床に聞く
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
「そこに正座」
その言葉って、本来は罰の匂いがする。
叱られる前提、空気が締まる前提。
でも僕らの家では、たまにそれが“救命措置”になる。
刃物じゃない武器みたいに。
朝、僕はやらかした。
いや、やらかし“かけた”。
アンのトイレ砂を補充しようとして袋を持ち上げた瞬間、底が裂けて、床にざざざ、と砂が雪みたいに降った。
白じゃないけど、散らばり方が「台無し」を演出する。
そして僕は反射で大声を出しそうになった。
胸の奥で「チッ」。
舌打ちじゃない、ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
僕は息を吸いかけて止めた。
吐くのが先。クロール。
その時、キッチンから千紗の声。
「そこに正座」
真顔の声なのに、どこか軽い。
“叱る”じゃなく“止める笛”の響き。
「……え、僕?」
「うん。あなたの心が暴走しそうだから」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。正座」
アンはというと、椅子の上で悠々と毛づくろいしている。椅子。第三の動き。
犯人は猫じゃない。裂けた袋だ。
でも猫は「関係ないけど見守る」顔をしている。裁判官みたいに。
僕は散らばった砂の前で、正座した。
床が冷たい。現実通り。
膝がちょっと痛い。現実通り。
でも、痛いってことは、いまここに体があるってことだ。
頭の中の“台無しドラマ”が、床の冷たさで一回止まる。
「どう?」
千紗が僕の横にしゃがんで聞く。受信機の目。
「……止まった」
「いい。正座は“止まる”の最短距離」
「罰じゃないの?」
「罰は暗く沈む。リセットは明るい」
千紗は淡々と言う。
「うちの正座はリセット。たまり場式の一種」
たまり場式。
型。
僕らが沈まないための運用。
「凹凸」
千紗が小さく言う。
「凹凸」
僕も返す。
合言葉で、手すりを握る。
凸は、「焦り」。
凹は、「自分に怒り」。
怒りが刃物になる前に、正座で止める。
止める笛。CALLED GAME。
“そこに正座”は、僕らの笛の言い換えだ。
「一手」
千紗が言う。
「ひとつだけ、選んで」
ひとつだけ。
僕がここでやるべき一手は、掃除じゃない。
まず、錨。
風に飛ばされない発言手順。
「錨:現実通り」
僕は言った。
「理由:砂が散っただけ。家は壊れてない」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「固定」
固定されると、僕の中の“最悪”が小さくなる。
砂は砂。
最悪じゃない。
面倒ではあるけど、面倒は刃物じゃない。
「次は線」
千紗が言って、指で床の上に境界を描く。
「ここまでが“散った”。ここからが“まだ”。線を引く」
「線は優しい境界」
僕が言うと、千紗は満足そうに頷いた。
「そう。線で割ると、全部が全部じゃなくなる」
千紗は紙を一枚持ってきて、床に置いた。
その上に、○|△を書いた。シンプルシンボル。
「今どれ?」
千紗が聞く。
僕は胸の中を探る。
△ほど危なくない。
でも○でもない。
「|」
「止まる」
「うん」
「止まったなら、椅子」
千紗がソファを指差す。
「正座は一回で十分。次は椅子で続ける」
正座はリセット。
椅子は継続。
第三の動き。
ゼロか百かじゃない手順。
僕は立ち上がって、ソファに座った。
千紗が掃除機を出してくる。
僕の中で「僕がやらなきゃ」が鳴りかけて、またチッ。
ブザー。
「凹凸」
「凹凸」
一手は、役割分担。
片方が掃除機、片方が袋の片付け。
僕は裂けた袋の残りをまとめて、ゴミ袋に入れる。
砂が散ったこと自体より、“自分を責める癖”の方が厄介だ。
だから、運用で潰す。
掃除機の音が、ぶうん、と鳴る。
音って、生活の現実通りだ。
現実通りは、暗く沈ませない。
やることをやれば終わる、と教えてくれる。
床がきれいになる。
線で分けた境界が消える。
ピース化。欠片→ピース化。完成側へ戻る。
「終わったね」
千紗が言う。
「終わった」
僕は深く息を吐いた。吐くのが先。
胸の奥のブザーが、やっと静かになる。
アンが床に降りてきて、何もなかった顔でその場を通り過ぎた。
猫は“終わった”が上手い。
僕はその背中を一回だけ撫でた。ひとつだけ。
「ねえ」
僕が言う。
「“そこに正座”って、言われるとちょっと笑いそうになる」
「笑っていいよ」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「うちの正座はギャグじゃなく、救命具。でも笑えた方が救命率が上がる」
救命率。
言い方が現実通りで、僕はまた笑った。
ギャグに寄せすぎない温度で。
「最後にシャク」
千紗が言う。
りんごを切って、一口噛む。
シャク。
音が、朝の砂を“ただの出来事”に戻してくれる。
罰みたいな言葉を、リセットに変える。
正座を、暗く沈むものにしない。
それが僕らの運用だ。
床に膝をつけて、現実通りを聞いて、鈴で始め直す。
千紗が最後に、ちん、と鳴らした。
「さぁ」
その一音で、今日の朝はちゃんと生活に戻った。
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