言葉になる前を拾う

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/22 📚 シリーズ: ちゃんと戻る、っていう希望 📝 3,044文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。

本文

叫びは、たいてい小さい。

大声で「助けて」と言える人は、もう助かり始めている。

本当に危ないのは、笑いながら「平気」と言う人だ。

そういう人の「平気」は、叫びの梱包材で、なかみはだいたい折れかけている。

僕は、その梱包材の音を聞き分けられるようになりたくて、今夜も屋上にいた。

市役所の隅の小さな部署。防災担当。

格好よく言えば「街を守る仕事」。

実際は「貼り紙を作る仕事」と「電話の取次ぎ」と「年に数回、訓練で走る仕事」だ。

僕は“走る側”がわりと好きだった。

走ると、考え事が一旦止まる。

止まると、呼吸が戻る。

呼吸が戻ると、余計なことを言わずに済む。

屋上は風が冷たく、空は曇っている。

街の灯りが雲に反射して、空が薄く明るい。

僕は折りたたみ椅子に座り、片耳イヤホンを押さえた。

今夜は、地域の無線訓練がある。

形式は簡単。「こちら○○、受信良好」みたいなやつ。

みんな慣れていて、声も元気で、たまに笑いが混ざる。

そういう夜は平和だ。平和の確認は、地味に大切だ。

「こちら桜ヶ丘、受信良好」

「こちら中央、風が強いです」

「こちら北町、マイク近い、近いって」

会話は軽い。

軽い会話の中に、ときどき“軽くない沈黙”が混ざる。

僕はそれを拾う係だ。拾って、必要なら繋ぐ係。

イヤホンの奥で、チッと短いノイズが鳴った。

そのノイズが、普通のノイズに聞こえなかった。

胸の奥の受信機が、微かに振れる。

「……こちら、第三ブロック」

声。

女の人。

でも、名乗りがない。普段なら名乗りは真っ先に出る。

訓練は段取りでできている。段取りが崩れると、そこに“現実”が混ざる。

「第三ブロック、こちら市役所。どうぞ、名乗ってください」

僕はできるだけ穏やかに、でも明確に言った。

訓練では、声の温度が大事だ。温度が高すぎると焦りが伝染する。低すぎると安心が届かない。

「……すみません、えっと、名乗るほどじゃ……」

名乗るほどじゃない。

それは、遠慮の形をした叫びだ。

名乗るほどじゃないことなんて、ない。誰だって名乗っていい。助けが必要なら、なおさら。

僕は椅子から立ち上がってしまった。

立ち上がると、足が先に動きたがる。

でも走る前に、聞く。受信が先だ。

「名乗るほどじゃない、でもいいです。今、困ってること、ありますか」

少し間が空いた。

その間が、長い。

長い間は、言葉の前の深呼吸だ。言うか言わないかの境目。

「……あの、訓練ですよね」

「はい、訓練です」

「訓練、なんですけど……」

“なんですけど”が、引っかかった。

訓練の“なんですけど”は、訓練じゃない。

「……うちの母が、さっきから、返事しなくて」

言葉がやっと形になった。

叫びが、声になった。

声になった時点で、半分助かっている。

あとは繋ぐだけだ。繋げるように、段取りをつくる。

「場所は第三ブロック内ですか」

「はい。家の中です。

声かけても、返事がなくて……寝てるのか、分からなくて」

夜。高齢の母。返事なし。

僕の頭の中で手順が走る。

ここで「救急車を」と言うのは簡単だ。

でも、彼女の声には“呼ぶのが怖い”が混ざっている。大ごとにしたくない。迷惑をかけたくない。そういう遠慮が、命取りになる。

だから僕はまず、声の背中を押す。

「今の状況、訓練ではなく実際の相談として扱います。大丈夫。迷惑じゃないです。

今、扉は開きますか。鍵は?」

「開きます。鍵は……開いてます」

「ご近所さんに声をかけられますか。家の外に誰か、いますか」

「……隣の人、いるかも」

声が少し震えた。

震えるのは、もう限界が近い証拠だ。

僕は言う。短く。強く。優しく。

「今、隣の方を呼んでください。スピーカーのままでいいです」

「……え、はい」

ガサガサと音がする。扉の音。足音。

無線越しに生活の音が入ってくる。

生活の音が入ると、現実が立ち上がる。

僕は背筋を伸ばした。

「こちら市役所、第三ブロック。近隣協力が入ります。救急要請に切り替える可能性があります。

当番の方、第三ブロック付近、待機できますか」

別の声が入る。

「こちら中央、向かいます」

「こちら桜ヶ丘、消防団連絡します」

訓練のはずのチャンネルが、ゆっくりと“現実対応”に変わっていく。

でも慌てない。

慌てると、彼女の声が潰れる。

「……すみません、こんな、訓練で」

彼女が言った。

謝るのが癖になっている声だ。

「謝らなくていいです。むしろ、今言ってくれて助かってます」

僕はそう返した。

この一言で、叫びは少しだけ軽くなる。軽くなると、手が動く。

隣人らしき男性の声が遠くで聞こえた。

「どうしたの」

「お母さんが、返事しなくて……」

「ちょっと見てみよう」

僕は呼吸を整えた。

ここから先は、確認と手順。

僕の仕事は“耳”を保つこと。

「もしお母さまが呼吸していない、反応がない場合は救急要請をします。

反応の確認はできますか。肩を軽く叩いて、名前を呼んでみてください」

やがて彼女が言う。

「……息、してます。

でも、反応が弱くて、目が、うっすら……」

僕の胸の奥がひやっとした。

でも声は冷やさない。

「救急要請します。今から119をつなぎます。

あなたは、今そこにいて、呼びかけ続けてください。大丈夫。あなたは一人じゃない」

その瞬間、彼女の声が少しだけ崩れた。

「……ありがとうございます」

ありがとうございます。

叫びが届いたときに出る言葉だ。

届いたなら、もう戻れる。

数分後、現場は救急隊に引き継がれた。

僕は屋上で、冷えた手をポケットに突っ込みながら、曇り空を見上げた。

雲は厚い。

でも雲の向こうに、街の灯りが滲んでいる。

訓練は中断された。

でも誰も文句を言わない。

訓練の目的は、こういうときに動けることだから。

内線が鳴って、下のフロアから「お疲れ、よく拾ったね」と言われた。

僕は「たまたまです」と言いかけて、やめた。

たまたまじゃない。

拾う気で聞いていた。拾えるようにしていた。

だから拾えた。

翌日、午後。

市役所の窓口に、その女性が来た。

目の下に薄いクマ。

でも背筋は少しだけ伸びている。

助かった人の背筋だ。

「昨日、無線で……」

彼女が言った。

僕は名札を見せた。

「担当の者です。お母さま、大丈夫でしたか」

「はい。軽い脱水で、点滴して、今日はもう家で……。

昨日、私、ほんとに……“こんなことで”って、迷ってて」

“こんなことで”。

それも叫びの梱包材だ。

「迷うの、分かります。

でも、迷ってる時間が一番怖いんです。

だから、迷ったら、叫びを小さく出していい」

彼女は、少し泣きそうになって、笑った。

笑いながら泣きそうになるのは、戻ってきた証拠だ。

「私、声に出すのが下手で。

『助けて』って言うの、なんか……負けみたいで」

「負けじゃないです。

受信できる形にするだけです」

僕が言うと、彼女は頷いた。

「……じゃあ、次からは、ちゃんと名乗ります」

「はい。名乗ってください。

名前は、助けを呼ぶときの最初の手すりです」

彼女が帰ったあと、僕は机の引き出しから小さな付箋を出した。

最近貼っている、四枚の付箋とは別の、真っ白なやつ。

そこに書いた。

「叫びは小さくてもいい。拾う側がいる」

書いて、ふっと笑った。

僕はヒーローじゃない。

でも、受信機にはなれる。

誰かの声にならない信号を、届く前提で聞ける。

夕方、帰宅。

鍵の音。

カチッ。

千紗が「おかえり」と言う。

僕は靴を揃えながら、言った。

「今日、叫びを拾った」

「大丈夫だった?」

「うん。届いた」

千紗が頷いて、カップを二つ出す。

「一旦、飲む?」

僕は笑った。

「うん。一旦、飲む」

湯気が立つ。

叫びは、音じゃない。

でも確かに、届く。

それを知っている夜は、曇り空でも少し明るい。

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