第九章 初デート、指の間をすり抜ける記憶
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
巨大なショッピングモールの内部は、外から見るよりも遥かに広大だった。
遥か高くまで切り取られた吹き抜けのエントランスから、何本ものエスカレーターが未来的な光を反射させながら、上へ上へと幾重にも交差している。レイさんは、まるで未知の要塞に迷い込んだ子供のように、きょろきょろと辺りを見回しながらエスカレーターの手すりに手を添えた。
「でっかいね、ここ…」
「そうだね。ここ数年の建築技術の粋を集めたような場所さ」
「なんか、うっかりしてたら迷子になっちゃいそう」
「はぐれないようにしようね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、レイさんが俺のダッフルコートの袖口を、人差し指と中指でちょんと小さくつまんだ。
「じゃあ、これでいい?」
「……あ、ああ。オーケー」
急激に耳の裏が熱くなっていくのを自覚しながら、俺はただ前を向いたまま、上へと昇るエスカレーターのステップに立ち尽くしていた。
最上階のフロアにたどり着くと、そこには壁一面を覆うほどの巨大なパノラマウィンドウが広がっていた。
冬の、少し傾きかけた午後の日差しが、柔らかな琥珀色の光となって床一面に差し込んでいる。窓の向こうには、遮るものなくこの街の全景が一望できた。
レイさんは歓声を上げるように、窓辺へと駆け寄った。
「わあ……!」
しばらくの間、彼女は声もなく、眼下に広がる街並みを見つめていた。やがて、ガラスの冷たい表面に、そっと細い指先を這わせる。
「あそこ」
「どこだい?」
「あの辺りにね、私が通っている…いたのかな…小学校があるの」
レイさんが指し示した遙か先には、冬枯れの街並みの中で、こんもりとした木々の緑が小さく息づいていた。校庭の片隅に佇む、大木の梢だろうか。
「へえ、あの場所なんだね」
「運動会の時ね、あの木のそばにゴザを敷いて、お弁当を食べたんだよ。お父さんとお母さんと、三人でね」
レイさんは愛おしそうに、記憶の中の温もりを反芻するように目を細めた。それから、ふと顔を上げて俺を見つめる。
「お兄ちゃんの学校は、どこにあるの?」 「俺は隣町に住んでいるからね、残念ながらここからは、ちょっと見えないんだ」
「隣町か。けっこう遠いところに住んでいるんだね」
「でも、自転車を飛ばせば二十分くらいさ」 「それって、十分に遠くない?」
「慣れちゃったよ」と俺は肩をすくめて笑った。
「これでも身体を動かすのは得意な方だからね」
レイさんは納得したように頷くと、再び窓の向こうへと視線を戻した。 「じゃあ……『マロン』は、どこにあるの?」
俺はガラス越しに地上の起伏を見渡した。商店街の出口から、細い路地を一本入ったあの場所。方角を確認し、指を差す。
「あの辺りかな。さっきの商店街を抜けて、少し歩いたところ」
「あの辺り……。思ったより、ずっと近くなんだね」
レイさんは目を凝らし、じっとその方角を見つめ続けた。
不意に、彼女の綺麗な眉が中央に寄せられる。唇をきゅっと結び、意識の奥底にある深い闇から、必死に何かを手繰り寄せようとする。そんな切迫した表情だった。
その瞬間、彼女の耳の奥に、どこか遠い場所からの残響(こだま)が響いたような気がした。 優しくて、どこまでも真っ直ぐで。自分の知らないはずの、しかし、どうしようもなく魂が知っている。そんな不思議な声の響き。 けれど、その輪郭を掴もうと指を伸ばした瞬間、記憶の糸は陽炎のように、するりと指の間をすり抜けて消えてしまった。
「…なんか」
「うん?」
「なんかね、今、見えそうな気がしたの」 レイさんはもどかしそうに、自分のこめかみに手を当てた。
「でも、やっぱり分からない。コーヒーの、すごく香ばしくて優しい匂いがしたような気がするんだけど……それが何なのか、誰の場所なのか……」
俺はただ黙って、彼女の小さな肩の隣に立っていた。
「思い出せないや……」
レイさんはぽつりと小さく呟き、自らの不甲斐なさを責めるように、窓の外から視線を落とした。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。せっかく教えてくれたのに、やっぱり駄目だった」
「無理をすることはないよ」
「でも…」
「本当に、無理しなくていいんだよ」
俺はできる限り声を低く、穏やかなトーンに整えて彼女を宥めた。
「コーヒーの匂いがした。今の君にとっては、それだけで十分すぎるくらいの大進歩さ。焦る必要なんてどこにもない」
レイさんはじっと俺を見上げ、やがて、張り詰めていた肩の力を抜いて小さく頷いた。
「…うん」
街を遮るガラス窓の向こうでは、太陽が西の空へと急ぎ足で傾き始め、世界を鮮やかな茜色へと染め変えようとしていた。
楽しい時間の終わり、帰るべき夕刻が近づいていた。 「なんだか、少し喉が渇いちゃった」とレイさんが微笑む。
「じゃあ、何か冷たい飲み物でも買ってこよう。ここで少し待っていてくれるかい」
俺は彼女を一階のロビーまで連れて降り、大きなクッションソファに腰掛けさせた。
「何がいい?」
「オレンジジュースがいいな」
「分かった。すぐに戻るから、どこにも行っちゃ駄目だよ」
俺は小走りで地下の食品売り場へと向かった。モールの自販機は観光地価格で高い。
地下のスーパーなら、同じメーカーのものが数割安く手に入るはずだ。中学生の財布事情は、常に涙ぐましい節約の積み重ねによって成り立っている。
地下へと降下するエスカレーターの金属音を聞きながら、俺はぼんやりと、さっきの彼女の言葉を反芻していた。
コーヒーの匂いがした。
彼女の脳は、意識の届かない深い領域で、確実に失われたピースを取り戻そうと蠢いている。医者が言っていた通り、遅かれ早かれ、彼女はあの『マロン』の日々を―。
食品売り場で瑞々しい果汁百パーセントのオレンジジュースと、自分用のカフェオレ缶コーヒーを買い、レジの列に並びながら今日という一日を振り返る。
充実の特撮トーク、大衆食堂の素朴な親子丼、窓辺で夕日を浴びていた彼女の横顔。
(不謹慎だが、最高の、いい一日だったな) 小さなビニール袋を指にかけ、俺は幾分か軽い足取りで一階へのエスカレーターを駆け上がった。
同じ頃、一階の吹き抜けロビー。
レイは長めのソファに深く腰掛け、少し疲れた足をぶらつかせながら勇介の帰りを待っていた。
幾何学的な模様を描く高い天井を見上げ、ぼんやりと光の粒を追いかけていた、その時だった。
「―やあ」
頭上から、唐突に不躾な声が降ってきた。 レイが弾かれたように顔を上げると、そこには一人の若い男が立っていた。年齢は勇介と同じくらいに見えるが、その顔には見覚えが全くない。
「君、江村さん…だよな?」