板の機嫌

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/20 📚 シリーズ: 追伸は必ず。 📝 3,429文字 ✅ 全年齢

あらすじ

学校の片隅に置かれた「応援ポスト」。 HELP(困ってる)とTHANKS(助かった)を、誰でも匿名で入れられる。 返事も誰でも書ける。極稀に先生も書く。ただし、ひとつだけルールがある。 “追伸だけは必ず書くこと。” 中学も、高校も、大学も。 頑張り方に迷う誰かの紙に、知らない誰かの言葉が届く。 励ましじゃなくて、明日を軽くする「やり方」が、追伸に残る。 学園青春×短編連作 匿名お悩み相談(手紙) じんわり回復+時々クスッ 更新:週1は守ります。基本14時に届きます。たまに増えます。

本文

中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。

どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。

返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。

共通しているのはひとつだけ。

“追伸だけは必ず。”

中学の下駄箱エリアは、朝と放課後だけ、少しだけ駅になる。

行き先の札はみんな同じ「教室」なのに、靴箱の前に立つ顔はばらばらで、置いていく息もばらばらで。だからその一角に、生徒会が勝手に置いた小さな掲示板は、いちばん駅っぽい場所になった。

『応援コーナー』

白地の見出し。下に、色の違う用紙の束。HELPとTHANKS。どっちも、角がほんの少し丸い。印刷のしかたが丁寧だと、それだけで「怒られない場所」みたいに見えるから不思議だ。

用紙の前に立つのは、たいてい二種類。

書きたい人と、書けないまま立ち尽くす人。

後者のほうが多い。毎朝、用紙の束は減らないのに、足は止まる。指先だけが動いて、戻っていく。たぶん、書く前に心が一回しゃがむ。そこから立ち上がるのは、わりと筋力がいる。

その日、しゃがんだままになった子がいた。

背中が小さい。制服の袖から覗く手が、靴ひもみたいに細い。上履きのかかとを踏んでいて、でもわざとじゃない感じ。靴箱の扉を開ける音が小さすぎて、逆に耳に残る。

彼女は、掲示板の前でしばらく立っていた。

HELPの束の上に、指を置いて、ひょいと持ち上げて、戻した。THANKSも同じようにやって、戻した。まるで用紙が熱いか冷たいか確かめるみたいに。

それから、たぶん決めた。右端にある小さい鉛筆を取って、手の甲で一回こすって、紙を一枚引いた。

HELP。淡い色。生徒会の印刷はいつもこの色で、目が痛くならない。

彼女は、息を吸うところから書いた。

『バレンタインのことがこわいです。

みんな「作る」とか「渡す」とか言うけど、

わたしは、どうしたらいいかわからないです。

下手で笑われるのがこわいです。

友だちに「いらない」って言われるのもこわいです。

でも、なにもしないのも、あとでさみしくなりそうで、

ずっと、お腹が変な感じです。』

最後の行で止まって、鉛筆を離した。紙に指先の形が残るくらい、力が入っていた。

署名欄には何も書かない。代わりに、右下に小さく「中1」とだけ書いた。それが、この掲示板のルールみたいになっている。名前を置かないことで、話だけが残る。話だけが生き残る。

彼女は紙をピンで留めようとして、うまく刺さらなくて、二回失敗した。三回目で刺さったとき、彼女の肩が、ほんのちょっと上がった。

そのまま、教室へ行った。

掲示板は、そこに残った。

昼休みの終わり頃、誰かが足を止めた。

上履きの音が大きい。走ってきたんだろう。ピンを一本抜いて、紙を引き寄せて、読む速度が速い。読み終わると、ふっと、鼻で笑った。悪い笑いじゃない。紙の緊張をほどくような笑い。

その子はTHANKSの束に手を伸ばしかけて、やめて、HELPを取った。

返事を書くときは、HELPに書く。ここでは、それが暗黙の了解になっている。

『中1へ。

みんなが「作る」って言うの、正直うるさいよね。

でもさ、「作らなきゃ」じゃなくて、「作ってみたい」なら、ちょっとだけやればいい。

下手で笑われたら?

笑ったやつのほうが下手だから気にすんな(経験談)。

渡すのがこわいなら「渡す練習」していい?

自分に渡す。机の引き出しに入れる。放課後に自分で食べる。

それでもバレンタインは成立する。

友だちには、手紙でもいい。

チョコじゃなくても、THANKSでもいい。

あと、お腹変な感じ、めっちゃわかる。胃がバレンタインに反抗してる。

胃と仲直りしようぜ。』

最後に、右下に小さく「中2」と書いて、ピンで留めた。ピンの刺し方がうまい。慣れている手つきだ。

走ってきた足音は、帰りは歩きになっていた。

その日の放課後、掲示板の前は少し混んだ。

バレンタインという言葉が、校舎の空気に混ざりはじめている。換気扇の音と同じくらい自然に、「どうする?」が飛ぶ。

掲示板を見に来る子も増える。見に来るだけで、書く子は少ない。でも、今日は違った。HELPの紙が、いつの間にか三枚増えていた。

『中1へ。

わたしも中1のとき、何もできなかったよ。

「何もできなかった自分」を、あとで責めるのがいちばんきつかった。

だから、できることを小さくするのがおすすめ。

チョコひとつを「作る」じゃなくて、

チョコひとつを「並べる」でもいい。

市販のチョコを買って、可愛い紙に包むだけでも、すごい。

包むのが難しいなら、袋に入れてリボン結ぶだけでもいい。

「自分が自分を責めない」ほうが勝ち。

中3より。』

『中1へ。

わたしは「渡す」が無理だったから、

THANKSの紙に「いつもありがとう」だけ書いて貼った。

そしたら、相手が返事くれた。

チョコなくても、心は渡る。

たぶん、バレンタインってそういう日。

中2(女子)』

『中1へ。

胃が反抗してるのわかる。

わたしは前日から胃が「やめろ」って言う。

だから当日は「胃に優しい」を優先する。

あったかいお茶、持っていけ。

胃が落ち着くと、心も落ち着く(たぶん)。

中2(胃仲間)』

“胃仲間”の字を見た瞬間、読み手の誰かが吹いた。

吹いたのが伝染して、もうひとりが笑った。

笑いは、掲示板の前を一瞬だけ軽くする。

笑っていい場所に、なった。

翌朝。

中1の彼女は、また掲示板の前で立っていた。

昨日の紙が、増えている。自分のHELPの下に、返事がぶら下がっている。ピンの位置が少しずれていて、紙の端がひらひらしている。紙が生き物みたいだ。

彼女は、返事をひとつずつ読んだ。

「胃と仲直りしようぜ」で、口角が一ミリだけ上がった。自分でも気づかないくらい小さな、でも確かな変化。

読み終えると、彼女は用紙の束を見た。

THANKSを、取った。

今度は手が震えていなかった。かわりに、肩がちょっとだけ上がっている。昨日と同じ“上がり方”だ。

鉛筆を持って、書き始めた。

『返事くれた人へ。

読んでくれてありがとうございました。

「自分に渡す」って、天才だと思いました。

それなら、失敗しても、わたししか見ない。

「笑ったやつのほうが下手」も、勇気が出ました。

胃仲間も、いました。

胃が反抗してるの、わたしだけじゃないって知って、

ちょっと笑えました。

今日、帰りにチョコを見てみます。

買うだけでもいいって書いてあって、助かりました。

わたし、たぶん、包むのは苦手です。

でも、袋ならいけるかもしれないです。

ありがとうございました。』

最後に、右下へ。

「中1」

それだけ書いて、ピンで留めた。

昨日は三回かかったのに、今日は一回で刺さった。

その瞬間、背後から声がした。

「……あ、貼れた?」

生徒会の腕章をつけた先輩が、紙束を抱えて立っていた。補充係だろう。用紙の束が減っているかを確認する、いつもの仕事の顔。

彼女はびくっとして、でも逃げなかった。

「はい……」

「えら。ピン、刺すの最初むずいんだよね。昨日、刺さらなかったでしょ」

見られてた。と思って、顔が熱くなる。逃げ道を探す視線が、靴箱の扉の取っ手で止まる。

生徒会の先輩は、にやっと笑った。からかう笑いじゃない。昨日の駅の空気を知ってる笑い。

「大丈夫。掲示板、刺さらない日は刺さらない。板が機嫌悪い」

「板……?」

「うん。板。生徒会の中でそう言ってる。今日は機嫌いいっぽい」

それ、笑っていいやつだ、と彼女の胃が判断したらしい。

彼女は、ふっと笑った。声は出ない。でも笑った。

「……板、機嫌、いい」

「いいね。じゃ、今日の板は勝ち。ほら、用紙補充しとくね。胃仲間が増えるかもしれないし」

「増えたら……困ります」

「困るけど、笑える」

先輩はさらっと言って、束を整えた。HELPの束の角がぴしっと揃う。掲示板が、また少し駅らしくなる。

彼女は、そのまま教室へ向かった。

足音が、昨日より軽かった。

上履きのかかとも、踏んでいなかった。

その日の放課後、掲示板には新しい紙が一枚増えていた。

HELPでもTHANKSでもない。生徒会が用意した用紙じゃない。小さなメモ用紙。誰かが勝手に貼ったんだろう。

『板へ。

今日も機嫌よくいてくれてありがとう。』

署名はない。

その下に、小さく。

『追伸:胃に勝った。』

誰かが読んで吹いて、隣の子が「板ってなに」って聞いて、説明する声が少し大きくなって、笑いがもう一回起きた。

駅に、また電車が来たみたいに。

頑張る人ほど、追伸に救われる。

追伸は週1以上、基本は14時更新

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