こぼれた白の扱い方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
やらかした、って音は、だいたい軽い。
なのに、胸の奥に落ちる重さは重い。
しかも、落ちたものが“牛乳”みたいに白いと、汚れがやたら目立つ。
白は正直だ。現実通りに“失敗”を映す。
朝、僕はコップを倒した。
正確には、アンがテーブルの端を歩いて、しっぽでちょい、とやった。
そして僕は反射で手を伸ばして、逆にコップを押してしまった。
コン、と音がして、白が広がった。
まるで、床に小さな雲が落ちたみたいに。
「うわ」
僕の口から出たのは、それだけ。
次の瞬間、胸の奥で「チッ」が鳴った。
舌打ちじゃない。ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凸は、「自分にイラッ」。
凹は、「朝から台無し感」。
一手は……雑巾、じゃない。
まず手すり。凹凸。
刺さったときの合言葉。
「凹凸」
僕が小さく言うと、キッチンから千紗の声が飛んできた。
「凹凸」
返ってくるだけで、床の白が“終わり”じゃなくなる。
こぼれたのは牛乳。
生活は、まだこぼれてない。
アンはというと、すん、とした顔で椅子に飛び乗っている。椅子。第三の動き。
猫は反省をしない。
でも反省をしないのが、たまに救いになる。
千紗がキッチンから現れた。
手には、白湯のマグと、キッチンペーパー。
完璧に手順の人だ。
「spilt milk?」
千紗が英語っぽく言って、眉を上げた。
「こぼれた白」
「……冗談みたいに言うな」
「冗談じゃないけど、冗談の形にしておくと焦げない」
彼女は真顔で言う。
「まず、コップ」
コップ。
空っぽでも器は器。
こぼした瞬間、僕の中で“全部終わった”みたいな感覚が走る。
でも、器は残ってる。
残ってるものを見れば、沈まないで済む。
千紗は倒れたコップを起こして、シンクに置いた。
「器、回収」
「……助かる」
「次、ピース」
千紗が床の白を指差す。
「欠片→ピース化」
「牛乳がピース?」
「うん。全部を“失敗”にしない。ピースは“処理する欠片”」
彼女はキッチンペーパーを二枚、僕に渡した。
「ひとつだけ」
「ひとつだけ?」
「あなた、掃除を罰ゲームにするから。今日は“二枚だけ”で第一段階」
「二枚は、ひとつじゃない」
「“ひとつだけ”の意味は、気持ちの話。やるのは第一段階だけ」
なるほど。
スイッチを段にするやつ。0/100は禁止。
今日は20でいい。
僕は床にしゃがんで、白を吸わせた。
じわ、と牛乳が紙に染みていく。
この“じわ”が嫌いだ。
失敗が移る感じがする。
でも、移るってことは、床から離れるってことでもある。
胸の奥のブザーが、少し静かになる。
「チッ、まだ鳴る?」
千紗が聞く。受信機が早い。
「……鳴る。自分に」
「じゃ、運用」
千紗は冷蔵庫の貼り紙を指差した。
いつの間に貼ったんだ。
千紗は貼り紙の忍者だ。
「こぼれた白=戻る
拭く前に錨
“やらかし”は合図
最後にシャク」
「錨?」
「うん。一語+理由一行+鈴」
千紗は鍵の鈴を指で弾いた。ちん。
「さぁ、錨」
僕は息を吐いた。吐くのが先。クロール。
短く言う。
「錨:現実通り」
「理由:こぼれただけ。生活は終わってない」
千紗がもう一回鈴を鳴らす。ちん。
「固定」
固定されると、頭の中の“台無しドラマ”が止まる。
現実通りは、ドラマを嫌う。
現実通りは、白い水たまりを白い水たまりとして扱う。
「次」
千紗が言う。
「拭く。第二段階」
「まだ終わってないの?」
「牛乳は匂いが残る。ここで雑に終わらせると、夜に“冗談じゃないんだよ”が来る」
「夜に刃物が出るのは避けたい」
「だから今、やさしくやる」
千紗は濡らした布巾を持ってきた。
布巾で拭く。
僕はそれを受け取って、床をゆっくり拭いた。
焦らない。
強火にしない。
中火で、丁寧に。
アンはその様子を椅子の上から見ている。
犯人なのに、裁判官みたいな顔。
僕は思わず笑った。
笑えると、失敗が“人生の終わり”じゃなく“生活の一幕”になる。
「ほら、線」
千紗が床を指差す。
「拭いたところと、まだのところ。境界が見える」
「線」
「線があると、終わりが作れる」
「確かに」
「ゼロか百かじゃなく、線で進む」
全部拭き終えると、床は少しだけ湿っている。
でも白は消えた。
消えたけど、僕の胸の中の“やらかした”はまだ少し残っている。
牛乳は消えても、自分に貼ったラベルは残りやすい。
千紗が言う。
「ラベル剥がす?」
「剥がす」
「じゃ、記号」
千紗は冷蔵庫の横のメモに、○|△を書いた。
「今どれ?」
僕は胸を探った。
△ほど危なくない。
でも○でもない。
「|」
「止まる」
「うん」
「止まるなら椅子」
千紗がソファを指差す。
「座って、白湯」
僕はソファに座った。
椅子。第三の動き。
白湯を一口飲む。
温度が戻る。
“戻る”って、こういうことだ。
「ねえ」
僕は言った。
「spilt milkってさ、“こぼれたミルクを嘆くな”みたいな言い回しあるよね」
「うん。過去は戻らない、ってやつ」
「でもさ、嘆かないって、難しい」
「嘆いてもいいよ」
千紗は即答した。
「ただ、嘆き方を選ぶ。刃物にしない。合図にする」
合図。
武器は刃物じゃない。
鈴だ。
“やらかし”を、生活の運用に変える鈴。
「今日の“やらかし”は、何の合図?」
千紗が聞く。
僕は少し考えて、答えた。
「急ぎすぎの合図。朝、手が早すぎた」
「いい」
「あと、アンのしっぽは意外と長い」
「それは学び」
千紗が笑う。
「ピース化、完了」
夕方。
僕らはスーパーで牛乳を買い直した。
同じ銘柄。
同じじゃないのに、同じみたいな顔をしてる。
でも“同じじゃない”のが現実通り。
それでいい。
家に帰って、千紗が冷蔵庫に新しい貼り紙を足した。
「spilt milk → コップ → ピース → 線 → 椅子 → 白湯 → さぁ」
「長い」
「あなたのための短縮コードもある」
「何」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「凹凸」
僕は笑って、頷いた。
最後に、りんご。
シャク。
音が、朝の白い水たまりを、ちゃんと“終わった話”にしてくれる。
こぼれた白は戻らない。
でも、器は残る。
残った器で、もう一回注げる。
僕らは今日も、こぼれたものに泣き叫ぶ代わりに、手すりを握って、鈴を鳴らして、暗く沈まないまま生活を続ける。
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