第十三章 ただいま・後編
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
古書カフェ「マロン」の琥珀色の光の中で、二人は出会った。 特撮オタクの中学三年生・相羽勇介は、正義感が高まるとすべての能力がアップする特技を持つ少年。同じく特撮を愛する江村玲愛との出会いは、彼の日常を静かに、しかし確実に塗り替えていく。 クリスマスの夜、交わした小指の約束。だが新年早々、玲愛は交通事故に遭い、記憶を失って目覚める。彼女が覚えているのは、九歳までの記憶だけだった。 「好きという気持ちに、性別も年季も関係ない」 かつて彼女に伝えたその言葉を胸に、勇介は走る。歴代のスーパーヒーローたちが命を懸けて守り続けた「正義の心」を道しるべに、たった一人の少女の笑顔を取り戻すために。 これは、ヒーローに憧れた少年が、本物のヒーローになるまでの物語。 ※作中において実在の人物名などが出ることもありますが、あくまでもリアリティを出すための演出であります。
本文
―再会の喜びに沸く者たちの視界の外で、梶山はまだ立ち尽くしていた。
勇介があのセリフを放った瞬間から、時間が止まったままだった。
両手はだらりと下がり、小刻みに震えている。半開きの口が言葉を探しては、また閉じた。血の気の引いた顔の中で、瞳孔だけが不自然に開いていた。
(……今のは、なんだったんだよ)
何か聞こえたわけでも、見えたわけでもない。それでも、確かに空気が変わった。うなじの産毛が逆立つような、あの感覚。
陥れようとしたあの男から感じられたのは、小学生時代に「幼稚だ」と嗤われて胸の奥に押し込めてきたもの――。
(嘘だ……そんなの、あるわけ、ないだろ……っ)
否定したいのではない。信じてしまいそうな自分が、怖いのだ。
目の縁から、また涙が盛り上がった。悔しさでも憎しみでもない、何かだった。
彼女――江村玲愛の心を救ったあの男の姿は、紛れもなき正義のヒーローそのものに見えた。
勇介の腕から離れると、レイは床を踏み締め、ゆっくりと立ち上がった。
少し乱れていた髪を軽くかき揚げ、まだ同じ場所に立ち尽くしている梶山の方へと歩み寄っていく。何を言うべきかは、もう決まっていた。
気配を察した梶山が、怯えるように顔を上げた。彼の目は真っ赤に腫れ、乾きかけた涙の跡が両頬に痛々しく刻まれている。
その顔を見た瞬間、レイの脳裏に、ふと小学生の頃の記憶がよぎった。
昼休みの教室の隅。梶山と二人で、特撮ヒーローの話で盛り上がっていたあの頃のこと。
「宇宙刑事ギャバン、かっこいいよね。昔の作品だけど知ってる?」
「知ってるよ!メタルヒーローだろ!」
あの頃は、ただ純粋に、好きなものについて語り合える相手がいることが嬉しかった。梶山は本当に、特撮のことをよく知っていた。
——それなのに。
レイは、梶山のすぐ目の前で足を止めた。
しばらくの間、二人は声もなく、重苦しい沈黙の中で真っ向から向き合っていた。
やがて、玲愛は静かに口を開いた。
「あなたが今日、私に言った残酷な言葉を、私は忘れない」
梶山が、罪を宣告された罪人のように唇を強く噛み締めるのが見えた。
「特撮のことだけじゃないわ。私の記憶の空白を利用して、相羽くんを陥れようと卑劣な嘘をついたことも、すべて」
梶山が耐えかねたように視線を床へと逸らした。
あの日、私もこんな顔をしていた。
少し前まで一緒に楽しく話をしていた相手から「女のくせに」と言われた。
信じられなかった。裏切られた気持ちだった。だからこそ、あそこまで深く傷ついたのかもしれない。
「けれどね」
一拍置いて、レイは続けた。
「好きという私のこの純粋な気持ちを、これから何度踏みにじられようと、私はそれだけは、絶対に曲げない。だから……あなたも、もう二度と、誰かの『好き』という大切な気持ちを踏みにじるようなことはしないで」
声を荒げるつもりはなかった。ただ、自分の魂の言葉を、真っ直ぐに相手の胸の真ん中へと届けたかった。
「自分が心から大切にしているものを、誰かに理不尽に馬鹿にされたら、どれだけ悲しくて、どれだけ胸が張り裂けそうになるか。……同じヒーロー好きなら、よく分かるでしょう?」
梶山は完全に打ちのめされたように、何も言い返せず、ただ小さく肩を震わせるだけだった。
その姿を見つめながら、レイの胸の奥に、小さな痛みが灯った。
(ずっと寂しかった)
あの一件がなければ、今でも一緒に特撮の話ができていたのかもしれない。そう思うと、怒りだけでは片付けられない、複雑な切なさが込み上げてくる。
それでも、言わなければならないことが、もう一つ残っていた。
「それから……二度もぶってしまって、本当にごめんなさい」
刹那、梶山が弾かれたように目を見開く。
「……え? 君が、俺に謝るのかよ……っ」
「どんな理由があれ、言葉の代わりに暴力を振るうのは、人として良くないことだから」
これだけは、はっきりさせておきたかった。
レイは、真っ直ぐな眼差しで梶山の目を見つめ返した。それ以上、付け加える言葉は何もなかった。
静かに踵を返し、勇介たちの待つ場所へと戻っていく。
後ろに取り残された梶山が、今にも消え入りそうな、掠れた声でぽつりと呟くのが聞こえた。
「……ああ……っ」
その声には、懺悔だけでなく、失われた何かを惜しむような響きも、確かに混じっていた。
すべての嵐が去り、俺たちが病院の白い建物へと戻ってきたのは、夕刻の帳が街を包み込もうとする少し前だった。
チン、と静かな音を立ててエレベーターの扉が開く。無機質な廊下を歩くレイさんの足取りは、病室から出てきた時のあの危うげなものとはまるで違っていた。大地をしっかりと踏み締める、凛とした確かな強さ。
―当然さ。彼女の胸には今、強くて優しい無敵のスーパーヒーローたちが宿っているのだから。
病室のドアを開けると、本郷さんと楓さんが、備え付けのソファに並んで座っていた。
二人が顔を上げた瞬間、レイさんが迷わず駆け寄った。
「お父さん、お母さん」
楓さんが、弾かれたように立ち上がる。
「レイ……?」
「ただいま。心配かけて、本当にごめんなさい」
楓さんは震える両手でレイさんの顔を包み込み、その瞳をじっと見つめた。
「レイ…戻ったの? 本当に、戻ってきたのね?」
「うん」
レイさんが、深く、優しく頷く。
「全部、思い出したよ」
その瞬間、楓さんの目から大粒の涙が溢れ出た。言葉にならない想いを抱いたまま、ただ静かに涙を流し、愛娘の身体を強く抱きしめた。
「良かった…良かったわ、レイ…っ!」
本郷さんが、痛む足に松葉杖をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。その男らしい目が、赤く潤んでいる。大きな手のひらが、レイさんの頭にそっと置かれた。
「おかえり、レイ」
低く、それでいてとても穏やかな声だった。
「ただいま、お父さん」
三人は、しばらく無言のまま抱き合っていた。失われた時間が、一つの絆として再び結びついていく。
その光景を後ろで見守りながら、ゆりかさんはめぐみさんの肩に頭を預け、声を殺して静かに泣いていた。めぐみさんも優しくその肩を抱きながら、目頭を熱くしている。中川くんは廊下の壁に背を預けたまま、腕を組み、細めた目でその温かい光景をじっと見つめていた。
しばらくして、本郷さんがゆっくりと俺の方を振り向いた。
「相羽くん」
「はい」
「ありがとう」
本郷さんの男としての、そして父親としての万感の思いがすべて詰まった、わずか五文字の言葉。
それは俺にとって、どんな勲章よりも重く、これ以上にない最高の褒め言葉だった。
俺は何か気の利いた男らしいセリフを返そうとした。だが、胸がいっぱいで何も思いつかない。だから、ただ無言で、深く、深く頭を下げた。
楓さんが、涙を拭いながら言った。
「相羽くんがいてくれて、本当に良かったわ。レイからお名前は何度も聞いていたけれど――こんなに素敵な方だったなんて」
思わず「はい!」と胸を張りそうになったが、ここはぐっと堪えて、大人の謙遜を見せる。
「素敵なんて、そんな。ただ…放っておけなかっただけですから」
本郷さんが、それを見て低く愉快そうに笑った。
「それが一番、大事なことなんだよ」
今度は俺が照れる番だった。顔をポリポリと掻きながら、それ以上は何も言えなくなってしまった。
帰り際、レイさんは病院の正面玄関まで俺を見送りに来てくれた。
ガラス越しに差し込む街灯の光の中、眼鏡の奥の澄んだ瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「相羽くん」
「ん?」
「今日のこと……ちゃんと、覚えてるから」
「全部?」
「全部だよ」
レイさんが小さく頷く。その白い頬が、夕暮れの赤に染まるように少しだけ赤くなった。
「おもちゃ屋さんで特撮の熱い話をしたことも、食堂のあの美味しい親子丼も、最上階の展望ロビーから見た景色も……ぜんぶ、一瞬一瞬を覚えてる」
「うん」
「それとね」
レイさんが、言葉を重ねた。
「相羽くんが私に言ってくれた言葉も、全部ここに残ってる」
今度は俺の耳の裏が熱くなる番だった。
「…辞めてもいい、って言ったやつ?」
「うん」
レイさんはそう言って、微笑んだ。
「あの言葉を相羽くんがくれたから、私は安心して戻ってこれた気がするの」
「いや、レイさんが自分の力で戻ってきたんだよ。俺はただ、それを手助けしただけだよ」
「それが一番、大事なんだよ」
レイさんは、先ほどの本郷さんのセリフをそのまま茶目っ気たっぷりに繰り返して、続けて言う。
「…でもね」
柔らかく微笑みながら俺を見上げてくる。
「何?」
「一番、印象的なのは、あの時かな」
「あの時?」
「うん」
レイさんは一歩近づくと、俺の目を真っ直ぐに見つめながら、少し声を弾ませて言った。
「『見てください、俺の「変身」!』って、すっごく格好よく言ってくれたでしょ?」
「ぶっ――!」
完全に不意を突かれ、変な声が出た。一気に顔がカッと熱くなるのが自分でも分かる。
あの時は必死で、完全にヒーローになりきって口走ってしまったが、こうして改めて本人以外の口から再生されると、恥ずかしさで爆発しそうだった。
「あ、あれは……その、場の勢いっていうか、気合いだよ気合い…あっ、気力転身のための儀式っていうか…!」
こういう時に、シュピーン!ってなってくれないもんかなぁ…おーい!流星!!
じたばたと、わけのわからない弁明する俺を見て、レイさんはくすくすと嬉しそうに肩を揺らす。
「ううん、からかってるんじゃないの。本当に凄く頼もしかった。…あの瞬間の相羽くん、本物のヒーローみたいに輝いて見えたよ」
「レイさん」
「だからね、相羽くんの『変身』、これからも一番近くで見せてね」
そう言って、レイさんは鈴を転がすように笑った。
やられたぜ。俺は赤くなった顔を隠すように頭を掻きながら、完全に降参の笑みを漏らした。
「次は、マロンで」
「うん。待ってるから」
レイさんの退院日が正式に決まった。
次の塾がある日に、休業中の『マロン』を特別に開けて、そこで会うことになったのだ。
これからはいよいよ受験シーズン本番。勉強や今後について二人でたくさん話し合おうっていうことさ。
「気をつけて帰ってね。バイバイ、相羽くん」
レイさんが、ゆっくりと病棟の奥へと歩いていく。自動ドアが閉まる直前、彼女はくるりと振り返り、小さく、名残惜しそうに手を振った。 俺もまた、大きく手を振り返した。
自動ドアが、静かに閉じた。
ガラス一枚を隔てて、レイさんがまだ、こちらを見ていた。
俺も、動けなかった。
何かを言う必要はなかった。手を振る必要も、もうなかった。ただ、ガラス越しに視線が交わって—それだけで、全部が通じているような気がした。
十二月のあの夜に指切りをした。一月に事故があった。長い時間をかけて、彼女はここまで戻ってきた。
そういう時間が全部、今この瞬間の眼差しの中に、ちゃんと入っている。
レイさんがもう一度、小さく微笑んだ。
俺も、笑い返した。
それだけだった。
やがてレイさんは静かに向き直り、廊下の奥へと歩いていく。白い病院の光の中に、その後ろ姿がゆっくりと溶けていった。