気分の四象限で暮らす
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
朝、鏡の前で顔を洗っていると、洗面台の隅に貼った四枚の付箋が目に入る。
喜。
怒。
哀。
楽。
四つの漢字は、僕の生活のカーナビだ。
目的地はいつも同じ。“今日を終える”。
ルートは毎日違う。渋滞する感情も違う。
だから僕は、付箋で交通整理をしている。
最初に貼ったのは、千紗の提案だった。
「あなた、感情が“ごっちゃ煮”になる日が多いから、分けたらいいよ」
分ける。
それは僕の得意なやり方だ。
仕事は分けると進む。
洗濯も分けると乾く。
だったら感情も分けたらいい。
そう思って貼った。
だけど、分けたら分けたで問題が起きる。
僕は、どれか一つを選ぶと、他の三つが置いてけぼりになる気がしてしまうのだ。
喜ぶと、怒りが悪者になる。
怒ると、哀しみが後ろで縮む。
哀しむと、楽しさが罪みたいになる。
楽しいと、全部が軽くなる。軽くなると、またあとで重くなる。
つまり、僕の感情は四象限じゃなくて、四つ巴の綱引きだ。
今朝の僕は、どの象限だろう。
鏡の顔は、眠い。
眠いは感情じゃない。体調だ。
体調が悪いと、感情はすぐ混ざる。
だから僕は、歯ブラシを口に突っ込みながら、自分に問う。
「今日はどれでいく?」
右上の“喜”が、ぴょこっと跳ねる。
昨日、上司との交渉がうまくいった。残業が減る見込み。
嬉しい。
だけど、その嬉しさの端っこに“怒”が潜っている。
なんで今まで言えなかったんだ。なんで我慢してたんだ。
怒りは、遅れてやってくる請求書みたいだ。
左下の“哀”が、そっと手を挙げる。
昨日、千紗に優しくされて泣きそうになった。
泣きそうになるのは弱いからじゃない。
受け取った優しさの分だけ、今までの自分が痛むからだ。
右下の“楽”は、たぶん昨日食べたプリンの味で笑っている。
楽しいは、いつだって軽い。
軽いのに大事。
軽いまま大事にできたら、最強だ。
結論。
今日は四つ全部いる。
「……全員出勤でお願いします」
僕は鏡に向かってそう言って、笑った。
笑った瞬間、楽がちょっと前に出た。
悪くない。出勤の入り口は“楽”が一番スムーズだ。
通勤電車。
人の波。
スマホの通知。
未読。
ここで“怒”が暴れ始める。
なんでこんなに急かされる。なんで僕の時間はいつも盗まれる。
そして同時に“哀”が顔を出す。
怒れるほど僕はまだ元気なんだ、という変な安心。
安心すると、また泣きそうになる。
僕は深呼吸して、付箋を思い出した。
交通整理。
混ざってもいい。でも衝突させない。
会社に着くと、早速トラブルが起きた。
取引先から「仕様が違う」と電話。
担当は僕。
僕じゃないのに僕。そういうのが会社だ。
“怒”が吠える。
ふざけるな。誰が決めた仕様だ。なんで僕が謝る。
でも“喜”が囁く。
落ち着いて。ここでうまくやれば、ちゃんと信頼が積み上がる。
“哀”は言う。
謝るの、しんどいよね。
“楽”は、いまは黙っている。楽は場を読む。偉い。
僕は電話口で、声の温度を調整した。
これが僕のヒーローごっこだ。
空は飛べないが、声のトーンは飛ばせる。
「申し訳ありません。確認いたします。
こちらの認識と、そちらのご期待に差があったようです。すぐに整理して折り返します」
言えた。
言えた瞬間、“喜”が胸の中で小さく拍手する。
“怒”は不満そうだが、引き下がる。
“哀”が「えらい」と言う。
“楽”が「あとでプリンね」と言う。
うるさい。でも助かる。
昼休み、僕は屋上に出た。
風が冷たい。
空は曇り。
空は“喜怒哀楽”を持たない。持たないから、見上げると少しだけ肩が軽くなる。
僕は紙コップの白湯を飲みながら、今日の象限を心の中で塗りつぶす。
喜:交渉の成果が残ってる。
怒:トラブルで出た。
哀:優しさが刺さってる。
楽:まだ弱い。補給が必要。
補給。
僕はコンビニへ行って、ミニシュークリームを買った。
プリンじゃなくて、今日はシュー。
楽は、甘いものの形で戻ってくる。
午後、上司が声をかけてきた。
「優先順位表、今週中って言ってたよな」
“怒”が反射で立ち上がる。
分かってるよ! いまやろうとしてたよ!
でも“喜”が首を押さえる。
ここで噛みつくと、昨日の交渉が崩れる。
“哀”が言う。
噛みつきたいくらい疲れてるんだよ。
“楽”が、口の端にシュークリームの甘さを残して囁く。
大丈夫、言い方で勝てる。
僕は笑って言った。
「はい。今日の夕方までに叩き台作ります。見てください」
上司は「頼む」と言って去った。
去り際、上司の肩が少しだけ軽そうに見えた。
その軽さを見て、僕の“喜”が少し増える。
誰かの肩が軽くなると、自分の肩も軽くなる。
不思議な連鎖。
夕方。
資料の叩き台を作り終える。
提出。
上司は頷く。
それだけで十分。
承認の言葉より、頷きが効く日がある。
帰り道、僕は千紗にメッセージを送った。
『今日は喜怒哀楽、全部出た』
返事はすぐ来た。
『全部出たなら、生きてるってこと。おつかれ。帰り気をつけて』
その返事を読んだ瞬間、“哀”が少しだけ泣きたくなる。
“喜”が嬉しくなる。
“怒”は静かになる。
“楽”が微笑む。
交通整理がうまくいっている。
家に帰る。
玄関を開ける。
千紗が「おかえり」と言う。
僕は靴を揃えながら言った。
「今日さ、どの顔で帰ろうか迷ってた」
「どの顔でもいいよ」
千紗が言って、カップを二つ出す。
白湯じゃなく、今日は紅茶。
また紅茶。
湯気は結論を薄める。
結論を薄めると、話せる。
「でも、混ざると疲れる」
僕が言うと、千紗は頷いた。
「混ざってもいい。衝突しなければ」
同じ言葉。
千紗は、僕の付箋の意味をちゃんと理解している。
理解している人がいると、感情は暴れにくい。
暴れにくいと、僕は少しだけ“楽”を前に出せる。
僕は紅茶を一口飲んで、言った。
「今日の楽は、シュークリームで補給した」
「え、ずるい。私の分は?」
千紗が眉を上げる。
その表情だけで、僕の“楽”が跳ねた。
“楽”はいつも、誰かと共有したがる。
「買ってくるべきだった……」
“哀”が肩を落とす。
すかさず“喜”が言う。
今から買いに行けばいい。
“怒”は言う。
なんで気づかないんだよ。
“楽”が笑う。
行こう行こう。
僕は立ち上がった。
「今から買いに行く」
「え、いま?」
「いま。
だって、いま楽しいから」
千紗が笑った。
笑い声が、部屋に広がる。
僕の中の四つの付箋が、一瞬だけ同じ方向を向いた。
喜:一緒に笑える。
怒:今日はもう怒らなくていい。
哀:優しさで泣けるのは悪くない。
楽:行こう。
僕はコートを掴んで、玄関を飛び出した。
ヒーローみたいに格好よくはない。
でも、走り出す理由としては十分だ。
喜怒哀楽。
どれも僕だ。
どれも、今日を終えるための手札だ。
手札が四枚あるなら、案外ゲームは続けられる。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。