第十章 迫りくる悪意・後編
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
一階のロビー。
梶山は苛立たしげに腕時計の針を確認した。 (チッ…まずいな。そろそろ相羽が戻ってくる。時間がない)
あいつに一泡ふかせてやる。その歪んだ目的のために、梶山はさらに声を低く、毒を孕んだトーンへと落とした。
「なあ、江村さん。教えてやろうか」
レイが怪訝そうな目を向ける。
「相羽のやつさ、本当は君が『特撮好き』だってこと、裏でめちゃくちゃ馬鹿にしてるんだぞ」
レイの瞳が、微かに揺れた。
「…そんなことないよ」
「本当のことだって。あいつ、クラスの奴らの前じゃ陰で笑ってるんだよ。『女のくせに特撮番組なんか好きになって、痛い奴だな』ってさ」
「お兄ちゃんが、そんなこと言うわけないよ」 レイははっきりと言い返した。その目には、まだ迷いはなかった。
梶山の顔に、明らかな動揺と焦りが生じる。しかし、引き下がるわけにはいかなかった。 「信じたくないのは分かるけどさ、俺は事実を―」
「私はお兄ちゃんを信じてるから。そんなこと、絶対にない」
レイの静かな、しかし確固たる拒絶が、梶山の言葉を遮った。
二階フロアまで降りてきたゆりかが、手すり越しに一階の様子を窺う。 「相羽くんは…まだ見えない!」
「急ぐぞ!」中川がステップを駆け下りる。
一階のソファでは、追い詰められた梶山の悪意が、ついに一線を越えて暴発しようとしていた。
「いい加減に認めろよ! そもそも女が特撮なんか好きなんてな、頭おかしいんだよ!」
鋭く突き刺さる罵声に、レイの顔が初めて大きく曇った。
「男の趣味の領域にズカズカ入り込んできやがって、場違いなんだよ、お前は! 分かるか? ほんの少し間借りさせてもらってる分際だろ!」
「…なに?いや、やめて」
「特撮ヒーローってのはな、男の子のために作られてるんだよ! 女がいくら好きなふりをしたって、その本質なんか理解できるわけがない。どうせ、テレビに出てるイケメン俳優が目当てなだけだろ?」
「やめて…!」
「知識も浅いくせに、分かったような口を利いてさ。――あいつはな、そういうお前の薄っぺらさを、裏でずっと嘲笑ってるんだよ!」
「やめてって言ってるの!!」
ロビーに、レイの悲痛な叫びが響き渡った。 彼女は両手で耳を激しく塞ぎ、その小さな肩をガタガタと震わせた。呼吸は急激に浅くなり、過呼吸寸前の荒い息が漏れる。大きな眼鏡の奥の瞳には、大粒の涙がじわりと溢れていた。
梶山はその姿に一瞬怯みながらも、歪んだサディズムに突き動かされるように言葉を止めない。
「女のくせに特撮オタクとか言って、恥ずかしくないのかよ? どうせ流行りに乗ってるだけですぐ飽きるくせにさ……って、あのカッコつけた偽善者が笑ってんだよ!」
「―おい」
その時、荒い息を乱しながら猛烈な勢いで滑り込んできた中川が、梶山の眼前に文字通り立ち塞がった。
梶山はびくりと肩をすくめ、顔を跳ね上げる。 「な、中川…?」
「何やってんだお前?江村さんから離れろ。今すぐにだ!」
地を這うような中川の低音。その背後から、ゆりかとめぐみがレイの元へと駆け寄った。 「レイ! 大丈夫!? レイ!」
ゆりかが取り乱した様子でレイの震える肩に手を置く。しかしレイは、未だに両手で耳を塞いだまま、壊れた人形のように浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
その頃、地下の食品売り場から上がってきた俺は、手にしたオレンジジュースと缶コーヒーの入ったビニール袋の重みを感じながら、僅かな胸騒ぎを覚えていた。
(少し、彼女を一人にしすぎたか。急いで戻らねば…)
エスカレーターが最後の一段を終え、一階の開けたロビーが一望できる位置に達した、その時だった。
視界の先、レイさんを座らせたはずの広場の中央が、異常な緊迫感に包まれているのが分かった。人だかりができている。いや、あれはどこかで見覚えのある後ろ姿。
「相羽くん!!」
俺の姿を捉えた誰かが、張り裂けんばかりの大声を上げた。
中川くん!? その隣にはゆりかさんとめぐみさんの姿もある。なぜ、彼女たちがここにいるんだ?
「相羽くん、早く来て!!」
ただ事ではない。俺の心臓が嫌な高鳴りを上げた。
人だかりの隙間から、ソファに丸まっているレイさんの姿が見えた。両手で耳を塞ぎ、痛々しいほどに肩を震わせている。そして、そのすぐ傍らに立っている、背の高い、見覚えのある男の姿―。
「か、梶山…?」
俺に気づいたのか、梶山がびくりと肩を震わせ、こちらへと顔を向けた。
俺は手にしたビニール袋を握りしめたまま、ロビーの喧騒へと向かって全力でコンクリートの床を蹴った。
あっという間に距離を詰め、ロビーに滑り込んだ俺は、梶山を睨みつけるよりも先に、レイさんの前に膝をついた。
「レイさん! 梶山! 貴様、一体彼女に何をした!?」
梶山は俺の怒声に一瞬身を引いたものの、すぐに「してやったり」と言わんばかりの、卑屈なニヤニヤ笑いをその面に張り付かせた。
(おいおい、「レイさんに余計なことはしないでほしい」と言って、「分かった」と返事したのは嘘だったのか)
俺は激しい怒りを抑え込み、レイさんの顔を覗き込んだ。
両手で耳を強く塞ぎ、小刻みに震え続ける彼女の肌は青ざめている。呼吸は完全に乱れ、胸が激しく上下していた。
「レイさん……っ」
俺は彼女を安心させようと、そっとその震える肩へと手を伸ばした。指先が、彼女の衣服に触れた、その瞬間だった。
「触らないで!!」
低く、そして空間を切り裂くような、鋭い声だった。
俺の手が、一瞬凍りついた。その響きが、鼓膜を通り抜けて脳髄に突き刺さる。
さっきまで隣で笑っていた、あの九歳のあどけない少女の声ではなかった。言葉のイントネーション、声音の密度、そこに込められた明確な拒絶の意思。それは、あの『マロン』のカウンターで、静かに、しかし凛とした佇まいで俺と対峙していた―。
(今の、声は……)
俺は息を呑んだ。一瞬の、ほんのわずかな一言だった。けれど、それは間違いなく、十五歳の『江村玲愛』そのものの声だった。
しかし次の瞬間、レイさんは自らの両膝を抱え込むようにしてさらに縮こまり、再びハァハァと浅い呼吸を繰り返し始めた。
(今ので…記憶が戻りかけているのか…!?)
胸の奥が、警報のように激しく脈を打ち始める。だが、今はその驚愕に浸っている場合ではない。何よりも先に、目の前の彼女をこのパニックから救い出すのが先決だ。
俺は伸ばしかけた手を静かに引き、レイさんの視界を遮らないよう、一歩だけゆっくりと距離を置いた。
「大丈夫。大丈夫だよ、レイさん。俺はここにいる。どこにも行かないよ」
極めて低く、深く、波立たない波紋のような声で、俺は彼女の空間を満たすように語りかけた。
その声が届いたのか、レイさんの激しい肩の震えが、段階を経て少しずつ、少しずつ小さくなっていく。耳を力任せに塞いでいた細い指先から、ゆっくりと緊張が解け、その手が膝の上へと下りてきた。過呼吸が確かなリズムを取り戻していく。
長い沈黙の後、レイさんがゆっくりと顔を上げた。
大きな眼鏡の奥の瞳は、涙で酷く潤んでいた。けれど、その瞳の奥にある光は、さっきまでのパニックから完全に落ち着きを取り戻し、確かな理性を湛えていた