肯定で走り抜ける一日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
朝、目が覚めた瞬間に分かった。
今日は、機嫌がいい日だ。
機嫌って、天気みたいなものだと思っていた。外側の事情で変わって、当たるも八卦外れるも八卦。
でも最近は違う。機嫌は、スイッチだ。押せば点く。押すにはコツが要る。
そのコツを、私は昨日の夜にひとつだけ覚えた。
「面倒くさい」を言い換える。
「面倒くさい」は、拒否の言葉に見えて、実は疲れのサインだ。
疲れのサインなら、対処できる。
対処するなら、今日の私はこう言う。
「いける」
いける、って言うと、体が少しだけ前に出る。
前に出た分だけ、人生が動く。
人生が動くと、笑える。
笑えると、機嫌がいい。
ほら、循環。
私は布団の中で一回だけ拳を握って、声に出した。
「よし」
台所へ行くと、同居人の千紗がすでに白湯を飲んでいた。
朝の千紗は静かで、静かだけど目が柔らかい。
昨日の夜、私たちは“凹凸”という合言葉を作った。刺さったら速度を落とす合図。
合言葉があると、人は落ち着いて傷つけられる。傷つけないようにできる。
今日は、傷つける日じゃない。
今日は、肯定の連打の日だ。
「おはよう」
「おはよう。今日、顔いいね」
千紗が言った。
顔いいね、って言い方が妙に生活っぽくて、私は笑った。
「機嫌がいい」
「何があったの」
「知らない。勝手に」
千紗が小さく笑って、コーヒーを淹れてくれた。
私はその香りを吸い込んで、心の中で小さく叫ぶ。
今日は、いける。
出勤途中、駅の階段で前を歩く人が落とした手袋を見つけた。
普段なら迷う。拾う? 声かける? 面倒?
今日は迷わない。
スイッチが点いているから。
「すみません、手袋落ちましたよ」
声をかけると、相手が振り返って「あっ!」と笑う。
その笑いが、私の機嫌の燃料になる。
小さな良いことは、拾うと増える。
会社に着く。
デスクに座る。
メールの件数が多い。
普段ならここで機嫌が折れる。
今日は折れない。折れそうになったら言い換える。
「面倒くさい」じゃなくて。
「いける」
私はまず、やることを三つに分けた。
一気に全部やろうとすると、機嫌はすぐ死ぬ。
機嫌は繊細な生き物だ。雑に扱うと逃げる。
ひとつ目、資料の修正。
やる。
終わる。
終わった瞬間、私は自分の中で小さく拍手した。
拍手は、外に出すと怪しいので心の中で。
ふたつ目、電話対応。
鳴った。出た。話した。切った。
私は机の下で拳を握った。
ふたつ目も、いけた。
昼休み、同僚の佐倉さんが「今度の案件、ちょっと手伝ってほしい」と言ってきた。
普段の私は、心の中でうめく。
余裕ない、って。
でも今日は違う。
余裕は、作るものだって知ってる日だ。
「いいですよ。どこ手伝えばいい?」
言ってしまった。
言ってしまってから「やばい、言った」と思った。
でも佐倉さんの顔がぱっと明るくなる。
「助かる!」
助かる。
その言葉は、こちらの疲れに効く。
疲れは、報われると軽くなる。
軽くなるなら、今日は続けられる。
午後、会議。
上司が無茶なスケジュールを言う。
普段なら黙る。黙って、後で泣く。
今日は黙らない。機嫌がいい日は、勇気が増える日だ。
「すみません。その日程だと品質が落ちます。ここは一日ください」
言えた。
言えたことに自分が一番驚いた。
上司が眉を上げた。
でも、否定じゃない。
「……じゃあ一日。代わりにここを詰めよう」
交渉成立。
私の中で花火が上がった。
ドン、じゃなくて、パチパチ。
派手じゃない。
でも確かに光る。
定時。
帰る。
帰れる。
今日は帰れる気がする、じゃなくて、帰る。
帰り道、スーパーに寄ってプリンを二つ買った。
理由はない。
理由がない贅沢は、機嫌の保険だ。
玄関を開ける。
千紗が「おかえり」と言う。
私は今日一番の声で言った。
「ただいま!」
千紗が目を丸くして笑った。
「元気すぎる」
「今日はそういう日」
「仕事、しんどくなかった?」
しんどかった。
でも、しんどいはゼロじゃない。
しんどいがあっても、機嫌は保てる。
そのバランスを、私は今日は知っている。
「しんどかった。けど、いけた」
千紗が頷いた。
「いけた、っていいね」
「いいでしょ」
私は袋からプリンを出して、テーブルに置いた。
千紗が笑う。
「ご褒美?」
「ご褒美。あと、予防」
「予防?」
「機嫌がいい日の余裕を、機嫌が悪い日に回すための」
千紗が、少しだけ真面目な顔になった。
真面目な顔のまま、優しく言う。
「それ、上手になったね」
上手になった。
その言葉が胸に入る。
胸に入ると、機嫌がまた少し上がる。
循環、継続。
プリンを食べ終わって、私はソファに倒れた。
倒れるのは、戦いが終わった合図だ。
千紗が隣に座って、私の髪を軽く梳いた。
「ねえ」
千紗が言う。
「今日、何が一番よかった?」
私は考えた。
手袋を拾ったこと。
仕事で交渉できたこと。
プリンを買ったこと。
全部よかった。
でも一番は、たぶん。
「今日、私、嫌な顔しなかった」
千紗が笑った。
「それ、目標低くない?」
「低いのがいい。達成できるから」
「確かに」
千紗が頷いて、私の肩に頭を乗せた。
重さが、心地いい。
重さが心地いい日は、機嫌がいい日だ。
私は天井を見ながら、心の中でまた小さく叫んだ。
今日は、全部に肯けた。
明日もそうとは限らない。
でも、今日があったなら、明日がダメでも「またやればいい」と思える。
そういうのを、たぶん、強さって言う。
私は口に出して言った。
「よし」
千紗が笑う。
「なにが」
「明日も、いける気がする」
千紗は少し考えてから、言った。
「気がする、でいいよ。
でも、もしダメなら合言葉」
「凹凸?」
「うん」
私は頷いて、笑った。
「了解」
機嫌がいい日は、派手な勝利じゃない。
小さな肯定を積んで、ちゃんと家に帰る日だ。
その積み方を、私は今日、少しだけ覚えた。
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