正義は息切れしながら来る
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
ヒーローは、空を飛ぶ。
僕は、駅の階段で息切れする。
だから僕は、ヒーローじゃない。
……と言い切りたいのに、今日は世界がそうさせてくれなかった。
朝、会社へ向かう途中。改札前の雑踏で、僕は妙なものを見つけた。
迷子の子ども。
というほど小さくはない。小学校高学年くらいの男の子が、立ち尽くしていた。
ランドセルじゃなく、スポーツバッグ。ユニフォームの袋。汗の匂いがしないのに、顔が焦っている。
焦りの匂いは、汗より先に出る。
周りの大人はみんな、忙しい顔で通り過ぎる。
僕も忙しい。
僕も通り過ぎる側だ。
でも足が止まった。
止まると、時間が減る。
時間が減ると、上司の顔が浮かぶ。
上司の顔が浮かぶと、心臓が縮む。
それでも止まったのは、僕の中の“新人ヒーロー”が、まだ辞めてないからだ。
「どうした?」
声をかけると、男の子がびくっと肩を揺らした。
目が泳いで、それから僕の顔を見た。
助けを求める目。
助けを求める目は、拒否できない。拒否した瞬間、自分の中の何かが折れる。
「……電車、間違えたかも」
男の子の声は、泣きそうで、泣かないギリギリ。
この手のギリギリは、放っておくと崩れる。
僕は、ヒーローじゃないのに、崩れる前に手を伸ばしてしまう。
「どこ行くの?」
「市民体育館。試合」
「何時?」
「九時。……もう、やばい」
時計を見る。
八時二十分。
僕の出社は九時。
僕もやばい。
頭の中で天使と悪魔が騒ぐ。
最近、僕の脳内にはお節介焼きが常駐している気がする。
天使は言う。
“ここで助けたら、君は君を好きでいられる”
悪魔は言う。
“でも遅刻したら上司に刺されるぞ”
どっちも正しい。正しいが二つあると、人は迷う。
僕は、迷いながらも言った。
「切符、どこまで買った?」
「……ここから二駅分」
「体育館はもっと先だな。乗り換えある?」
「……ある」
男の子の目が、もう一段暗くなる。
暗くなる前に、僕は言った。
「一旦、落ち着こう」
自分でも驚くくらい、口から自然に出た。
“落ち着こう”は、魔法の言葉だ。
言うと、呼吸が戻る。戻ると、考えられる。
僕は駅員さんを探し、事情を説明した。
駅員さんは慣れた顔で「保護者は?」と訊く。
男の子は首を振る。
僕は一瞬、「じゃあ僕が」と言いそうになって、止めた。勝手に保護者を名乗るのは危険だ。ヒーローごっこで現実を壊すな。
「チームの連絡先、分かる?」
僕が聞くと、男の子はスマホを取り出し、顧問の番号を見せた。
僕は駅員さんに許可をもらい、スピーカーで電話をかけた。
繋がった。
『はい、○○中です』
「すみません。今、駅なんですけど、御校の生徒さんが……」
説明すると、顧問の先生は驚きつつも、すぐに状況を整理した。
ここで頼れるのは、大人の仕事だ。
ヒーローは、段取りの人でもある。
『すぐに迎えに行きます。そちらの駅名は?』
「△△駅です。改札前にいます」
『ありがとうございます。生徒、怪我は?』
「大丈夫そうです」
『助かりました。本当にありがとうございます』
電話を切ったあと、男の子が小さく言った。
「……怒られる」
怒られる。
それは彼にとって、試合より重いかもしれない。
怒られるのは怖い。
でも、怒られるから学ぶ。
学ぶ前に潰れないようにするのも、大人の役目だ。
「怒られるかも。でも、ちゃんと来てくれる」
僕が言うと、男の子が少しだけ眉を寄せた。
「……来てくれるの、当たり前じゃないの」
当たり前。
当たり前は、当たり前じゃない日がある。
でも今は、当たり前にしてやりたい。
「当たり前だよ。君、ひとりじゃない」
言いながら、僕は自分の胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かに言ってるようで、自分に言ってる。
僕もひとりじゃない。会社に行けば人がいる。家には恋人がいる。
なのに僕はよく、ひとりみたいな顔をする。
今日の僕は、ひとりの顔をやめられている。
五分ほどして、体育館のワゴン車が駅前に停まった。
顧問の先生が飛び降りてきて、男の子の頭を軽く小突く。
小突き方が、怒りと安心の混ざったやつだ。
「おまえ! 何やってんだ!」
「……すみません」
先生は僕に頭を下げた。
「本当にありがとうございました。助かりました」
「いえ、たまたま」
たまたま、と言うと、先生が笑った。
「たまたまでも、立ち止まってくれる人は貴重です」
その言葉で、僕は胸が少しだけくすぐったくなった。
貴重。
そんな大げさな。
でも、悪くない。
男の子が車に乗る前に、こちらを振り返った。
目がまだ少し濡れている。
でも、ちゃんと礼を言う目だ。
「……ありがとうございます」
僕は頷いた。
「試合、頑張れ。
間に合うかどうかは先生に任せて、君は準備しろ」
男の子は、少しだけ笑った。
車が走り去る。
僕は時計を見た。
八時三十五分。
僕の“やばい”が、戻ってきた。
「……うわ」
声が出た。
ここからが僕の試合だ。
出社という名の競技。
僕は走った。
走りながら、思った。
ヒーローは、助けたあとに余裕で笑って去る。
僕は、助けたあとに全力で走って汗だくになる。
マントもない。テーマソングもない。
あるのは、呼吸と、心臓と、革靴の底。
駅の階段を駆け上がって、電車に飛び乗った。
息が切れて、肩が痛い。
でも、不思議と後悔はなかった。
後悔の代わりに、胸の奥に小さな火が灯っている。
会社に着く。
ギリギリ。
タイムカードを押す。
八時五十九分。
「……勝った」
僕は小声で言った。
勝負じゃないのに勝った気がした。
ヒーローごっこの勝ち方は、こういう地味なやつだ。
昼休み、後輩が僕の顔を見て言った。
「先輩、なんか今日、いい顔してますね」
「そう?」
「なんか……走った顔」
走った顔って何だ。
でも確かに、走った。
走って、守った。
守ったのは、男の子の試合だけじゃない。
たぶん僕の、“立ち止まれる自分”も守った。
帰宅すると、恋人の千紗が「おかえり」と言ってくれた。
僕は靴を脱ぎながら言った。
「今日、ヒーローになった」
「はい?」
千紗が目を丸くする。
僕は笑って、ちゃんと説明した。迷子の男の子。ワゴン車。全力疾走。ギリギリ出社。
千紗は聞き終えて、頷いた。
「駆け出しのヒーローだね」
「駆け出しすぎて息切れした」
「息切れするヒーロー、好き」
その言葉で、胸の奥の火が少し大きくなった。
ヒーローは、完璧じゃなくていい。
走りながら、息切れしながら、それでも立ち止まれるなら。
僕はお茶を一口飲んで、言った。
「明日も、たぶん走る」
「走らなくていい日も作って」
「……うん。凹凸」
千紗が笑った。
「合言葉、早い」
僕も笑った。
駆け出しのヒーローは、今日もちゃんと家に帰ってきた。
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