第十章 迫りくる悪意・前編
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
その男――梶山は、どこか値踏みするような、粘つく目でレイを見下ろしていた。
「……うん、そうだけど。お兄ちゃんは?」
「俺は梶山。梶山誠。君と同じ、学校の同級生の」
かじやま。
その名前が耳に落ちた瞬間、レイの胸の奥で、小さな何かがことりと鳴った。
「梶山……くん?」
レイは小首を傾げ、目の前の男をじっと見つめる。
あの日以来、梶山とは一言も口をきいていない。それどころか、目さえ合わせていない。それでも一応顔は覚えている。
目の前に立つ男は、背が高くて、肩幅も広くて、声が低い。
でも――どこか、似ている。
目元とか。口の端の、ちょっと曲がるところとか。
「……梶山くんの、お兄ちゃん?」
「……え?」
梶山の口元が、ひくりと引きつった。
「兄貴じゃねえよ。俺が本人だっての」
その瞬間、レイの肩がびくりと跳ねた。
――あ、やばい。
梶山の頭に、その三文字が浮かんだ。
怖がらせるつもりなんてなかった。ただ、名乗っただけだった。
「……ああ、そうか。まあ、今の君じゃそうだよな」
取り繕うように吐き出した声は、思ったよりぶっきらぼうだった。
梶山はポケットに手を突っ込んだまま、ソファのすぐ脇まで歩み寄る。視線をどこに置けばいいのか分からず、レイの顔と、壁の時計とを、何度も行ったり来たりした。
「俺、相羽の友達なんだわ。今日はあいつと会う予定で、ここに来てたんだよ」
「お兄ちゃんの、お友達?」
「そうそう。だからさ、俺のこと怪しい不審者だと思わなくていいから」
距離を詰め、梶山がレイのすぐ隣のスペースに腰を下ろそうとした、その瞬間。
レイは本能的な嫌悪感に突き動かされるように、さっと身体を極端に端へとずらした。
「知らない人だから、隣に座られるのは嫌」
子供特有の、濁りのないきっぱりとした拒絶だった。
梶山は一瞬、プライドを傷つけられたように不快そうに顔をしかめた。しかしすぐに笑みを張り直すと、一つ席を空けた隣のシングルソファにドサリと腰掛けた。
「……へえ、そっか」
重苦しい、粘つくような沈黙が二人の間に落ちる。レイはただ、勇介が戻ってくるはずの通路をじっと見つめ続けた。
「相羽ってさ」 梶山が、わざとらしく声を落として口を開いた。
「あいつ、普段はあんな優しそうな顔してるけどさ。本当は、裏じゃめちゃくちゃ怖くて陰湿な奴なんだぞ」
レイの視線が、ゆっくりと梶山へと向けられた。
「……怖い?」
「そう。見かけの爽やかさに騙されない方がいい。この前なんかさ、俺に対して、まるで鬼か修羅みたいな顔して怒り狂ってたんだから」
レイは少しの間、その言葉を頭の中で転がしていたが、やがて至極真っ当な疑問を口にした。
「…誰を?」
「えっ?」
想定外の切り返しに、梶山は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「だから……俺を、だけど」
「それって、お兄ちゃんが怒ったんじゃなくて、あなたが何か悪いことをしたから、お兄ちゃんに怒られたんじゃないの?」
梶山はぐっと言葉を詰まらせ、口を半開きにしたまま完全にフリーズした。
何か言い返そうと唇を戦わせるが、論理的な反論が何一つ浮かんでこない。少年の浅薄な悪意の前に、九歳の無垢な正論が重くのしかかった。
その頃、三階のテラスフロアでは。
吹き抜けの手すりから何気なく一階を見下ろしていたゆりかが、視界の隅に映った人影に、ふと目を留めた。
「あれ…? 一階のベンチにいるのって、レイだよね」
「本当だ、あそこに座ってる」とめぐみが指をさす。
「…隣にいるの、誰だろ。相羽くんじゃないよね? 背が高いし…あ、梶山くんだ」
「本当だ、梶山だ。珍しいな、あいつがこんなところにいるなんて」
後ろから覗き込んだ中川も、最初は特に緊張感もなく、ただの偶然の居合わせとしてその姿を眺めていた。同じ中学校の生徒なのだから、休日に出先で鉢合わせることくらい、よくある話だ。
だが、ゆりかだけは違った。
「…梶山…」
その名前を口にした瞬間、ゆりかの胸の奥に、ざらりとした感触が走った。
そうだ、確か小学校の時、レイが一度だけ、彼のことで酷く落ち込んでいたことがあった。
詳しい事情は聞いていない。ただ、いつも前向きな、あのレイが、珍しく目に涙を溜めて、悔しそうに唇を噛み締めていたのだ。
『ちょっと嫌なことがあってさ』と無理に笑うレイの姿が、当時のゆりかの心に深く焼き付いていた。それ以来、レイが学校で梶山の話題を口にすることは一度もなかったが、二人の間に漂う、冷え切った空気だけは察していた。
内容までは知らなくても、梶山がレイにとって『思い出したくもない不快な記憶の象徴』であることは明白だった。
「…相羽くんは!? 相羽くんはどこ?」
ゆりかは急激に顔色を変え、一階のフロアを見回すが、勇介の姿はどこにもない。
「ん? 相羽くんなら…トイレにでも行ったんじゃないのか?」と中川が首を傾げる。
「違う、そうじゃないの! 」
ゆりかの声が、焦りで微かに震えた。
「レイは梶山に対して、何か嫌な思い出があるらしいの…。なんかいやな予感がする。絶対に引き合わせてはいけない気がするの!」
その言葉の重みに、めぐみと中川の表情が弾かれたように強張った。
レイが梶山を覚えているのか、それとも完全に忘れてしまっているのか、今の三人には知る由もない。どちらに転んでも、あの二人が二人きりでいる状況は、今の不安定なレイにとって危険な予感がする。
「降りよう、すぐ!」
ゆりかが叫ぶと同時に、中川が鋭い目つきで頷いた。
「ああ。何があったか分からないが、とにかく行ってみよう」
三人は手すりから身を翻すと、一階へと続く下りエスカレーター目がけて走り出した。一秒でも早く、大切な親友の盾になるために、彼らは全力で地を蹴った。