第十一章 悔恨・前編
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
その間、梶山は少し離れた場所で、吐き出した毒の残滓を弄ぶように、ただ立ち尽くしていた。勇介が駆け込んできたその瞬間、梶山は一瞬だけ明確に怯気(おじけ)づいた。かつて自分を圧倒したあの凄まじい眼光が、再び自分に向けられたからだ。
しかし、床にうずくまるレイの口から「触らないで」という、鋭く冷徹な拒絶が放たれたのを聞いた刹那、彼の口元には卑屈な、しかし確信に満ちた薄笑いが浮かんできた。
(―うまくいった。思った通りだ)
彼の狙いは、最初からそこにあった。記憶喪失という不安定な精神状態につけ込み、過度なストレスを与えるショック療法でレイの記憶を揺さぶる。同時に、「勇介が裏で君の特撮好きを馬鹿にしている」という最悪の偽りの記憶を滑り込ませる。そうして二人の絶対的な信頼関係の間に決定的な楔(くさび)を打ち込み、傷ついた彼女の心を今度こそ自分に振り向かせる。
あまりにも自己中心的で、浅はかな計画だった。しかし、今のレイの反応は、その歪んだ目論見が成就したことを物語っているように見えた。
(今の『触らないで』は、相羽への拒絶反応だ。間違いない。あいつを憎み始めてるんだ) 梶山は胸の内で、ほくそ笑んだ。
勝利を確信した梶山は、さらに一歩、レイに向かって傲慢に足を踏み出した。
「わかっただろ、江村さん」
その声には、隠しきれない勝ち誇った響きが混じっていた。
「あいつはそういう酷い奴なんだよ。でも、俺は違う。俺はそんな酷いこと絶対に言わない。ずっと、俺は江村さんのことを―」
梶山は憐れみと所有欲の混じった目を向け、レイに向かってそっと右手を差し伸べた。
「さあ、あんな奴のことは忘れて、俺の顔を見てくれよ」
刹那、ロビーの空気が奇妙に張り詰めた。 レイはすぐには動かなかった。しかし、ゆっくりと、恐ろしいほどの静けさを伴ってその顔を上げた。 差し出された梶山の手を、そして彼の卑しい顔を、真っ直ぐに見つめる。その潤んだ瞳の奥底から、マグマのような憤怒の色が、じわじわと、圧倒的な質量で染み出してきた。
「お兄ちゃんが」
レイの声は、地を這うように低かった。
「お兄ちゃんが…そんなこと、言うわけないじゃない」
「え、江村さん? でも、あいつを―」
「私を、騙せると思ったの?」
レイは床を踏み締め、弾かれたように立ち上がった。その小さな体躯から放たれる気迫に、梶山が気圧されたように息を呑む。
「私を…私たちを、バカにしないで!!」
―パンッ!!!
激しく、乾いた破裂音が、静まり返った吹き抜けのロビーに一段と高く響き渡った。
梶山は衝撃に目を見開き、打たれた右頬を片手で押さえながら、無様に数歩後退りした。
完全に思考が停止したように、その目が点になっている。周囲を歩いていた通行人たちが、一斉に足を止め、驚愕の表情でこちらを振り返った。
「レイ……っ!?」
ゆりかさんが短い悲鳴のような声を上げ、自分の口を両手で覆った。めぐみさんも驚きに目を見張り、中川くんは鋭い視線のまま一歩前に出て、いつでもレイを庇えるように身構える。
レイは右手を振り抜いた姿勢のまま、肩を激しく上下させて息を荒げていた。眼鏡の奥の瞳は爛々と燃え盛り、そこには迷いも、躊躇いも存在しなかった。
(これは、もしや…ついに記憶が戻ったのか…!?)
俺は胸の内で歓声を上げ、思わず拳を強く握りしめた。これほど明確な意思の表出は、九歳の彼女のものではない。
だが、その希望に胸を躍らせたのも束の間だった。
「っ……、あ……っ!」
レイさんが突然、苦悶の声を上げて両手で自らの頭を強く押さえた。
「レイさん!?」
俺は咄嗟に身体を動かし、彼女の元へと手を伸ばした。今度は、拒まれることはなかった。 レイさんは俺の差し出した腕にしがみつくようにして、その場に崩れ落ち、激しく膝をついた。苦しげに眉をこれ以上ないほどに寄せ、頭を抱えたまま、喉の奥から小さなうめき声を漏らす。
「いたい……頭が、割れそうに痛いよ、お兄ちゃん……」
「レイさん! くっ、しっかり!一体何が……!」
「なんか……なんか、変なの。頭の中が、色んな景色でぐるぐるして、破裂しそうで……」
レイさんの顔は、激しい肉体的・精神的な苦痛に歪んでいた。しかし、その瞳はさっきのパニックの時とは明らかに異なっていた。
焦点が激しく泳ぎ、定まらない。脳内で、相容れない二つの「何か」が、凄まじい勢いで衝突し、せめぎ合っているような、そんな目だった。
(彼女の中の、九歳の記憶と、十五歳の記憶が……今、無理やり融合しようとしてせめぎ合っているのか!?)
専門的な医学や心理学の知識など俺にはない。だが、目の前で苦しむ彼女の姿を見て、直感的にそれ以外には考えられなかった。
「無理に考えようとしなくていい。ゆっくり、深く息をして」
俺はレイさんの背中にそっと手を当てた。
ゆりかさんとめぐみさんが、青ざめた顔で即座にその脇へと駆け寄ってくる。俺は彼女の細い背中を優しく、一定のリズムでさすりながら、途切れることなく声をかけ続けた。
「ここにいる。俺も、みんなもここにいるよ。大丈夫だ、焦らなくていい」
レイさんは頭を抱え込んだまま、俺の声に応えるように小さく、何度も頷いた。
中川くんは、未だに頬を押さえたまま呆然と立ち尽くしている梶山の前に、まるで鉄壁の盾のように立ちはだかり、鋭い視線で彼を完全に威圧している。
「相羽くん、救急車、呼んだ方がいいよね!?」
ゆりかさんが震える手でスマートフォンを取り出し、悲痛な声を上げた。
レイさんの身体の震えは、激しいピークを越え、俺の手のひらの下で少しずつ、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
「いや、待って。少し待ってくれ!」
俺はゆりかさんを制止した。今、無理に動かすよりも、彼女の中で起きている嵐が収まるのを待つ方が先決だと判断したのだ。
やがて、レイさんは頭を抱えていた手を動かし、自らの顔を覆い隠すように両手で顔を覆った。
「また……やってしまった……」
その声は、涙に濡れて激しく震えていた。 俺は背中をさする手を止め、静かに問いかけた。
「何を? 何をやってしまったの、レイさん」
レイさんは顔を覆ったまま、しばらくの間、深い沈黙に沈んでいた。
やがて、堰を切ったように、ぽつり、ぽつりと、掠れた言葉が彼女の唇から漏れ出し始める。
「叩いて……しまった。また、乱暴をしてしまった……」
それは、怯える九歳の少女の口調だった。しかし、次に紡がれた言葉の響きは、明らかに違っていた。
「また……同じ過ちを、同じ愚かなことを……繰り返したの……」
低く、くぐもった、胸の奥底から絞り出されるような声。さっき俺を硬直させた「触らないで」の響きに酷似した、十五歳の江村玲愛の響きだった。
俺は何も言わず、ただ黙って、彼女の魂の吐露を待ち続けた。
「あの時も……私は、あの人を叩いてしまった。同じように……胸がいっぱいになって、言葉がうまく出てこなくて……」
「あの時というのは、一体いつのことだい?」 「梶山くんに……私の大好きな特撮のこと、大切なヒーローのことを、たくさんバカにされた時……」
レイさんの華奢な肩が、悲哀に満ちて小さく揺れた。
「悔しくて……悲しくて……でも、自分の好きな気持ちをどう説明すればいいのか、うまく言葉にできなくて。だから……感情に任せて、叩いてしまったの」
俺は最初、彼女がただ「梶山をビンタした」という暴力行為そのものを後悔し、怯えているのだと思った。だが、彼女の胸の内にあった傷は、もっと深く、繊細なものだった。
「言葉で……ちゃんと伝えたかった。私がどれだけそれを大切に思っているか、好きだという純粋な気持ちを、ちゃんと……言葉にして向き合いたかった。でも、私にはそれができなくて…」
レイさんの声は、九歳と十五歳、二つの境界線を激しく揺れ動いていた。
「結局、一番嫌悪していた暴力という手段で返してしまった。それが……ずっと、ずっと嫌だったの。自分が情けなくて、許せなくて…」
(そういうことだったのか)
その瞬間、俺はすべてを理解した。
レイさんが六年もの間、無意識の奥底で引きずり、苦しみ続けていた後悔の正体。
それは、単に「人を叩いた」という事実だけではない。大切なものを侮辱された時、それを言葉で理路整然と守りきれなかった自分への深い失望。そして、感情の爆発に任せて暴力に逃げてしまった自分への、激しい悔恨だったのだ。 その二つの失望感は、「特撮好きをバカにされた」という外部からの傷とはまた別の、自らを苛む「棘」となって、彼女の心の最深部に突き刺さったまま残っていたのだ。ずっと、ずっと胸の奥で化膿していたその傷口を、今日のこの出来事が、梶山の独善的な悪意が、無理やり抉り開けてしまったのだ。
「梶山くんが……後から、学校で謝ってくれた時も……」
レイさんは涙を流しながら、言葉を紡ぎ続ける。
「私は、ちゃんと向き合えなかった。どうしても許せない自分が狭量で、嫌だった。許すこともできない自分は、なんて心が弱くて醜いんだろうって、ずっと自分を責めてたの」
「レイさん…」
「本当に嫌だったのに…今日、また同じことをやってしまった」
レイさんは顔を覆ったまま、小さな子供のように激しく嗚咽した。
「また、言葉じゃなくて……先に手が出てしまった。私は……あの時から、何も成長していなかった。何一つ、同じだった……!」
ゆりかさんはもう、涙を止めることができなかった。親友が、まさかそんな風に一人で十字架を背負い続けていたなんて。
中川くんは静かに俯き、めぐみさんはその場に突き動かされるようにして膝をつき、レイの震える肩へそっと手を伸ばした。