17話 ひよりが来る
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 17話 ひよりが来る
本文
山門の石に、金具の小さい音がひとつ落ちた。
ち、と乾いた音だった。大きくはないのに、午後の静かな寺では妙に耳へ残る。高瀬ひなは竹ぼうきを止め、掃き寄せた杉葉の山の上から門のほうを見た。
門柱の脇に、桜庭ひよりが立っていた。
高校の鞄を肩にかけたまま、少し持ち直した拍子に、横につけた銀色の金具が石へ当たったらしい。制服のままのひよりは、校門の外で見る顔と変わらないのに、静縁寺の山門に立つと、それだけで、いつもと少し違って見えた。
「来た」
ひなが言うと、ひよりがうなずく。
「来た」
「何で」
「プリント」
短い返事と一緒に、クリアファイルを差し出してくる。透明の中に、学校の紙が数枚。今日の連絡と、ノートの写しが一枚、はさまっているのが見えた。
「数学のとこ。あと先生がこれもって」
「わざわざ?」
「帰り道」
ひよりはそれだけ言って、ファイルをひなの手へ渡した。プラスチックの表面が、外の空気でひんやりしている。
それで済むはずだった。
ひなが「ありがと」と言って受け取り、ひよりが「じゃあまた明日」と返して、山門のところで終わる。学校の友だちが来るなら、そのくらいの形がいちばん普通だ。
けれど、その普通へ先に気づいたのは、家のほうだった。
「ひなちゃん?」
勝手口のほうから、美琴の声が飛ぶ。
「はい」
「お客さん?」
その一言で、ひなは少し嫌な予感がした。ひよりも、門の内側へ目を向ける。台所のほうの湯気、縁側の影、庭の端の日なた。そこへ犬が、ひよりの匂いを確かめるみたいに山門のほうへ歩いてきた。
「あ」
ひよりが犬を見た。
「犬いる」
「いる」
「ほんとにいる」
「いるって言った」
ひなはなぜか少し早口になる。いるのは事実なのに、見つかると何となく落ち着かない。
美琴がそこへ出てきた。濡れた手を布巾で拭きながら、ひよりとひなの間の空気をひと目で取る。
「あら、こんにちは」
「こんにちは」
ひよりはすぐに頭を下げた。そういうところが、ひなよりずっと落ち着いている。
「ひなちゃんのお友だち?」
「はい。桜庭ひよりです」
自分で名乗るのも早かった。美琴はそこで、ぱっと笑う。
「どうも。いつもひなちゃんがお世話になってます」
「いや、そんな」
「プリントだけです」
ひなが言うと、美琴は「そうですか」とうなずいた。うなずいたのに、その顔はもう次の手を決めている。
「じゃあ、お茶くらい」
「え」
ひなの声だけが先に引っかかった。
「いや、いいです」
ひよりも一応言う。けれど、その言い方は本気で断る時の硬さではなかった。
「山門で立ち話も何ですし」
美琴が明るく言う。
「制服のままなら、喉も乾いてるでしょう」
「でも」
ひなが言う。
「プリント渡しに来ただけなんで」
「渡しに来てくれたんでしょう?」
「そうですけど」
「じゃあ、そこは座ったほうが早いです」
その返しがいちばん強い。正しさではなく、生活の順番にされると、ひなは弱い。
ひよりはそのやり取りを見て、かすかに笑った。
「じゃあ、少しだけ」
「ほら」
美琴が言う。
「ほら、じゃないです」
ひなはそう言いながら、もう門のところを開けていた。ひよりの鞄の金具が、また小さく鳴る。ち、と一度だけ。
台所では、追加の湯のみがひとつすぐに出た。
美琴はいつもの流れの速さで、やかんを見て、茶葉を足して、卓の端の空いた場所へ湯のみをひとつ置く。白でも灰色でもない、花屋でもらった湯のみの中の、藍の線が細く入ったものだった。
「きれいですね」
ひよりが言う。
「近所から広がったんです」
美琴は明るく返す。
「広がったんですか」
「ええ。出てきたものが、ちょっとずつ」
ひよりはそれ以上聞かず、茶の間の入口で靴下の足をそろえた。
ひなはその横で、何となく落ち着かない。学校の友だちが家へ来ること自体は別に変ではない。変ではないのに、この寺の茶の間へ入るのは、学校の延長みたいにはいかない気がした。
「何でそんな顔してるの」
ひよりが小さく言う。
「してない」
「してる」
「してないって」
短いやり取りのあいだに、湊が茶の間から顔を出した。
「だれ」
ひよりはすぐにそちらを見る。
「ひよりです」
「ひより」
「うん」
「ひなちゃんの」
「友だちです」
ひよりが答えると、湊はうなずいた。
「来た」
「来たね」
それで会話が済んでしまうのが、湊の早さだった。犬もその横へ来て、ひよりの足元を一度だけ嗅ぐ。ひよりはしゃがみこまない。ただ、鞄を膝の前へ寄せて、わずかに体を引く。その慎重さが、ひなには少しありがたかった。
「噛まないです」
「そうなんだ」
「でも今は、鼻が先」
「見れば分かる」
ひよりがそう返したので、ひなは一瞬だけ言葉に詰まった。自分がよく言う側なのに、返されると妙に照れる。
美琴が盆を持って入ってくる。湯のみが三つ。小皿がひとつ。小皿には、甘夏が二房だけのっていた。たったそれだけなのに、茶の間の座り方がひとつ増える。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ひよりが頭を下げる。鞄を卓の横へ置くと、銀色の金具が畳の縁に軽く触れて、ち、とまた鳴った。
入口の音と同じだった。
ひなはそこで、ふっと肩の力が抜けた。
「学校、どうでした」
美琴が湯のみを置きながら聞く。
「普通です」
ひよりが言う。
「ひながちょっとぼんやりしてました」
「余計なこと言わないで」
「ほんとだよ」
「今日は朝から笛が鳴ってたんで」
ひなが言うと、ひよりは「何それ」と笑った。説明しようとして、ひなはやめる。説明すると長くなる。長くなる前に、湊が横から入った。
「笛ある」
「あるの?」
ひよりが聞く。
「ある」
「今は吹かない」
ひなが先に言う。
「さすがに今は」
「何があったの」
「何でもない」
「何でもなくはない顔してる」
そのやり取りで、茶の間に小さく笑いが広がる。
文江が縁側のほうから一度だけ顔を見せた。ひよりを見る。湯のみを見る。ひなの顔を見る。そこで全部済ませたみたいに、短く言う。
「座れたねえ」
誰に向けた言葉か曖昧だった。ひよりか、ひなか、茶の間そのものか。
「はい」
ひよりが素直に返す。
文江はそれで満足したらしく、すぐに引いた。長く話に入らない。その短さが、かえって茶の間のほうを落ち着かせる。
甘夏をひとつ取ったひよりは、思ったより普通にそこへいた。犬を見て驚きすぎるでもなく、湊に構いすぎるでもなく、美琴に気を遣いすぎるでもない。ただ、来たぶんだけ座っている。
「何」
ひよりが気づいて聞く。
「いや」
「また変な顔してる」
「してないって」
「してるよ」
そこで美琴が笑った。
「ひなちゃん、今日はだいぶ巻き込まれてますね」
「最初からです」
「ひよりちゃん、また来てくださいね」
「え」
ひなが先に反応した。
「何で先に言うんですか」
「だって、来たでしょう」
「今日一回で十分でしょ」
「そうですか?」
美琴がひよりを見る。
ひよりは湯のみを持ったまま、少し考える顔をした。それから、ほんの少し笑う。
「来ても、たぶん普通ですね」
大げさに驚いたり、意味を持たせたりしない。ただ、来ても普通。犬がいて、湯のみが増えて、甘夏が二房ぶん減る。そのくらいの普通。
ひなはそこで、何も言い返せなかった。
茶の間の卓の下で、ひよりの鞄が畳へ寄っている。銀色の金具が畳の縁にかすかに触れ、体を動かすたびに、ち、と小さく鳴る。
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