つま先だけ、線へ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
スタートラインって、言葉が強い。
言った瞬間に、空気が「よーい」になる。
そして僕は、「よーい」になると、すぐ百まで走ろうとする。
走れない日は、ゼロに落ちる。
その落差が、いちばん怖い。
朝、冷蔵庫に貼られた紙を見て、僕は息を吐いた。
千紗の字。
「スタートライン=線
“立て”は全身じゃなく“つま先”
チッ→凹凸→一手
最後にシャク」
「つま先だけって、ずるくない?」
白湯を飲みながら言うと、千紗はフライパンを返しながら首を振った。
「ずるくない。現実通り」
「現実通り」
「あなたの全身は、いきなり線に乗ると固まる。だからつま先」
アンが椅子の上で丸くなっている。椅子。第三の動き。
猫はスタートラインが嫌いだ。猫はいつもスタートしていて、いつもゴールしている。
段で生きてる。
僕はスマホを開いた。
画面に、放置していた“自分の企画”のノートがある。
書きたい。
形にしたい。
でも、スタートラインに立つと、急に「全部やらなきゃ」になって、動けなくなる。
胸の奥で「チッ」。
ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
「来た?」
千紗が言う。受信機が早い。
「来た。スタートのチッ」
「凹凸」
「凹凸」
凹凸は手すり。
凸は、「やりたい」。
凹は、「失敗が怖い」。
やりたいのに怖い。
それがスタートラインの手触りだ。
「一手」
千紗が言う。
「つま先、どれにする?」
「どれって」
「線に触れる最小単位。ひとつだけ」
ひとつだけ。
僕らの呪文。
全部をやらないで済む、救命胴衣。
千紗はテーブルの上にマスキングテープを一本置いた。
白いテープ。
それを床に、まっすぐ貼った。
線。
スタートライン。
「ここ」
千紗が指差す。
「立て、じゃなくて、触れろ。つま先で」
「物理的にやるの?」
「物理が一番効く。あなた、頭の中で盛るから」
確かに。
頭の中のスタートラインは、いつも大会の入場行進みたいになる。
観客がいて、審査員がいて、失敗したら終わりみたいな顔してる。
冗談じゃない。
でも床のテープは、ただのテープだ。現実通り。
僕は立ち上がって、テープの前に立った。
全身は乗らない。
つま先だけ。
右足の先を、少しだけ前に出す。
触れた。
それだけで、背中の筋肉が少し緩む。
「どう?」
千紗が聞く。
「……怖いのが、ちょっと小さくなった」
「いいね」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。次は“椅子”」
「椅子?」
「座る。線に触れたまま、座る。第三の動き」
千紗はソファを指差した。
「立ってると、走りたくなる。座ると、始められる」
僕はソファに座った。
つま先はテープに触れたまま。
不思議な姿勢。
でも、これが“スタートの形”として優しい。
「ここで錨」
千紗が言う。
「一語+理由一行+鈴」
錨。風に飛ばされない発言手順。
僕は短く言った。
「錨:現実通り」
「理由:今日はつま先だけで十分」
千紗が鈴を鳴らした。ちん。
「固定」
固定されると、心が勝手に“大会”を始められない。
いい意味で。
「じゃ、つま先の次」
千紗が言う。
「企画のノート、何を一個やる?」
ひとつだけ。
僕は考えて、言った。
「タイトルの仮を一行」
「最高。ピース化できる」
「ピース」
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
僕はスマホを開き、ノートの一番上にカーソルを置いた。
ここが本当のスタートライン。
でもさっき床の線に触れたおかげで、ここが“大会”に見えない。
ただの一行。
ただのつま先。
指が止まりそうになる。
胸の奥で「チッ」。
ブザー。
凹凸。
一手。
一手は、呼吸。吐く。
吐くのが先。クロールの呼吸。
吐いて、書く。
書いた。
『つま先だけのスタートライン』
……自分で書いて、笑ってしまった。
メタすぎる。
でも、笑えたのが大事だ。
笑いは炭酸。圧抜き。
暗く沈ませないスイッチ。
「書けた?」
千紗が聞く。
「書けた」
「じゃあ終わり」
「え、もう?」
「うん。今日は“立て”じゃなく“触れろ”。触れたら合格」
千紗は真顔で言う。
「スタートラインは、スタートする場所じゃない。戻ってこれる場所」
戻ってこれる。
それは、救いだ。
一回触れたら、次も触れられる。
触れられるなら、続く。
続くなら、暗く沈まない。
昼。
僕は家事をして、アンを撫でて、白湯を飲んで、普通に過ごした。
でもスマホのノートに、さっきの一行が残っている。
残っているだけで、心が少し温かい。
火は小さいけど、消えてない。情熱マイソウルの中火みたいに。
夕方、千紗がスーパーから帰ってきて言った。
「今日のスタート、どうだった?」
「つま先だけで良かった」
「でしょ」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。最後にシャク」
りんごを一口噛む。
シャク。
音が、今日のスタートラインを“生活の中”に置き直してくれる。
大会じゃない。
僕らのたまり場式の線。
アンが椅子の上で丸くなって、目を細めた。
猫のスタートはいつも静かだ。
僕もそれを真似する。
全身じゃなく、つま先。
線に触れるだけでいい日が、ちゃんとある。
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