合図ひとつで世界が動く
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
「さぁ」
たった二文字で、背中は軽くなる。
軽くなるのに、足はまだ重い。
足が重いのは、怖いからじゃない。
慣れた場所が、名残惜しいからだ。
僕の朝は、いつも“名残惜しさ”から始まる。
布団の中は暖かくて、世界の音が遠い。
遠い音の中では、メールも会議も、上司の「今どこまで?」も、全部おとぎ話みたいだ。
おとぎ話なら怖くない。
怖くないのに、僕は起きられない。
起きられない理由は、ただ一つ。
起きたら、現実が始まるから。
だから僕は、朝の最初に“合図”を作った。
合図は短いほど効く。長い言葉は、言い訳の隙間を作る。
「さぁ」
僕は布団の中で口を開いて、声に出した。
声に出すと、胸が少しだけ前に出る。
胸が前に出ると、体が起きる準備を始める。
準備が始まれば、あとは流れで起きられる。
流れは、僕の味方だ。
僕は意思が弱い代わりに、流れに強い。
洗面所。
歯ブラシ。
鏡。
付箋が四枚。
喜、怒、哀、楽。
最近貼った“交通整理”の札だ。
今日の僕はどれだろう。
鏡の中の僕は、眠くて、目がちょっと腫れてる。
腫れてるのは睡眠不足。
睡眠不足は、怒と哀を呼び寄せる。
でも今朝は、不思議と楽もいる。
理由は分かっている。
今日は、面談の日だ。
新しいプロジェクトのリーダー候補として名前が挙がっていて、僕は昨日、上司に質問をした。
業務範囲。支援体制。残業想定。
聞けた。
聞けたという事実が、僕の中の“白湯担当”を落ち着かせ、ほうじ茶担当の境界線を少しだけ太くした。
でも、まだ決めていない。
YESかNOか。
いったん決めろ、と千紗が言ったやつ。
だから、今日の合図は朝だけじゃない。
昼にも、夕方にも、必要になる。
玄関で靴紐を結びながら、僕はもう一回小さく言った。
「さぁ」
言うと、靴紐がきゅっと締まる。
締まると、足が外へ向く。
外へ向くと、世界が動き始める。
駅。
改札。
人の流れ。
僕はその流れに乗った。
流れに乗るのは得意だ。
でも流れに飲まれるのは苦手だ。
飲まれたら、また“いい子”が起動する。
会社に着く。
朝礼。
メール。
会議。
タスク。
全部いつもどおり。
いつもどおりのふりをして、僕の胸の奥だけが“面談”の時間を数えている。
昼休み、千紗からメッセージが来た。
『今日、さぁ の日?』
僕は笑ってしまった。
“さぁ の日”って何だ。
でも確かに、今日は“さぁ”が必要な日だ。
『さぁ の日。鈴も持ってる』
僕は冗談みたいに返した。
怪盗Yの夜に買った鈴。
あれは武器屋の武器だ。
刃物じゃなく、合図の武器。
『なら大丈夫。凹凸も忘れずに』
千紗の返事。
合言葉があると、怖さは輪郭を持つ。
輪郭を持てば、扱える。
午後。
上司に呼ばれる。
面談室。
扉を開ける前に、僕は息を吸って、口の中で言った。
「さぁ」
扉を開ける。
「座って」
上司はそう言った。
机の上には資料。
新プロジェクトの概要。
スケジュール。
メンバー候補。
そして、僕の名前が小さく書かれている。
「昨日の質問、いい視点だった。
で、どうする? 引き受けるか」
心臓が一回だけ強く鳴った。
僕の中の五人が騒ぐ。
白湯が「情報は揃った」と言う。
紅茶が「怖いと言っていい」と言う。
ほうじ茶が「境界線を忘れるな」と言う。
コーヒーが「行け」と言う。
炭酸が「チン!」と叫ぶ。
うるさい。
でも、うるさいのは僕が生きてる証拠だ。
僕は言った。
短く。
でも条件を添えて。
「引き受けます。
ただし、条件があります」
上司が眉を上げる。
ここで折れると、全部崩れる。
だから、合図。
「さぁ」
僕は心の中で言いながら、続けた。
「業務範囲を明確にしたい。
支援メンバーを一人、正式に付けてほしい。
残業が常態化するなら、どこを削るかも決めておきたいです」
言い終えた瞬間、部屋の空気が少し変わった。
上司はしばらく黙り、資料を見て、それから頷いた。
「……いい。条件として妥当だ。
こっちも守る。やろう」
守る。
その言葉が、胸の奥のこわばりをほどいた。
僕は息を吐いた。
吐くと、楽が少し顔を出す。
「お願いします」
面談室を出ると、廊下がやけに明るく見えた。
眩しいわけじゃない。
ただ、世界が少しだけ“前”にある。
夕方。
デスクに戻ると、同僚が「大変になるね」と声をかけてきた。
大変になる。
たぶん本当。
でも僕は笑って言った。
「うん。だから、先に“さぁ”って言っとく」
「何それ」
「合図。始めるための」
同僚は笑って、「じゃあ俺も言っとく」と言った。
「さぁ」
二人で笑った。
笑いは、炭酸担当の仕事だ。
雰囲気が良いと、仕事は早い。
つまり勝ち。
何の勝ちかは、もうどうでもいい。
帰宅。
鍵。
カチッ。
千紗が「おかえり」と言う。
僕は靴を揃えながら、言った。
「引き受けた」
千紗が目を丸くして、それから笑った。
「さぁ の成果だね」
「うん。条件付きで」
「条件言えたの、偉い」
「いい子じゃなくて?」
「ちゃんとした大人」
その言葉が、今日いちばん効いた。
僕はソファに座り、ポケットから鈴を出した。
チン、と鳴らす。
「何それ」
「武器」
「武器?」
「始めるための武器」
千紗が笑って、カップを二つ出す。
「じゃあ、次は?」
僕は湯気を見ながら言った。
「一旦、飲む」
千紗が頷く。
「さぁ」
その二文字で、今日がちゃんと終わり、明日がちゃんと始まる気がした。