盗むのは物じゃなく余裕

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/18 📚 シリーズ: ちゃんと戻る、っていう希望 📝 3,625文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。

本文

最初に盗まれたのは、財布でも宝石でもなく、昼休みだった。

十二時三分。社員食堂の隅で、僕は箸を持ったまま固まった。

トレーの上には、冷めかけの唐揚げと、味噌汁と、白米。いつもどおり。

いつもどおりなのに、僕の目の前のテーブルには一枚の紙が置かれていた。

白いコピー用紙。

角がきっちり揃った折り方。

上質な丁寧さが、逆に不気味。

『予告。あなたの「午後の焦り」を頂きます。返却は本日 17:30。怪盗Y』

……焦りを、頂きます?

隣の席の後輩が、唐揚げを頬張りながら覗き込んでくる。

「先輩、それ何すか。ラブレター?」

「違う。たぶん……犯罪予告」

「犯罪予告って、コピー用紙で来るんすか」

「来るらしい」

後輩は笑って、味噌汁を飲んだ。

「怪盗とか、昭和っすね。Yって、誰すか」

誰だ。

会社に怪盗。

しかも盗むのが“焦り”。現物を盗め。せめて備品を盗め。証拠が残りやすいだろ。

いや、残ってる。紙が残ってる。手触りの良い証拠が。

僕は予告状を折り畳んでポケットに入れた。

こういう変なことに巻き込まれると、まず隠したくなる。

隠したところで、事実は消えないのに。

でも、僕は今日も仕事の顔を維持したかった。

午後。

いつもなら、ここから僕の時間は折れ曲がっていく。

メール。

会議。

確認依頼。

「至急」。

「今日中」。

「今どこまで?」。

焦りは、タスクの量じゃない。タスクの量が焦りを呼ぶのではなく、“焦っている自分”がさらに焦りを増幅させる。

自分で自分に追い立てられるのが、いちばん厄介だ。

だから僕は、予告状の文面を思い出して、思わず笑ってしまった。

「午後の焦り、頂きます」

そんなことできるなら、盗んでほしい。

本気で。

お願いしたいくらいだ。

……で。

盗まれた。

十四時。会議室での進捗確認。いつもなら、心臓が早くなる場面。

でも今日は、心臓が妙に落ち着いていた。

落ち着きすぎて怖い。僕の緊張どこ行った。

緊張がないと、逆に仕事が雑になりそうで、僕はむしろ慎重にメモを取った。

「じゃあ、ここまでで。質問ある?」

上司が言う。

いつもなら、質問がないことに焦って、何か言わなきゃと思って、変な質問をしてしまう。

今日は違った。

今日は、質問が本当にない。

「……大丈夫です」

僕はそう言って、会議を終えた。

終えた瞬間、背中に変な軽さが残った。

軽さが“仕事がうまくいってる”の軽さじゃないのが分かる。

もっと物理的な軽さ。

肩から、何かが消えたみたいな。

怪盗Y。

こいつ、本当に焦りを盗んだのか?

帰り道、僕は社内チャットを確認した。

未読はある。

でも、未読が僕の胸を叩かない。

叩かない。

おかしい。

未読はいつも僕を叩く。容赦なく。

十六時半。

コーヒーを淹れに給湯室へ行くと、壁にまた白い紙が貼られていた。

今度はクリップで留められ、きっちり水平。

貼り方に性格が出ている。几帳面。しかも見せびらかし。

『追加。あなたの「余計な我慢」も頂きます。返却は本日 17:30。怪盗Y』

余計な我慢。

その言葉の解像度が高すぎて、僕は思わず周りを見回した。

誰かが僕の生活を覗いている。

僕が自分に課している小さな罰、みたいな癖まで。

気づいたら、後輩が背後にいた。

「先輩、また来てる」

「来てる。来てほしくない形で来てる」

「返却って書いてあるの、優しいっすね」

「優しい怪盗って、矛盾してない?」

「矛盾は味です」

後輩が真顔で言った。

後輩は最近、妙に言葉が上手い。怪盗Yの教育を受けているのか。

「で、先輩。誰に心当たりあるんすか」

「ない。というか、あったら怖い」

「怖いっすね。だから、確かめましょう。捕まえましょう、怪盗」

後輩はなぜか楽しそうだ。

こういう時、楽しめる人は強い。

僕は楽しめない側の人間だ。楽しめない側の人間は、だいたい怪盗に狙われる。

十七時。

返却予定まで三十分。

僕と後輩は、社内の“怪盗っぽい動き”を探し始めた。探し方が雑で、探偵としては最悪だ。

でも、社内に怪盗がいるという時点で現実が最悪だから、探し方くらいは雑でいい。

候補一。総務の人。貼り紙がきっちりしてそう。

候補二。経理の人。予告状の紙が無駄に上質。

候補三。清掃の人。社内の動線を知っている。

候補四。まさかの上司。焦りの発生源。自作自演。

どれも決め手がない。

決め手がないまま、時間だけが進む。

普通なら、ここで僕は焦り始める。

でも焦りがない。

盗まれている。

盗まれているから、冷静に観察できてしまう。

この怪盗、仕事の効率を上げている。許せない。いや、許せる。困る。

十七時二十八分。

僕のデスクの引き出しが、コン、と軽く鳴った。

誰かが触った?

いや、引き出しは閉まっている。鍵もかけてある。

なのに、音だけした。

僕はそっと鍵を開け、引き出しを引いた。

中に、封筒が一通。

さっきまで無かった。

無かったはず。

怖い。

封筒を開けると、また丁寧な文字。

『返却。あなたの「午後の焦り」を、少しだけ折り畳んでお返しします。必要な分だけ。怪盗Y』

折り畳んで返すって何だ。

焦りは折り畳めない。

でも、折り畳めたとしたら便利だ。必要な時だけ広げて、不要な時はしまう。

僕が一番欲しい機能だ。

封筒の中には、もう一枚、別の紙。

『あなたは焦りを燃料にしすぎます。燃料は必要ですが、燃え尽きる量はいりません。

17:30になったら、席を立ってください。今日は「帰る」を盗みません。あなたが持って帰ってください。怪盗Y』

帰る。

僕は紙を見つめた。

帰る。

それは、僕が最近いちばん下手な動詞だ。

横で後輩が覗き込む。

「先輩、これ、めっちゃ優しいっすね」

「優しすぎて、怖い」

「怖いけど、なんか……助かるやつ」

助かる。

僕は、助かるという言葉を胸の中で反芻した。

助かるのに、誰に礼を言えばいい。

怪盗は名乗らない。名乗ってるけど、Yしか分からない。

十七時三十分。

僕は、立ち上がった。

本当に立ち上がった。

“今日は帰る”を、自分で持って帰る。

持って帰れる気がした。焦りが薄く折り畳まれているから。

「先輩、帰るんすか」

「帰る」

「えら」

「えらいとか言うな。照れる」

「照れても帰ってください。怪盗の指示です」

後輩が真顔で言うから、僕は笑った。

笑いながら、荷物をまとめた。

帰る支度は、未来の自分を助ける儀式だ。

会社を出ると、夕方の空が思ったより明るかった。

風が冷たい。

冷たいのに気持ちいい。

焦りが無いと、風の冷たさがちゃんと分かる。

普段の僕は、風を感じる余裕も盗まれていたのかもしれない。

駅の改札を抜けたところで、スマホが震えた。

恋人の千紗からのメッセージ。

『今日、早く帰れそう?』

僕は一瞬迷って、でも今日は迷いが短い。

『帰ってる。途中でプリン買う』

送信してから、僕は自分で驚いた。

プリン。

具体的な優しさ。

僕が自分の生活に具体的になれるのは、焦りが折り畳まれているからだ。

家の近くのスーパーでプリンを二つ買い、帰宅した。

鍵を開ける。

カチッ。

その音が、今日の“終業”の音に聞こえた。

「ただいま」

「おかえり」

千紗が台所から顔を出す。エプロン。髪をまとめてる。目が柔らかい。

僕はプリンの袋を持ち上げた。

「怪盗に命令された」

「怪盗?」

千紗が眉を上げる。

僕は今日のことを、ざっくり話した。予告状。返却。折り畳まれた焦り。帰るを盗まない怪盗。

話し終えると、千紗はしばらく黙って、それから言った。

「……それ、誰だろうね」

「分からない。社内にいるのは確か」

「社内に“あなたの我慢”が分かる人がいるのは、ちょっと怖いね」

「うん」

「でも」

千紗は、プリンを冷蔵庫に入れながら言った。

「あなたが帰ってこれたなら、その怪盗、仕事できる」

「褒めてる?」

「褒めてる」

僕は笑って、ため息をついた。

ため息は、疲れじゃない。息が戻る音だ。

その夜、歯を磨き終えた僕は、机の上に今日の予告状を並べた。

白い紙が三枚。

どれも丁寧。

どれも、僕の弱いところを正確に突く。

でも突き方が、痛めつける突き方じゃない。

“ここに段差があるよ”と教える突き方だ。

最後に、もう一枚、封筒の底に小さなメモが残っていたのに気づいた。

『追伸。

あなたが「ありがとう」を言えないのも、頂いておきました。

それは、今夜、ちゃんと返してください。怪盗Y』

僕はメモを握りしめ、リビングへ向かった。

千紗はソファに座って、テレビを見ている。

いつもの光景。

いつもの光景が、今日は少しだけ眩しい。

「千紗」

「ん?」

僕は喉を鳴らして、言った。

折り畳まれていない言葉を、そのまま。

「今日、帰ってこれて、助かった。

待っててくれて、ありがとう」

千紗が目を丸くして、それから笑った。

「急にどうしたの」

「怪盗のせい」

「怪盗、優秀すぎる」

僕は頷いた。

優秀すぎて困る。

でも困るくらいが、ちょうどいいのかもしれない。

夜、布団に入る前に、僕は机の上の紙を見て、心の中で言った。

怪盗Y。

明日は、焦りを盗まなくていい。

僕が自分で折り畳めるようになりたい。

でも、もしまた盗みに来るなら――

そのときは、予告状はコピー用紙じゃなくて、もう少し可愛い紙にしてほしい。

そういうお節介なら、わりと歓迎だ。

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