【欄】(第七波)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
真昼山の山頂に、ひとりの子どもが降り立った。 名はハル。泣きそうなほど眩しい朝日を見上げたその瞬間、世界は“きれいすぎる”方向へ盛られてしまう。音は響きすぎ、匂いは良すぎ、善意は増えすぎる。 原因は神界の「泣かせない係」。 生活感のあるお役所みたいな職員室で、主犯神アマネが今日も宣言する。 「おねぇちゃんに、まかせて!」 涙ゼロを目指すあまり、世界を盛りすぎて大パニック。ゆれりんが鳴れば朝礼集合、盛っては直して反省会。なおし係まで巻き込まれ、業務はいつも過多になる。 一方、地上では麓の共同保護の家「結び家」が、飯と湯と順番で今日も回る。 パニックは去らない。だけど生活に編み込めば、笑って眠れる。 泣かせないおねぇちゃんと、泣く暇のない日常が出会う、ドタバタほのぼのハイファンタジー。
本文
織帳院の朝は、だいたい「揃えたのに揃わない」から始まる。
今日は、その先だ。揃える場所が無い。
申請受付審査室。
はんこ係のチヨは、机に突っ伏していた。
「……いや……いやぁ……」
悲しい泣きじゃない。業務の泣きだ。
机の上に積まれた申請書は、角だけが命だ。角が揃えば世界が回る。回るって言うな。胸の中で回れ。
チヨは儀式を始めた。
束の側面を机に、とん、とん、とん。
よし。揃った。
今日こそ、いける。いけるって言うな。胸の中でいける。
その瞬間。
紙の中で、罫線が一拍だけ増えた。
縦が一本。横が一本。
欄が、しれっと増えた。
増えた分だけ、揃ったはずの角が、やさしくズレる。
「……角が……角がぁ……!」
チヨは叫びかけて、すぐ自分の口を押さえた。
声を増やすと周りが動く。周りが動くと欄が喜ぶ。欄は動くのが好きだ。最悪。
背後の壁は、今日も壁をしていた。
張り紙。張り紙。張り紙。
主任級持ち回りの貼り癖が、今日に限って全部「ここで勝ちたい」になっている。
右端ぴし派。
中央揃え派。
上二ミリ空け派。
下余白残し派。
そして、なぜか一人だけ「斜めの方が人は読む派」。
「……読ませたい欲、出すなぁ……」
チヨの泣きが、A(角)からB(壁)へ移る。
角がズレる。壁がうるさい。
AとBを行ったり来たりすると、脳が熱い。熱いと欄が増える。増やすな。
ゆれりんが鳴った。
りん。
空気が固まる。固まると余計な手が止まる。
止まったのに、壁の張り紙だけが、なぜか増えたい顔をしている。紙の顔って何だ。胸の中で考えろ。
廊下から乾いた声。
「第七波?」
マドカだ。入って来ない距離で刺すのが上手い。入ると増えるからだ。
室内に、淡々が入ってきた。ナギだ。
壁を一瞥して、机を一瞥して、天井を一瞥した。
「……上」
「上?」
チヨが涙目で顔を上げる。
天井近く。
照明の周りに、薄い格子が漂っていた。
欄だ。
貼る場所を失った欄が、ついに“貼る場所を探す”のをやめて、“貼れる高さ”へ逃げた。
「……天井に逃げたぁ……」
チヨの泣きが、B(壁)で揺れて、A(角)に戻る。
「角も壁も天井も足りないって、何なんですぅ……!」
その時、最悪の元気が開いた。
「チヨー! おはよー!」
主犯神アマネだった。
元気。明るい。現場の酸素を吸って欄を吐くタイプの元気。
「……おねぇちゃんに、まかせて!」
「任せた結果がこれですぅ……!」
チヨは机に突っ伏し直す。A泣き。
すぐ壁を見る。B泣き。
忙しい。忙しいと欄が増える。増やすな。
アマネは天井の欄を見て、目を輝かせた。輝くな。
「見て見て! 欄、上に行った!」
「行ったって言うな」
マドカが廊下から刺す。
「でもさ、上に行ったってことは“貼る場所が増えた”ってことじゃん!」
「増えたって言うな」
チヨが泣き声で刺して、また口を押さえた。泣き声でも正しいことを言うのが、さらに悲しい。
アマネは大きく頷いた。頷くと決定が増える。増やすな。
「つまり! 欄は増えた! 解決!」
「解決するな」
ナギが淡々。
「えー? だって貼れるじゃん、ほら!」
アマネは椅子を引きずり出した。椅子が出ると現場が動く。動くと欄が喜ぶ。最悪。
椅子の上に立とうとするアマネの足元で、チヨが半泣きで叫びかけて止めた。
止めたのが偉い。止められなかったら今ごろ天井が申請書だ。
「……落ちるのは紙だけにしてぇ……!」
「落ちるって言うな」
マドカが刺す。
「紙が落ちるのも困るんだよ!」
チヨが言い返して、A泣きがB泣きに跳ねる。忙しい。
ナギが淡々と、天井の欄を見上げて言った。
「欄が上に行くと、読む角度が増える」
「角度増やすなぁ……!」
チヨが机に額を当てた。
その額の振動に反応するみたいに、天井の欄が、ふわ、と広がった。
照明の周りに、吊り下げ式の罫線が増えていく。
紙のモビールみたいに、欄だけが揺れる。揺れると、誰かが読みたくなる。読まれると、また増える。
最悪の循環が、上で静かに回っている。回るって言うな。
「ほら! 欄が空気に馴染んだ!」
アマネが元気に言う。
「馴染ませるな」
ナギが淡々。
「馴染んだら“常設”じゃん!」
「常設にするなぁ……!」
チヨが泣いた。A泣き。B泣き。どっちもセットで来る。来るな。
その時、にこにこが来た。
「おはようございます」
院代。にこちゃん先生。
にこにこ怖い。
椅子の上のアマネ。天井の欄。壁の張り紙。机の角。
全部を一度に見て、にこにこで“一言”だけ落とした。
「天井を申請書にしないでください」
一言。
一言だけで空気が一段だけ整う。
整うと、アマネの足が止まる。止まれるなら勝ち。
「……え」
アマネが口を開けかけて、閉じた。閉じられるなら勝ち(二回目)。
そして、朱肉の匂いが入ってきた。
ゲンだ。
「まだ終わってない顔だな」
「終わってません……!」
チヨが即答する。今日は泣きより怒りが勝ってる。怒れるなら生きてる。
ゲンは天井を見た。
次に壁を見た。
次に机を見た。
最後に、椅子の上のアマネを見て、雑に言った。
「上に貼るなら、上に印だろ」
意味が分からないのに、なぜか現場に効く。
雑は時々救命具だ。
ゲンは朱肉を開け、判を構えた。
ゲン印【幸】。
どん。
……どん、は本来机で鳴る音だ。
でも今日のどんは、椅子の上から天井へ向かって鳴った。
ゲンが椅子に乗った。乗るな。胸の中で乗るな。
乗ったのに、転ばない。転ばないのがゲンの雑な強さだ。
赤い【幸】が、天井の欄の中心に、きっちり乗った。
乗った瞬間。
欄が「仕事終わり」の顔になった。
ふわ、と揺れていた罫線が、すう、と薄くなる。
吊り下げ式の格子が、畳まれて、紙の内側へ戻っていく。
照明の周りの“貼れる高さ”が、ただの天井に戻る。
壁の張り紙も、ぴた、と止まった。
めくれかけていた紙の端が、元の位置に戻る。
貼り癖の主張が一段だけ静かになる。静かって言うな。
机の角が、やさしく揃い直された。
チヨの視界に、角が戻る。角が戻ると呼吸が戻る。戻るって言うな。
「……角……角が……」
チヨは泣きそうな顔で笑いそうになって、どっちにも行けずに机に額を当てた。
「……生きましたぁ……」
「生きたら飲め」
ゲンが雑に言って、湯呑みを指でちょん、と叩いた。
給湯室の方から急須が来る。急須は増えていい。増える急須は平和の匂いがする。
アマネが椅子から降りて、にこにこ先生を見て、胸の前で小さく拳を握った。
「……胸の中で、欄」
「胸の中なら勝手にしろ」
ナギが淡々と返して、なぜか全員が少しだけ笑った。刺さらない笑いがいちばん助かる。
チヨは最後に、壁を見た。
貼る場所は、ある。
でも今日は貼らない。貼らないのが一番の勝ちだ。勝ちって言うな。胸の中で勝ち。
ゲンが朱肉を閉めて、雑に言い放つ。
「終いが良ければそれでよし!」