湯屋で桶が迷子
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あらすじ
真昼山の山頂に、ひとりの子どもが降り立った。 名はハル。泣きそうなほど眩しい朝日を見上げたその瞬間、世界は“きれいすぎる”方向へ盛られてしまう。音は響きすぎ、匂いは良すぎ、善意は増えすぎる。 原因は神界の「泣かせない係」。 生活感のあるお役所みたいな職員室で、主犯神アマネが今日も宣言する。 「おねぇちゃんに、まかせて!」 涙ゼロを目指すあまり、世界を盛りすぎて大パニック。ゆれりんが鳴れば朝礼集合、盛っては直して反省会。なおし係まで巻き込まれ、業務はいつも過多になる。 一方、地上では麓の共同保護の家「結び家」が、飯と湯と順番で今日も回る。 パニックは去らない。だけど生活に編み込めば、笑って眠れる。 泣かせないおねぇちゃんと、泣く暇のない日常が出会う、ドタバタほのぼのハイファンタジー。
本文
湯屋は、湯気で顔が見えなくなる場所だ。
顔が見えなくなると、だいたい安心する。
安心すると、油断する。油断すると、迷子が増える。
「今日は、ご褒美だ」
タケルが真顔で言った。
「ご褒美って言うな」
ユリネが即座に刺す。
「でも湯屋はご褒美だろ」
「ご褒美に浮かれて順番を溶かすな」
結び家は、夕方の仕事を片づけてから湯屋へ向かった。
空はまだ明るい。明るいのに、湯屋の入口だけがいつも少し夜みたいだ。
湯気の匂いが、外まで染み出している。
「……あったかい匂い」
シノが小さく言った。
匂いを褒める時のシノは、声がさらに小さくなる。
入口の木戸を開ける。
きい、と鳴る。鳴り方が生活。
中から、わちゃっとした笑い声と、ぱしゃぱしゃの水音が混ざって出てきた。
「混んでる?」
レンカが目を輝かせる。
目が輝くと、善意が走る。善意が走ると、桶が動く。
「走るな」
ユリネが言った。
「走らない! でも、置きに行く!」
「置くな」
「えええ」
湯屋の棚には、桶が並ぶ。
並ぶが、並び方は人の数だけ違う。
違うと、探す。探すと、迷う。迷うと、声が増える。声が増えると、湯気が濃くなる。
「湯気って、増えるんだな」
タケルが真顔で言った。
「増やすな」
ユリネが刺す。
結び家がいつも持っていくのは、欠け桶だ。
角が欠けた木の桶。
目印で、助けで、生活の道具。
そして、今日は湯屋でも目印になるはずだった。
ユリネが欠け桶を棚に置いた。
置き方が迷いない。
迷いがないと、周りが安心する。安心すると、みんな勝手に動き出す。
「私、洗う札!」
レンカが言いかけた。
「札は濡らすな」
ユリネが即答した。
順番札は紙だ。紙は湯に弱い。湯は優しいのに紙には厳しい。
「じゃあ、札は外に掛ける!」
レンカが言い切った。
入口脇の釘に、結び家の札が一列で掛かる。
生成りの紙。丸い角。穴あけ。
大きい数字と一語タグ。
湯。
その一枚が揺れる。
揺れるだけで、今日の順番が「ちゃんとある」気がする。
「……よし」
ユリネが頷いた。
頷いたところで、レンカがまた動く。
「桶、いっぱいある! 貸せる!」
「貸すな」
「でも困ってる人が!」
レンカの視線の先。
小さい子が、棚の前で立ち尽くしている。
家の人は奥で笑ってる。笑ってるから気づかない。
子は桶を探している顔だ。
探している顔は、すぐ泣く。
泣く前に手を出すのが、レンカの癖。泣かせない係が勝手に発動する。
「貸す!」
「貸すな」
ユリネの声が飛ぶのと同時に、レンカの手が欠け桶へ伸びた。
伸びた手は止まらない。止まらない手は、善意の暴走だ。
「待て!」
ユリネが言った。
言った時には、もう遅い。
レンカが欠け桶を持ち上げて、子の方へ向けた。
湯気の向こうで、子の顔がぱっと明るくなる。
明るくなる顔は、刺さる。止められない。
「これ、使う? 欠けてるけど、使える!」
「欠けてる!」
子が目を輝かせた。
輝くな。輝くと、次が起きる。
「欠けてるの、かっこいい!」
「かっこよくするな」
ユリネが刺した。
刺したが、子はもう欠け桶を受け取っている。
欠け桶が、結び家の手から離れた。
離れた瞬間、目印が消える。
目印が消えると、結び家の動きが一瞬だけ止まる。
「……欠け桶、いった」
ハルが小さく言った。
ハルの一言はいつも、事故の見出しだ。
「貸すなって言っただろ」
ユリネが言う。
怒ってない。怒ると湯屋が冷える。湯屋は冷やさない。
「だって泣きそうだった!」
「泣かせない係、発動しても、順番は守れ」
「順番!」
レンカが復唱して、少しだけしゅんとなる。
しゅんとなると、湯気が優しくなる。
タケルが真顔で言った。
「でも、欠け桶が無いと、俺らが迷子になる」
「迷子になる前に、戻す」
ユリネが短く言った。
「返してって言う?」
レンカが小さく言う。
「言うな」
「えええ」
「言うと、湯屋が止まる。止まると、みんなが入れ替わる。入れ替わると、もっと迷子が増える」
ユリネは指を二本立てた。
「一、入る。二、出る。欠け桶は出る時に戻す」
「出る時!」
レンカが復唱する。
復唱があると、手順になる。手順になると、泣かない。
結び家は、欠け桶なしで湯へ向かった。
湯屋は、桶がなくても湯気はある。
だが桶がないと、人は手が落ち着かない。落ち着かないと、洗い方が雑になる。雑になると、湯が濁る。濁ると、また声が増える。
「……桶、貸してもらう?」
シノが小さく言った。
言い方が遠慮深い。遠慮深いのに、周りは優しい。
「どうぞ」
隣の人が、普通に桶を差し出した。
普通に差し出す優しさは、湯屋の作法だ。
しかし、普通は混ざる。
混ざると、入れ替わる。
入れ替わると、誰の桶か分からなくなる。
「……これ、誰の?」
タケルが真顔で言った。
手に持ってる桶を見ている。
見ているのに、答えが出ない顔。
「お前のじゃない」
ユリネが即答した。
「即答だ」
「湯屋で迷う顔をしてる桶は、だいたい借り物だ」
湯気の向こうで、子どもたちが走っている。
走ると桶が動く。桶が動くと棚が揺れる。棚が揺れると、置いた桶がずれる。
ずれると、目印が消える。
「目印、欲しい」
レンカがぽつりと言った。
言い方が、箱の時と同じだ。欲しいは危ない。
「欲しいで止めろ」
ユリネが言った。
「……目印、欲しい」
レンカが言い直した。言い直せるのは偉い。
湯の中で、ハルが小さく息を吐いた。
「……欠け桶、あると、探さない」
探さない、は勝利だ。
探さないと、湯が湯のままで終わる。
その時だった。
「ねえ、これ、欠けてる!」
子どもの声が響いた。
欠けてる、が響くと、欠け桶が波になる。
「欠けてるの、いいよね!」
「いいって言うな」
ユリネが湯の中から刺した。
刺したのに、声は湯気で丸くなって、怒ってないように聞こえる。湯屋はそういう場所だ。
欠け桶は、子どもたちの間で回り始めていた。
回すな。
回すと、順番が溶ける。溶けると、最後に泣く。
レンカが立ち上がりかけた。
立ち上がると水が跳ねる。跳ねると周りが見る。見ると止まる。止まると入れ替わる。
止まれ。
「座れ」
ユリネが言った。短い。
「でも!」
「湯は逃げない。順番」
ユリネの口調型が出た。
出ると、レンカが座る。座れるなら勝ちだ。
代わりに、コトが小さく動いた。
立たない。叫ばない。
湯の縁まで、すっと寄る。
「それ、欠けてる桶、いいね」
コトがにこっと言った。
褒めるのに、煽ってない。コトの褒めは、止める褒めだ。
子が顔を上げる。
「ね、かっこいいでしょ!」
「うん。かっこいい。だからね」
コトが指を一本立てる。
「返す時は、欠けを見せて返す」
「欠けを見せて?」
「欠けを、こっち」
コトが棚の方を顎で示した。
指差さない。湯屋の礼儀。
「返す場所、ここ」
棚の端。
入口に近いところ。
人が通るけど、ぶつからない場所。
コトは一言だけ付け足した。
「欠けは、目印」
目印。
その一語で、子の顔が「役目」になる。
役目があると、子は真面目になる。真面目な子は泣かない。
「わかった! 目印!」
子が復唱して、欠け桶を抱えたまま棚へ向かった。
走らない。
走らないのが、今日いちばんえらい。
欠け桶が棚に戻る。
戻るだけで終わるはずだった。
戻った瞬間、別の大人が言った。
「あ、これ、うちの?」
言い方が半分疑いだ。
疑いは、湯屋で刺さる。刺さると空気が固くなる。固くなると、湯が冷える気がする。気がするだけでも嫌だ。
「違う」
ユリネが即答した。
「えっ」
「欠けてる。うちのだ」
ユリネは言い切る。
言い切りは強い。強いが、湯屋では強くしすぎない。
そこでレンカが、やらかす顔をした。
「じゃあ、うちのって書けば……」
「書くな」
ユリネが刺した。
「えええ」
「書くと、書けない桶が泣く」
「桶、泣く?」
「泣く。持ち主が困る」
ユリネは欠け桶の縁を、とん、と叩いた。
欠けている角。
欠けは説明じゃない。目で分かる。
分かるものは、増えない。
「欠けで十分」
ユリネが言った。
「欠けで十分」
ハルが小さく復唱した。
復唱が増えると、湯屋の作法になる。
大人は「そっか」と言って、手を引っ込めた。
引っ込め方が素直だ。素直は助かる。
欠け桶が戻った。
戻ったら、次は「迷子」を回収する番だ。
タケルが真顔で言った。
「でもさ、さっき俺ら、桶借りたよな」
「借りた」
「返す場所、分かんない」
「分かる」
ユリネが即答する。
ユリネは、入口の札を顎で示した。
湯。
揺れてる。
「出る時に、湯札の下へ戻す」
「札、濡れるじゃん」
「札は外だ。桶は乾く」
「なるほど」
タケルが真顔で頷いた。
レンカが目を輝かせた。
「じゃあ、湯札が目印だ!」
「増やすな」
ユリネが刺す。
「増やさない! でも、目印!」
「目印は一つでいい」
一つでいい。
一つでいい、が言えると、世界が静かになる。
静かになると、湯の音が戻る。ぱしゃぱしゃ。
湯屋の奥で、誰かが笑った。
笑いはいい。
笑いが「誰かの泣き」を押し流さない範囲なら、湯屋は勝つ。
しばらくして、結び家は順番に湯から上がった。
上がると、湯気が薄くなる。薄くなると、顔が見える。
顔が見えると、だいたい安心する。安心すると、また油断する。
油断しそうなレンカの手を、ユリネが見た。
見た瞬間、レンカが手を引っ込めた。
引っ込められるなら偉い。
「返す」
レンカが小さく言った。
「返す」
コトが頷いた。
「返す場所は?」
シノが小さく言う。
「湯札の下」
タケルが真顔で答えた。
「……欠けは入口」
ハルが小さく付け足した。
いい。
口で回る順番が、今日はちゃんと一本になっている。
借りた桶が、湯札の下に戻る。
戻したら終わり。
終わりがあるから、迷子が増えない。
最後に、欠け桶が棚から抱えられて結び家の手に戻った。
欠けた角が、湯気の中で一瞬だけ光った。
光るのは宝じゃない。目印だ。生活だ。
「欠け桶、かっこよかった!」
さっきの子が、満足そうに言った。
「かっこよくするな」
ユリネが刺す。
「でも、役目あった!」
子が胸を張る。
役目がある顔は泣かない。
レンカがそれを見て、少しだけ嬉しそうに笑った。泣かせない係が報われた顔だ。
結び家は帰り道、夜風に当たった。
湯のあとに風が来ると、体が「生きてる」って言い出す。
言い出すと腹が鳴る。腹が鳴ると、家が近い。
家に戻ると、ユリネが鍋の蓋を開けた。
湯屋の湯気とは違う、飯の湯気が上がる。
それだけで、今日が回収される。
レンカが小さく宣言した。
「今日、桶を迷子にしたけど、泣かせなかった!」
「迷子にしたのはお前だ」
ユリネが言う。
「でも泣かせなかった!」
「泣かせないのはいい。増やすな」
「増やさない!」
レンカが口を押さえて笑う。笑いは増えない笑いだ。
タケルが真顔で言った。
「欠け桶、今日めっちゃ働いたな」
「働いたのは順番だ」
ユリネが言い切る。
ハルが小さく頷いて、欠け桶に触れた。
「……目印、あると、迷わない」
迷わない。
それが今日の勝ち。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」