第十三章 ただいま・前編
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
俺は、レイさんの涙に濡れた目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「見てくださいレイさん! 俺の『変身』!」
シュピーン!
視界がクリアになった。さっきまでの動揺が噓のように静かに止む。暗闇の向こう側に、彼女の心を救うべき「言葉の光」が、はっきりと見えた気がした。
五感がありえないくらいに研ぎ澄まされる。
突然の俺の発言に、見守っていたゆりかさんが「え……?」と小さく息を呑んだ。
めぐみさんと中川くんも、俺の纏う空気が一瞬で変わったのを察知し、驚いたように目を見張る。
俺は腰を落とし、ゆっくりとレイさんの正面に向き直った。
レイさんが、涙に濡れた眼鏡の奥から、戸惑うように俺を見つめる。九歳の純真と、十五歳の混沌が激しくせめぎ合い、今にも壊れそうに揺れている瞳。
俺はその視線を真っ向から受け止め、彼女の魂へと語りかけるように口を開いた。
「辞めてもいいよ、レイさん」
レイさんが、弾かれたようにその目を見開いた。
背後でゆりかさんが「相羽くん、何を…!」と声を上げかけた。だがめぐみさんがすかさずその肩に手を置き、静かに首を振った。中川くんは腕を組んだまま、じっと俺の背中を見つめている。
俺はゆっくりと、レイさんの正面に膝をついた。目線を、彼女と同じ高さに合わせる。
「今の君にとって、特撮を好きでいることが耐え難い重荷になってしまうのなら……一度、その世界からバイバイしたって構わないんだ」
レイさんの視線が、俺の顔に向けられた。潤んだ瞳が、かすかに揺れている。
「ヒーローというのはね、いつだってピンチの時に傷ついた人を助けに来てくれるものだから。君の心を縛り付けて、苦しめるために存在しているわけじゃない」
俺は一度、視線を床に落とした。言葉を選ぶように、一呼吸置く。それから、もう一度レイさんの目を真っ直ぐに見た。
「辞めてもいい。全部投げ出したっていいんだ」
声に、静かな熱を込める。
「でもね。もし傷が癒えて、いつかまた彼らを好きになったら—その時はいつでも、戻ってきてほしい」
俺はゆっくりと立ち上がった。レイさんを見下ろすのではなく、少し距離を置いて、横に並ぶような位置に移動する。そのまま、静かに言葉を続けた。
「君がどこへ行こうと、どんな道を選ぼうと、君の横にはいつだって、君が愛した彼らが真っ直ぐに立っているんだから」
俺は一歩、後ろへ引いた。
そして、レイさんではなく、その背後に立つ三人へと、視線を向けた。
「僕は知っているよ」
めぐみさん、が、息を呑む気配がした。
「君が風紀委員長として、誰よりも自分を律して、学校の平和を守り続けたことを。どれほど心無い中傷に晒されても、最後まで背を向けなかった、その強さを」
その言葉が響いた瞬間、元・生徒会長であるめぐみの瞳から、堪えきれない涙が溢れ出た。彼女はかつて共に学校を支えた親友の背中を想うように、万感の思いを込めて深く頷いた。
そして元・風紀副委員長として最も近くで彼女の苦悩と誇りを見てきた中川も、拳を強く握り締め、その言葉に嘘はないと証明するように、力強く顎を引いた。
俺はゆりかさんに目をやった。
「僕は知っている。大切な親友を守るために、恐怖を押し殺して暴漢の前に立ち塞がった、君の至高の勇気と優しさを」
その言葉に、ゆりかは自らの胸元をぎゅっと掴み、溢れる涙を隠そうともせず、何度も、何度も激しく頷いた。あの日、自分を守ってくれた凛々しい親友の姿が、その脳裏に鮮明に蘇っていた。
レイさんは、自らに向かって曇りなき親愛の情を向ける友たちの姿を、その目に焼き付けるように見つめていた。みんなが自分のしてきたことを、自分の心を、肯定してくれている。
俺は再びレイさんの前に向き直り、最後の言葉を静かに、そして確かな熱を込めて放った。
「そんな優しくて、誰よりも気高い「正義の心」をその胸に刻んだ君の帰りを—」
一瞬だけ、間を置く。
「俺たちは、いつまでも待っているぜ」
重厚な沈黙が、ロビーの空間に入り混じる。
俺の放った言葉の光が、彼女の脳細胞の奥深く、閉ざされていた暗黒の領域へと届いていく確かな手応えがあった。そしてその言葉は、見守る3人の心にも、熱い灯火となって確かに伝わっていた。
「…辞めても、いい」 彼女は掠れた声でその言葉を繰り返した。それは間違いなく九歳の少女の声音。だが、その弱々しい響きが、彼女の意識の地平の向こう側で、いつか、どこかで聞いた記憶と激しく共鳴を始める。
『好きっていう純粋な気持ちに、性別も、どれだけ長くファンをやってるかなんて年季も、何一つ関係ないです』
いつの、誰の言葉かも分からない残響が、頭の芯で強烈に鳴り響いた。
『レイさんは、僕にとって「特撮作品を心から愛してる、最高のかけがえのない仲間」です』
知らない声なはずがない。いや、知っている。魂がその声の主を覚えている。
「…だれ…?」
レイは、自らの震える胸元にそっと手を当てた。九歳の無垢な瞳が、混沌の闇の底から、一本の黄金の光の糸を必死に手繰り寄せようともがいていた。
「誰の…誰の、声なの……っ?」
その、刹那だった。
―ドンッ!!!
脳を直接揺るがすような、あまりにも巨大な衝撃音が炸裂した。それは世界でレイにしか聞こえない、記憶の防壁が粉々に弾け飛ぶ音。
レイは激しい眩暈に襲われ、片手で強く頭を押さえた。頭の中で、封印されていた膨大な時間の奔流が、一気に、凄まじい濁流となって動き始める。
『烈車戦隊トッキュウジャー』の輝きを初めて目にした、自宅のリビング。
優しい父親の笑い声。包み込むようだった母親の、温かく柔らかな手。
小学校の教室、夕暮れの廊下で浴びせられた梶山の心無い言葉。
期待と不安を胸に潜り抜けた、中学校の入学式。
いつでも隣で笑ってくれたゆりかの顔、気高く前を歩いていためぐみの顔、不器用ながら常に背中を支えてくれた中川の顔。風紀委員長として誇り高く活動していた日々。
そして――カフェ『マロン』の、あの琥珀色のノスタルジックな光。 鼻腔をくすぐる温かいコーヒーの薫り。静謐な古本の匂い。
カウンターの向こう側で、いつも彼女を真っ直ぐに見つめてくれていた、相羽勇介の、あの優しい笑顔。
あの日に見た『ライダーキック』。『宇宙刑事大全』。カウンター越しの会話。聖夜の指切りの約束。
そして彼女が愛した、世界を、地球を、宇宙を守るために戦った、歴戦のスーパーヒーローたちの勇姿。
幼少期の原風景に始まり、九歳から十五歳までの記憶が、ゆっくりと、しかし確実に、一本の糸で瞬く間に繋がっていく。
ほんの二、三秒の出来事だった。
シュピーン―。
どこまでも澄み切った、聖なる金属音が彼女の頭脳の最深部で鳴り響いた。世界で彼女にしか聞こえないその音の終息と共にーその魂は、ついに完全なる「江村玲愛」としての真実を取り戻した。
レイさんの、頭を抱えていた手が、ゆっくりと、天上の光を求めるように動いた。
泳いでいた目の焦点が、揺るぎない知性を伴ってカチリと定まる。
彼女は長い睫毛を震わせ、真っ直ぐに、目の前の俺を見つめた。
「相羽くん……」
その声の響きを聴いた瞬間、俺の身体に電流が走った。
あの、いつもの声だった。静かで、どこか甘やかで、耳にするだけで心がどうしようもなく深く落ち着いてしまう。紛れもない、十五歳の江村玲愛の、あの凛とした声音だった。
俺は、震える気持ちを必死に抑え込みながら、その最愛の人の名を呼んだ。
「…レイさん」
「相羽くん…っ」
レイさんの、眼鏡の奥の瞳から、大粒の涙が次から次へと溢れ出してきた。だが、それはさっきまでの恐怖や悔恨の涙とは、明らかに違う光を放っていた。
「私…私ね、ずっと…ずっと…!」
これ以上の言葉など、今の俺たちには必要なかった。
レイさんは耐えきれなくなったように、前傾姿勢のまま、俺の胸の中へと真っ直ぐに倒れ込んできた。俺は、その華奢な身体を、咄嗟に引き寄せるように両腕でしっかりと受け止めた。
レイさんは俺のダッフルコートの胸元にその顔を深く埋め、声を押し殺しながら、ただひたすらに、堰を切ったように泣き続けた。その背中が、大きく、激しく震えている。
俺は何も言わなかった。ただ、彼女の中の嵐が完全に去るのを待ちながら、その細い背中に、そっと、手のひらを当ててさすり続けた。
一歩引いた場所で、ゆりかさんが目を真っ赤にしながら、自らの口を両手で強く押さえていた。
めぐみさんは感情を抑えきれず、何度も何度も大粒の涙をハンカチで拭っていた。
中川くんは、吹き抜けの遥か天井を見上げたまま、眩しそうに目を細めていた。
「良かった……本当に、良かった……!」と、ゆりかさんが掠れた声で、祈るように呟いた。
「良かったよ、レイ…っ」めぐみさんも、声を上げないように必死で嗚咽を噛み殺している。
中川くんは天井を見上げた姿勢のまま、ぐっと一文字に唇を結んでいた。その切れ長の目には、きらきらとした涙が光っていた。
少し離れた場所では、梶山が未だに立ち尽くしていた。
彼は頬を伝う涙を拭おうともせず、ただ、奇跡のように紡がれたその救済の光景を、魂を奪われたように見つめ続けていた。
どれほどの時間が経っただろうか。やがて呼吸を整えたレイさんが、ゆっくりと俺の胸から顔を上げた。
眼鏡は不格好に大きく曲がり、その目は真っ赤に充血している。だが、その瞳の奥には、元・風紀委員長としての、そして一人の勇敢な特撮オタクとしての焦点が、しっかりと合わさっていた。
レイさんは俺の目を真っ直ぐに見つめ、少しだけ照れくさそうに、そして最高に愛らしい笑みを浮かべた。
「ただいま、相羽くん」
「おかえり、レイさん」
ただそれだけの言葉で、俺たちの間には、十万文字の会話よりも深い全てが伝わっていた。
レイさんは俺の胸からゆっくりと身体を離すと、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、ゆりかさんたちの方へ向き直った。
「ゆりか…めぐみちゃん、中川くん……」
声が掠れていた。
「ずっと、心配かけたよね。ごめん」
その一言で、ゆりかさんの中の何かが決壊した。
「レイ〜!」
涙声のまま、レイさんに駆け寄って思い切り抱きついた。
「ごめんじゃないよ! 良かった、本当に良かった…!」
「ゆりか…」
「もう、ほんとに…!」
めぐみさんも続いて駆け寄り、二人を包み込むように抱きしめた。
「二人とも安心しろ。江村さんのいいところ、何も変わってないよ」
少し離れた場所から、中川くんが目元を拭いながら、いつもの落ち着いた声で言った。
「子供の頃から、ちゃんと江村さんだったよ」
レイさんが顔を上げ、中川くんを見た。
「中川くん……見てたの?」
「しっかり見てたよ」
中川くんは小さく笑った。
「委員長が戻ってきてくれて、よかった」
レイさんは少し泣き笑いの顔になって、こくりと頷いた。
「ただいま、みんな」
「おかえり、レイ」
三人の声が、綺麗に重なった。