮オタクとしてのルーツや、少女らしい無防備な一面を一番近くで体感している。この不条理な状況を、不謹慎だと自覚しつつも胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
「ねえ、お兄ちゃんはどんなヒーローが一番好きなの?」
「宇宙刑事ギャバン。この前話した、銀色の戦士さ」
「あ、あのピカピカのスーツの!」
「そう、それ。光を超える速さで蒸着するんだ」
「どうして好きになったの?」
「父親の影響かな。我が家はレトロな映像遺産が豊富でね。気づいたら平成を飛び越えて、昭和の特撮作品にたどり着いていた」
「ふーん」 レイさんは人差し指を顎に当て、考えながら歩く。
「私はね、やっぱりトッキュウジャーのライトが一番好き。正直で、真っ直ぐで、ちょっとドジだけど、絶対に諦めない。ライトを見てると、私の心の中にも『イマジネーション』が湧いてくる気がするんだよね」
「だから、俺を見た時にライトに似てるって言ったのか」
「うん!」
レイさんは即座に振り返り、満面の笑みで首を縦に振った。
「だから最初に病室で会った時、本物が来てくれたのかと思って、本当にびっくりしたんだから!」
俺は照れ隠しに頭を掻いた。 (……やっぱり、このデート、最高にワクワクするぜ)
その頃。賑わい始めた商店街の入り口から少し離れた交差点。 三つの怪しい人影が、電信柱の陰から二人を追っていた。
「来た来た、予定通り」 ゆりかが声を潜めながら、前方の二人に視線を走らせる。
「ちょっと、二人とも楽しそうじゃん」 めぐみがクスクスと笑いながら風に揺れるボブヘアーを押さえた。
「よし、ついていくぞ」 中川がそう短く告げて一歩を踏み出す。
三人は一定のディスタンスを保ちながら、前方を歩く二人の背中を追尾し始めた。 ゆりかは、楽しそうに笑うレイの背中を見つめながら、ふと声を和らげた。
「……記憶が戻った時、レイはどんな顔をするんだろうね」
「先生は遅かれ早かれ戻るって言ってたしね」 めぐみが静かに頷く。
「レイの芯の強さはよく知ってる。きっと大丈夫だよ」
「うん。分かってるんだけどさ……なんかね」
言葉を濁すゆりかの隣で、中川が前を見据えたまま平然と言い放った。
「相羽くんがついてるんだから、大丈夫さ。彼に任せておけば、どうにかしてくれる」
ゆりかが、少し目を丸くして中川の横顔を覗き込んだ。
「中川くん、えらく相羽君を買ってるね」
「一緒に行動すれば嫌でも分かる。…彼は本物だよ」
中川の迷いのない言葉に、ゆりかとめぐみが顔を見合わせた。二人の唇から、同時に嬉しそうな笑みが零れ落ちる。
「でも、こうして見てると、なんか……すごく良いよね」
めぐみがしみじみと呟くと、ゆりかも深く同意するように頷いた。
「うん、良いね」
中川はそれ以上、何も言わなかった。ただ、二人の後ろ姿をしっかりと視界に収めながら、少し早足になって彼らを追いかけた。