五象が背中を押す
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
その夜、僕は“ゴゾウ”に囲まれていた。
囲まれていたと言っても、怪しい宗教ではない。
もっと生活に密着した、逃げられない種類のやつだ。
リビングのテーブルの上に、五つのマグカップ。
中身はそれぞれ違う。
白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、そして謎の炭酸水。
誰の趣味か、説明するまでもない。
「よし、集合! 今夜は相談会を始めます!」
千紗が宣言した。
宣言の声が、妙にステージっぽい。
彼女の背中には見えないギターケースが背負われている気がした。
僕の受信機が鳴る。これは……来る。今夜は“フェス”だ。
「相談会って、何の」
僕が聞くと、千紗は満面の笑みで指を立てた。
「あなたの“踏み出せない案件”」
ぐさっと刺さる。
でも刺さり方が、痛めつけるやつじゃない。
救急箱の中の針みたいな刺さり方。刺して、膿を出すやつ。
僕には最近、踏み出せない案件があった。
会社で、新しいプロジェクトのリーダー候補に名前が上がっている。
嬉しい。
でも怖い。
怖いから、返事を保留している。
保留は便利だ。
便利すぎて、人生の棚が保留札で埋まる。
「今日のテーマは、これ!」
千紗がホワイトボードを出した。どこから出した。
書かれた文字は大きい。
“YES か NO か、いったん決めろ”
「いったん決めるの、怖い」
僕が言うと、千紗が頷いた。
「うん。だから、ゴゾウを呼びました」
「ゴゾウ?」
「五人の自分。五つの声。五回叩くと背中は動く。ロックです」
ロックはよく分からないが、勢いは分かった。
そして、テーブルの奥から人が現れた。
いや、現れた気がした。
まず一人目。
白湯を持った“落ち着き担当”。
背筋が真っ直ぐで、眼鏡の位置が正しい。
ふたつ目。
紅茶を揺らす“優しさ担当”。
笑顔がやわらかく、相槌が上手い。
みっつ目。
ほうじ茶をすすりながら睨む“怒り担当”。
眉間にシワ。正義感が武器。
よっつ目。
コーヒー片手にニヤつく“野心担当”。
言葉が速い。目がギラつく。
いつつ目。
炭酸水を振り回す“遊び担当”。
テンション高い。星柄の靴下を履いてる。誰だお前。
五人は、同時に言った。
「「「「「決めろ!」」」」」
うるさい。
僕は笑ってしまった。笑うと少し楽になる。
楽になると、今日のフェスが成立する。
「じゃあ、順番に喋ってください」
僕が言うと、千紗が手を叩いた。
「MCは私。はい、まず落ち着き担当!」
白湯担当がマグを置き、淡々と言った。
「情報整理をする。
リーダーの業務量、裁量、評価指標、支援体制。
不明点を質問し、数字で確かめる。
決断は、情報が揃ってからでも遅くない」
正しい。
この人がいると、僕は呼吸できる。
「次、優しさ担当!」
紅茶担当が微笑んだ。
「怖いって言っていい。
怖いのは真面目に向き合ってる証拠。
あなたは頑張りすぎる癖があるから、支える約束を先に作ろう。
“凹凸”の合言葉、仕事にも持ち込んでいいよ」
仕事に凹凸。
変だけど、助かりそうだ。
「次、怒り担当!」
ほうじ茶担当が眉を吊り上げた。
「そもそも、今まで“便利な人”として使われてきたのが腹立つ。
だからここで、ちゃんと条件を出せ。
『引き受けるならこの範囲、これ以上はやらない』
守られないなら断れ。
怒りは境界線だ」
境界線。
それは僕が一番苦手な武器。
でも武器屋で鈴を買った僕は知っている。武器は刃物だけじゃない。
「次、野心担当!」
コーヒー担当がニヤリとする。
「チャンスだろ。
やりたいことがあるなら、ここで舵を取れ。
怖いのは当たり前。
怖くない挑戦なんて、ただの作業だ。
で、成功したら給料交渉な」
最後、そこ。
でも嫌いじゃない。
野心は、たまに僕の背中を蹴ってくれる。
「最後、遊び担当!」
炭酸担当が立ち上がって、謎にエアギターをした。
「リーダーになったらさ、会議の開始音を鈴にしよう!
チン! って鳴らしたらみんな笑う!
笑ったら雰囲気良くなる!
雰囲気良くなると仕事早い!
つまり勝ち!」
「何の勝ちだよ」
僕が突っ込むと、炭酸担当は胸を張った。
「生活の勝ち!」
千紗が大笑いした。
笑い声が部屋に広がると、五人の輪郭が少しだけ薄くなる。
たぶん、これ全部、僕の中の声だ。
僕が普段、聞こえないふりをしている声。
千紗が僕の前に座り、真面目な顔になった。
「で、ゴゾウの意見をまとめるとこう」
ホワイトボードに書く。
1) 質問して情報を揃える(白湯)
2) 支える約束を作る(紅茶)
3) 境界線を言語化(ほうじ茶)
4) チャンスとして舵を取る(コーヒー)
5) 雰囲気を守る遊びを混ぜる(炭酸)
「……全部やるの、無理じゃない?」
僕が言うと、千紗が首を振った。
「全部やらなくていい。
今日は“どれを主旋律にするか”を決めるだけ」
主旋律。
ロックっぽい言い方だ。
僕はしばらく考えた。
今の僕に必要なのは、勢いか、整理か、境界線か。
答えは意外とすぐ出た。
「白湯」
僕が言うと、千紗が頷いた。
「うん。まず白湯。
あなたは情報が揃うと強い」
僕はマグカップを手に取って、白湯を飲んだ。
温かさが喉を通る。
喉を通ると、言葉が出る。
「明日、上司に聞く。
業務範囲と支援体制。
あと、残業の想定」
「それが言えたら、次は?」
千紗が聞く。
「……ほうじ茶」
境界線。
怖いけど、必要だ。
「で、最後にコーヒーで背中蹴る」
「炭酸は?」
「……余裕があったら」
千紗が笑った。
「余裕がなくても、炭酸は入れよう。
あなた、楽がないと燃える」
それは図星だった。
僕は苦笑して頷いた。
その夜、僕はメモを作った。
上司に聞くことを箇条書き。
言うべき境界線を一文に。
そして最後に、炭酸担当の案を小さく書いた。
“会議開始はチン”
馬鹿みたい。
でも馬鹿みたいなことが、背中を軽くする日がある。
翌日。
僕は上司の席へ行き、質問をした。
声は震えた。
震えたけど、言えた。
上司は意外と真剣に答えた。
境界線も、言えた。
全部は言えなかったけど、一つ言えた。
一つ言えたら、次は二つ言える。
帰宅すると、千紗が玄関で聞いた。
「どうだった、ゴゾウ☆ロック」
「五回叩いたら、背中動いた」
僕が言うと、千紗は満足そうに頷いた。
「じゃあ今日はアンコール」
テーブルに並ぶ五つのマグカップ。
僕は笑った。
ヒーローは一人じゃない。
僕の中の五人が、今日も騒がしい。
でも騒がしいのは、生きてる証拠だ。
そして僕は、五回目の小さな合図を鳴らした。