嘘みたいな本当

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/14 📚 シリーズ: ちゃんと戻る、っていう希望 📝 3,674文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。

本文

「絵空事に、しておけば楽だったのに」

言葉は、やっとのことで口の外に出ると、途端に他人みたいな顔をする。

それを言ったのは私だ。

でも、言った瞬間の私は、もう一歩だけ前の私じゃない。

紙の上に描いた空が、机の端で揺れている。

青い絵具の滲み。白い雲の跡。

余白に小さく書かれた名前。

私の名前じゃない。私が書いたわけでもない。

それなのに、私の胸のど真ん中に刺さっている。

久しぶりに開いた古い段ボール箱から、その紙が出てきたのは、引っ越し準備の最中だった。

段ボール箱には、過去の“捨てそこね”が詰まっている。捨てそこねは、基本的にまだ生きている。死んだふりをして、箱の奥で息をしている。

私は床に座り込んで、紙を広げた。

指で雲をなぞる。

小学生の絵だ。上手くない。でも、空気の匂いがある。

この匂いを、私は知っている。

十年前の、夏の終わり。

体育館の隅。

絵の具と汗の混ざった匂い。

私が「もう無理だ」と思った日の匂い。

あの日、私は美術部の部室から逃げた。

逃げた理由は、簡単に言えば“才能”だ。

簡単に言うと軽くなる。軽くなるほど、痛みは鈍る。

でも本当は、才能じゃない。

才能の差を見せつけられて、嫌になったんじゃない。

私は、誰かの“まっすぐ”が怖くなった。

それが、あの子だった。

真っ直ぐな目で「すごい」と言ってくる。

真っ直ぐな手で「一緒に描こう」と引っ張ってくる。

真っ直ぐな心で「好きな色を使っていい」と言い切る。

そんなもの、嘘みたいだ。

嘘みたいだから、信じるのが怖い。

信じたら、裏切られたときに立っていられない。

だから私は、絵をやめた。

正確には、“絵をやめた人”を演じた。

そのほうが楽だった。

絵なんて、所詮絵空事。空を描いても空は変わらない。

そう言い切れたら、負けてない顔ができた。

段ボール箱の底から、もう一枚の紙が出てきた。

封筒。

中には、短い手紙。

『もしまた描きたくなったら、ここに来て』

住所が書いてある。

近所の小さなアトリエ。

差出人の名前は、当たり前みたいにそこにあった。

私がずっと避けてきた名前。

いまさら、と思う。

でも、段ボール箱の底から出てきたのは“いまさら”のためだ。過去は、勝手に現在に届く。配送指定なしで。

私はスマホを握って、地図アプリに住所を打った。

徒歩二十分。

近い。

近いのに、十年分遠い。

外は曇り。

雨が降るか降らないかの空。

私は折りたたみ傘をバッグに入れた。念のため。

念のため、は私の人生の標準装備だ。

念のためを重ねると、本音が遠くなる。

でも今日の念のためは、逃げ道じゃなくて保険にしたい。

アトリエは、商店街の裏通りにあった。

ガラス窓に、絵の具の跡が点々と残っている。

扉には小さな看板。

“OPEN”

開いている。

開いているから怖い。

閉まっていたら、今日は帰れたのに。

私は深呼吸して、ノブに手をかけた。

ドアベルが鳴る。チリン。

懐かしい音。

懐かしい音は、胸の奥を勝手にほどく。

「いらっしゃいませ」

奥から声がした。

その声も、懐かしい。

変わっているはずなのに、変わっていない場所がある。声の温度。

彼女が顔を出した。

昔の“あの子”は、いまは大人の顔をしている。髪が長い。指先に絵の具がついている。エプロン。目は、相変わらず真っ直ぐ。

真っ直ぐで、怖い。

怖いのに、嬉しい。

「……え」

彼女が目を丸くした。

「もしかして……」

私は紙を握りしめた。

絵空事の空。

これを持ってきた自分が、笑えてくる。

十年越しに“宿題”を提出しに来たみたいだ。

「久しぶり」

私は言った。

声が震えた。震えてもいい。今日は、震える日のほうが本物だ。

「久しぶり……! え、どうしたの。連絡とか、ずっと……」

彼女は言いかけて、口を閉じた。

責めない。

責めないまま、驚いている。

その驚きが、やさしい。

「引っ越すから、片づけてた。そしたら、これが出てきた」

私は紙を差し出した。

彼女が受け取って、ふっと笑う。

「覚えてる。これ、あなたの空」

「……私の?」

「うん。あなたが描いたやつを、私が少しだけ手伝った。雲の端っこ」

私は目を瞬いた。

私が描いた?

私はずっと、“あの日の私は何も描けなかった”と思っていた。逃げたから。

でも、描いていた。雲の端っこだけでも。

「入って。話そう」

彼女が言う。

私は靴を脱ぎ、床の木の感触を足裏で確かめた。

アトリエの匂い。絵の具。紙。少しの溶剤。

匂いは、記憶のスイッチだ。

私の中の十年が、バチッと起きる。

小さなテーブル。二つのマグカップ。

彼女が紅茶を淹れた。

紅茶。

最近、私の人生は紅茶に助けられがちだ。

湯気は、結論を薄める。

「……ずっと、来るかもって思ってた」

彼女が言った。

「来ないと思ってた」

「思った。来ないかもって。

でも、来たくなる日が来るかもって」

私の胸が痛い。

“来たくなる日”は、私が自分で潰してきた日だ。

潰したのに、残っていた。紙の箱の底に。

「手紙、出した。返事来なかったけど」

「ごめん。……捨てられなかっただけで、読まなかった」

「読んでよ」

彼女が笑う。

笑い方が、少しだけ昔より大人だ。

でも笑いの芯は同じ。

私の胸が、少しだけほどける。

「なんで、絵やめたの」

彼女が聞く。

逃げ道を塞ぐ質問。

私はカップを両手で包み、湯気に顔を寄せた。

「絵空事だと思ったから」

「絵は、空事じゃないよ」

「知ってる。今なら。……でも当時は、そう言うしかなかった」

「何から逃げたの?」

私は黙った。

言えるなら、十年前に言ってる。

でも今日は、言うために来た。未送信を送るために。

「……あなたから」

言った瞬間、彼女の目が少し揺れた。

怒るかと思った。

でも彼女は怒らなかった。

ゆっくり頷いた。

「私、怖かった?」

「怖かった。

あなたの“好き”が、真っ直ぐすぎて。

私の“嫌い”が、ずるすぎて。

並ぶと、自分が汚く見えた」

彼女は黙って聞いている。

聞いている間、私の言葉は続けられる。

「それで、逃げた。

絵が嫌いになったふりをして、才能のせいにして、全部絵空事にした」

彼女が息を吐いた。

それは、怒りじゃない。

少しの悔しさと、少しの安心が混ざった吐息。

「私、あのとき、あなたの空が好きだった」

彼女が言う。

「雲の端っこ、あなたの線だった。

線ってね、性格が出るんだよ。

あなたの線は、怖がりなのに優しい線だった」

優しい線。

私は笑ってしまいそうになって、笑えなかった。

泣きそうで、泣かなかった。

今日は泣いてもいいのに、泣く前に言いたいことがある。

「……いまさらだけど」

私は言った。

「絵、もう一回描いてみたい」

言った瞬間、胸の奥で何かがカチッと鳴った。

鍵が開く音。

“絵をやめた人”の仮面が、少しだけずれた音。

彼女は、笑った。

今度は、まっすぐな笑い。

「やろう」

「え」

「やろう。いま。

絵はね、タイミングを選ぶと遠くなる。

だから、いま」

彼女は立ち上がり、棚からスケッチブックを出した。

鉛筆も。消しゴムも。

机の上に置く動作が、儀式みたいだ。

“絵空事を本気にする”儀式。

「でも、私、上手くない」

「上手くなくていい。

上手くないのに描くのが、いちばん本物」

本物。

その言葉が、前の私なら怖かった。

でも今は、怖いまま触れたい。

私は鉛筆を持った。

指が震える。

震えるのに、鉛筆は軽い。

軽いから、余計に怖い。重いなら言い訳できるのに。

「何、描く」

彼女が聞く。

私は窓の外を見た。

曇り空。

でも、雲の隙間に薄い光が差している。

十年前の空より、少しだけ複雑な色。

「空」

私は言った。

また空。

空に戻ってきた。

逃げた場所に戻ってきた。

鉛筆を走らせる。

線が出る。

出るだけで、私は少し驚いた。

線は、まだ出る。

死んだふりをしていただけで、手は覚えている。

雲の輪郭。

光の筋。

そして、余白。

余白に、私は小さく書いた。

“絵空事じゃない”

書いて、私は笑った。

笑ってしまった。

でもこれは逃げの笑いじゃない。

確認の笑いだ。

自分がまだ、何かを信じたいと分かった笑い。

彼女が、私の紙の端にそっと手を置いた。

雲の端っこを、ほんの少しだけ足す。

十年前と同じように。

同じように見えて、違う。

今の私は逃げない。

「ねえ」

彼女が言った。

「絵空事って、悪い言葉じゃないよ」

「え」

「絵空事は、最初は空っぽの空。

でも描いたら、そこに空気が入る。

空気が入ったら、もう空事じゃない」

私は鉛筆を置いて、深呼吸した。

空気が、ちゃんと胸に入る。

空気が入ると、言葉も入る。

「……じゃあ、私の“好き”も」

私は言った。

絵じゃない話を、そっと差し出す。

「絵空事にしないで、言っていい?」

彼女は、まっすぐ頷いた。

「うん。いま」

いま。

私はその合図に乗って、言った。

「あなたが怖かった。

でも、あなたがいなければ、私は空を描けなかった。

……ありがとう」

彼女が笑った。

雲の端っこみたいな笑い。

「どういたしまして。

で、引っ越し先でも描く?」

私は頷いた。

「描く。

段ボール箱に入れないようにする」

「入れてもいいよ。

でも、底に押し込まないで。取り出せる場所に」

私は笑って、鉛筆をまた握った。

空はまだ曇っている。

でも、曇りの空も描ける。

曇りを描けるなら、たぶん生きていける。

絵空事にしておけば楽だった。

でも、楽にしなかった。

今日は、空を描く手がある。

それだけで十分、本当だ。

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