正義は息切れしながら来る

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/19 📚 シリーズ: ちゃんと戻る、っていう希望 📝 2,621文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。

本文

ヒーローは、空を飛ぶ。

僕は、駅の階段で息切れする。

だから僕は、ヒーローじゃない。

……と言い切りたいのに、今日は世界がそうさせてくれなかった。

朝、会社へ向かう途中。改札前の雑踏で、僕は妙なものを見つけた。

迷子の子ども。

というほど小さくはない。小学校高学年くらいの男の子が、立ち尽くしていた。

ランドセルじゃなく、スポーツバッグ。ユニフォームの袋。汗の匂いがしないのに、顔が焦っている。

焦りの匂いは、汗より先に出る。

周りの大人はみんな、忙しい顔で通り過ぎる。

僕も忙しい。

僕も通り過ぎる側だ。

でも足が止まった。

止まると、時間が減る。

時間が減ると、上司の顔が浮かぶ。

上司の顔が浮かぶと、心臓が縮む。

それでも止まったのは、僕の中の“新人ヒーロー”が、まだ辞めてないからだ。

「どうした?」

声をかけると、男の子がびくっと肩を揺らした。

目が泳いで、それから僕の顔を見た。

助けを求める目。

助けを求める目は、拒否できない。拒否した瞬間、自分の中の何かが折れる。

「……電車、間違えたかも」

男の子の声は、泣きそうで、泣かないギリギリ。

この手のギリギリは、放っておくと崩れる。

僕は、ヒーローじゃないのに、崩れる前に手を伸ばしてしまう。

「どこ行くの?」

「市民体育館。試合」

「何時?」

「九時。……もう、やばい」

時計を見る。

八時二十分。

僕の出社は九時。

僕もやばい。

頭の中で天使と悪魔が騒ぐ。

最近、僕の脳内にはお節介焼きが常駐している気がする。

天使は言う。

“ここで助けたら、君は君を好きでいられる”

悪魔は言う。

“でも遅刻したら上司に刺されるぞ”

どっちも正しい。正しいが二つあると、人は迷う。

僕は、迷いながらも言った。

「切符、どこまで買った?」

「……ここから二駅分」

「体育館はもっと先だな。乗り換えある?」

「……ある」

男の子の目が、もう一段暗くなる。

暗くなる前に、僕は言った。

「一旦、落ち着こう」

自分でも驚くくらい、口から自然に出た。

“落ち着こう”は、魔法の言葉だ。

言うと、呼吸が戻る。戻ると、考えられる。

僕は駅員さんを探し、事情を説明した。

駅員さんは慣れた顔で「保護者は?」と訊く。

男の子は首を振る。

僕は一瞬、「じゃあ僕が」と言いそうになって、止めた。勝手に保護者を名乗るのは危険だ。ヒーローごっこで現実を壊すな。

「チームの連絡先、分かる?」

僕が聞くと、男の子はスマホを取り出し、顧問の番号を見せた。

僕は駅員さんに許可をもらい、スピーカーで電話をかけた。

繋がった。

『はい、○○中です』

「すみません。今、駅なんですけど、御校の生徒さんが……」

説明すると、顧問の先生は驚きつつも、すぐに状況を整理した。

ここで頼れるのは、大人の仕事だ。

ヒーローは、段取りの人でもある。

『すぐに迎えに行きます。そちらの駅名は?』

「△△駅です。改札前にいます」

『ありがとうございます。生徒、怪我は?』

「大丈夫そうです」

『助かりました。本当にありがとうございます』

電話を切ったあと、男の子が小さく言った。

「……怒られる」

怒られる。

それは彼にとって、試合より重いかもしれない。

怒られるのは怖い。

でも、怒られるから学ぶ。

学ぶ前に潰れないようにするのも、大人の役目だ。

「怒られるかも。でも、ちゃんと来てくれる」

僕が言うと、男の子が少しだけ眉を寄せた。

「……来てくれるの、当たり前じゃないの」

当たり前。

当たり前は、当たり前じゃない日がある。

でも今は、当たり前にしてやりたい。

「当たり前だよ。君、ひとりじゃない」

言いながら、僕は自分の胸の奥が温かくなるのを感じた。

誰かに言ってるようで、自分に言ってる。

僕もひとりじゃない。会社に行けば人がいる。家には恋人がいる。

なのに僕はよく、ひとりみたいな顔をする。

今日の僕は、ひとりの顔をやめられている。

五分ほどして、体育館のワゴン車が駅前に停まった。

顧問の先生が飛び降りてきて、男の子の頭を軽く小突く。

小突き方が、怒りと安心の混ざったやつだ。

「おまえ! 何やってんだ!」

「……すみません」

先生は僕に頭を下げた。

「本当にありがとうございました。助かりました」

「いえ、たまたま」

たまたま、と言うと、先生が笑った。

「たまたまでも、立ち止まってくれる人は貴重です」

その言葉で、僕は胸が少しだけくすぐったくなった。

貴重。

そんな大げさな。

でも、悪くない。

男の子が車に乗る前に、こちらを振り返った。

目がまだ少し濡れている。

でも、ちゃんと礼を言う目だ。

「……ありがとうございます」

僕は頷いた。

「試合、頑張れ。

間に合うかどうかは先生に任せて、君は準備しろ」

男の子は、少しだけ笑った。

車が走り去る。

僕は時計を見た。

八時三十五分。

僕の“やばい”が、戻ってきた。

「……うわ」

声が出た。

ここからが僕の試合だ。

出社という名の競技。

僕は走った。

走りながら、思った。

ヒーローは、助けたあとに余裕で笑って去る。

僕は、助けたあとに全力で走って汗だくになる。

マントもない。テーマソングもない。

あるのは、呼吸と、心臓と、革靴の底。

駅の階段を駆け上がって、電車に飛び乗った。

息が切れて、肩が痛い。

でも、不思議と後悔はなかった。

後悔の代わりに、胸の奥に小さな火が灯っている。

会社に着く。

ギリギリ。

タイムカードを押す。

八時五十九分。

「……勝った」

僕は小声で言った。

勝負じゃないのに勝った気がした。

ヒーローごっこの勝ち方は、こういう地味なやつだ。

昼休み、後輩が僕の顔を見て言った。

「先輩、なんか今日、いい顔してますね」

「そう?」

「なんか……走った顔」

走った顔って何だ。

でも確かに、走った。

走って、守った。

守ったのは、男の子の試合だけじゃない。

たぶん僕の、“立ち止まれる自分”も守った。

帰宅すると、恋人の千紗が「おかえり」と言ってくれた。

僕は靴を脱ぎながら言った。

「今日、ヒーローになった」

「はい?」

千紗が目を丸くする。

僕は笑って、ちゃんと説明した。迷子の男の子。ワゴン車。全力疾走。ギリギリ出社。

千紗は聞き終えて、頷いた。

「駆け出しのヒーローだね」

「駆け出しすぎて息切れした」

「息切れするヒーロー、好き」

その言葉で、胸の奥の火が少し大きくなった。

ヒーローは、完璧じゃなくていい。

走りながら、息切れしながら、それでも立ち止まれるなら。

僕はお茶を一口飲んで、言った。

「明日も、たぶん走る」

「走らなくていい日も作って」

「……うん。凹凸」

千紗が笑った。

「合言葉、早い」

僕も笑った。

駆け出しのヒーローは、今日もちゃんと家に帰ってきた。

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