19話 犬の寝床が広がる
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 19話 犬の寝床が広がる
本文
山門の内側に、平たい段ボールが立てかけてあった。
寺へ届いた荷の空きだろう。折り目だけ残してきれいに畳まれ、門柱の影へ寄せてある。志波湊はそれを見つけると、すぐ横にいた犬の背へ手を置いた。
毛の上はあたたかい。
けれど、犬が伸びをすると、前足が段ボールの端よりずっと先まで出た。
「せまい」
湊が言った。
犬は返事をしない。ただ、もう一度前足を伸ばし、石の上へ爪を二つ鳴らした。かつ、かつ、と軽い音だった。
湊はそこで決めた顔になる。段ボールの端を持ち上げ、門の内側へ引っぱった。ざざ、と石を擦る音が出る。犬もそのあとをついてくる。
「何してる」
声が飛んだのは、茶の間のほうからだった。志波智明が帳面を片手に持ったまま、縁側のところで止まっている。
「広げる」
湊が即答する。
「何を」
「いぬ」
段ボールはもう、山門の石から庭の土へ入っていた。引きずるたび、乾いた音が続く。ざざ、ざ、ざ、と来て、縁側の前でようやく止まる。
智明は犬を見た。次に段ボールを見た。最後に湊を見る。
「門のやつをそのまま持ってくるな」
「きれい」
「そういう話じゃない」
「でも、せまい」
湊はもう犬の今の寝床を指していた。縁側の外、茶の間のすぐそば。古い毛布と薄いタオルを重ねた場所だ。犬が丸くなるぶんには足りている。けれど伸びると、後ろ足も尻尾も半分ほど板の外へ出る。
智明はそこでいったん黙った。
たしかに、出ている。
夜のあいだは丸まっているから気にならない。朝になると伸びて、毛布の端がくしゃっと寄る。そのたびに、寝床というより「そこに犬がいる場所」みたいな見え方になる。
「広げる」
湊がもう一度言う。
短いが、今日はそれで足りるらしかった。
智明は帳面を縁側へ置き、段ボールを持ち上げた。指先にまだ外の冷えが少し残っている。縁側の板へは上げず、そのまま寝床の横へ仮に置いてみる。今の毛布の幅に、段ボール一枚ぶん足すだけで、場所の取り方がずいぶん変わった。
「……でかいな」
「ひろい」
「広いけど、そこまで行くと通り道が潰れる」
現実の返しだった。
茶の間の縁側から台所へ抜けるところは、毎日何度も人が通る。犬の寝床が広がるのはいいとして、そこで人の足が止まるのは違う。智明は段ボールを少し斜めにした。寝床の外側へ足すのではなく、縁側の柱に沿わせて置く。そうすると通り道は残るが、今度は犬の頭の位置が少しだけ家へ寄る。
「そこ」
湊が言う。
「近い」
「近いな」
智明も認めた。認めたが、戻すほどでもない。戻せば今度は通り道にかかる。残すなら、こちらの寄り方のほうがましだった。
犬はそのあいだ、寝床の前で待っていた。自分の場所の話をされているのは分かるらしく、段ボールの匂いを嗅ぎ、毛布の端を鼻先で押し、また一歩下がる。毛が縁側の影へ少しだけ入って、そこで光り方が変わる。
「何してるんです?」
台所から美琴が出てきた。手には濡れ布巾。段ボールと毛布と犬と、床へ置かれた帳面をひと目で見て、すぐに状況を取る。
「寝床、広げるらしい」
智明が言う。
「いいじゃないですか」
返事が早い。
「でも、そのままだと滑りますね」
「そこなんだよ」
美琴は濡れ布巾を流しの端へ置くと、台所の棚から古いバスタオルを一枚持ってきた。少し厚手で、端がくたびれているやつだ。
「下に段ボール、上にこれ、その上に毛布でどうです?」
「何でそんなにすぐ出るんだ」
「今あるもので回すほうが早いからです」
明るい返しだった。
段ボールの上へ古タオルを広げる。さらにその上へ毛布を戻す。タオルが間へ入るだけで、毛布のずれ方が少し落ち着いた。端も広がる。犬が寝返りを打っても、すぐにははみ出さなそうな広さになる。
「ほら」
美琴が言う。
「ほら、じゃない」
「でも、広くなりましたよ」
そこへ犬が前足を乗せた。段ボールの上から古タオル越しに、軽い足音がひとつする。と、と。前より音がやわらかい。もう片方の足も乗せ、ぐるりと半回りして、腹を下ろした。
まだ丸まらない。伸びる。前足を前へ、後ろ足を斜めへ。さっきまで毛布の外へ出ていたぶんまで、ちゃんと寝床の上へ残る。
湊の顔がすぐに明るくなる。
「おさまった」
「おさまったな」
智明もそう言った。言ってから、自分で少しだけ諦めた顔になる。広がった。しかも少し家に寄った。その両方が、もう目の前で収まってしまっている。
美琴はそこで水皿を持ってきた。いつもの金属のやつだ。
「これ、こっちへ寄せますね」
「何で」
「寝床が動いたなら、水も近いほうがいいでしょう」
水皿を寝床の横へ置く。からん、と小さく鳴る。前より縁側に近い。前より家の音に混ざる位置だ。
犬は顔だけ上げて、水皿を見る。けれどすぐには飲まず、広くなった寝床の上でもう一度だけ体をずらした。毛が古タオルの端へふれ、そこでふわりと収まる。
「……ここまでな」
智明が言った。
「これ以上は中に入れない」
「はいはい」
美琴が明るく受ける。
「でも、今はこれで十分ですね」
湊はもう犬の横へしゃがみこんでいた。手を伸ばし、背中の毛へ触れる。さっき山門で触った時と同じあたたかさなのに、寝床が広がったぶんだけ、少しだけ余裕があるように見えた。
「ひろい」
「広いな」
「まだ、うち」
湊が言う。
智明はそこで少しだけ詰まった。
「……外だ」
先にそう返す。
「でも、うちの外だ」
条件つきの言い方だった。湊はそれで十分らしく、素直にうなずいた。
夕方、台所から味噌の匂いが流れてきても、犬は新しい寝床からすぐには動かなかった。水皿だけ一度、舌で鳴らす。から、と小さく響いて、それからまた伏せる。
縁側のすぐ外に、広くなった寝床。
その横に水皿。
通り道は細く一本残っていて、人の足もまだちゃんと通る。
犬が寝返りをひとつ打つ。前足が段ボールの端へ触れ、やわらかくと、と鳴る。
通り道は、そのまま細く一本残っていた。
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