19話 犬の寝床が広がる

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/19 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,354文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 19話 犬の寝床が広がる

本文

山門の内側に、平たい段ボールが立てかけてあった。

 寺へ届いた荷の空きだろう。折り目だけ残してきれいに畳まれ、門柱の影へ寄せてある。志波湊はそれを見つけると、すぐ横にいた犬の背へ手を置いた。

 毛の上はあたたかい。

 けれど、犬が伸びをすると、前足が段ボールの端よりずっと先まで出た。

「せまい」

 湊が言った。

 犬は返事をしない。ただ、もう一度前足を伸ばし、石の上へ爪を二つ鳴らした。かつ、かつ、と軽い音だった。

 湊はそこで決めた顔になる。段ボールの端を持ち上げ、門の内側へ引っぱった。ざざ、と石を擦る音が出る。犬もそのあとをついてくる。

「何してる」

 声が飛んだのは、茶の間のほうからだった。志波智明が帳面を片手に持ったまま、縁側のところで止まっている。

「広げる」

 湊が即答する。

「何を」

「いぬ」

 段ボールはもう、山門の石から庭の土へ入っていた。引きずるたび、乾いた音が続く。ざざ、ざ、ざ、と来て、縁側の前でようやく止まる。

 智明は犬を見た。次に段ボールを見た。最後に湊を見る。

「門のやつをそのまま持ってくるな」

「きれい」

「そういう話じゃない」

「でも、せまい」

 湊はもう犬の今の寝床を指していた。縁側の外、茶の間のすぐそば。古い毛布と薄いタオルを重ねた場所だ。犬が丸くなるぶんには足りている。けれど伸びると、後ろ足も尻尾も半分ほど板の外へ出る。

 智明はそこでいったん黙った。

 たしかに、出ている。

 夜のあいだは丸まっているから気にならない。朝になると伸びて、毛布の端がくしゃっと寄る。そのたびに、寝床というより「そこに犬がいる場所」みたいな見え方になる。

「広げる」

 湊がもう一度言う。

 短いが、今日はそれで足りるらしかった。

 智明は帳面を縁側へ置き、段ボールを持ち上げた。指先にまだ外の冷えが少し残っている。縁側の板へは上げず、そのまま寝床の横へ仮に置いてみる。今の毛布の幅に、段ボール一枚ぶん足すだけで、場所の取り方がずいぶん変わった。

「……でかいな」

「ひろい」

「広いけど、そこまで行くと通り道が潰れる」

 現実の返しだった。

 茶の間の縁側から台所へ抜けるところは、毎日何度も人が通る。犬の寝床が広がるのはいいとして、そこで人の足が止まるのは違う。智明は段ボールを少し斜めにした。寝床の外側へ足すのではなく、縁側の柱に沿わせて置く。そうすると通り道は残るが、今度は犬の頭の位置が少しだけ家へ寄る。

「そこ」

 湊が言う。

「近い」

「近いな」

 智明も認めた。認めたが、戻すほどでもない。戻せば今度は通り道にかかる。残すなら、こちらの寄り方のほうがましだった。

 犬はそのあいだ、寝床の前で待っていた。自分の場所の話をされているのは分かるらしく、段ボールの匂いを嗅ぎ、毛布の端を鼻先で押し、また一歩下がる。毛が縁側の影へ少しだけ入って、そこで光り方が変わる。

「何してるんです?」

 台所から美琴が出てきた。手には濡れ布巾。段ボールと毛布と犬と、床へ置かれた帳面をひと目で見て、すぐに状況を取る。

「寝床、広げるらしい」

 智明が言う。

「いいじゃないですか」

 返事が早い。

「でも、そのままだと滑りますね」

「そこなんだよ」

 美琴は濡れ布巾を流しの端へ置くと、台所の棚から古いバスタオルを一枚持ってきた。少し厚手で、端がくたびれているやつだ。

「下に段ボール、上にこれ、その上に毛布でどうです?」

「何でそんなにすぐ出るんだ」

「今あるもので回すほうが早いからです」

 明るい返しだった。

 段ボールの上へ古タオルを広げる。さらにその上へ毛布を戻す。タオルが間へ入るだけで、毛布のずれ方が少し落ち着いた。端も広がる。犬が寝返りを打っても、すぐにははみ出さなそうな広さになる。

「ほら」

 美琴が言う。

「ほら、じゃない」

「でも、広くなりましたよ」

 そこへ犬が前足を乗せた。段ボールの上から古タオル越しに、軽い足音がひとつする。と、と。前より音がやわらかい。もう片方の足も乗せ、ぐるりと半回りして、腹を下ろした。

 まだ丸まらない。伸びる。前足を前へ、後ろ足を斜めへ。さっきまで毛布の外へ出ていたぶんまで、ちゃんと寝床の上へ残る。

 湊の顔がすぐに明るくなる。

「おさまった」

「おさまったな」

 智明もそう言った。言ってから、自分で少しだけ諦めた顔になる。広がった。しかも少し家に寄った。その両方が、もう目の前で収まってしまっている。

 美琴はそこで水皿を持ってきた。いつもの金属のやつだ。

「これ、こっちへ寄せますね」

「何で」

「寝床が動いたなら、水も近いほうがいいでしょう」

 水皿を寝床の横へ置く。からん、と小さく鳴る。前より縁側に近い。前より家の音に混ざる位置だ。

 犬は顔だけ上げて、水皿を見る。けれどすぐには飲まず、広くなった寝床の上でもう一度だけ体をずらした。毛が古タオルの端へふれ、そこでふわりと収まる。

「……ここまでな」

 智明が言った。

「これ以上は中に入れない」

「はいはい」

 美琴が明るく受ける。

「でも、今はこれで十分ですね」

 湊はもう犬の横へしゃがみこんでいた。手を伸ばし、背中の毛へ触れる。さっき山門で触った時と同じあたたかさなのに、寝床が広がったぶんだけ、少しだけ余裕があるように見えた。

「ひろい」

「広いな」

「まだ、うち」

 湊が言う。

 智明はそこで少しだけ詰まった。

「……外だ」

 先にそう返す。

「でも、うちの外だ」

 条件つきの言い方だった。湊はそれで十分らしく、素直にうなずいた。

 夕方、台所から味噌の匂いが流れてきても、犬は新しい寝床からすぐには動かなかった。水皿だけ一度、舌で鳴らす。から、と小さく響いて、それからまた伏せる。

 縁側のすぐ外に、広くなった寝床。

 その横に水皿。

 通り道は細く一本残っていて、人の足もまだちゃんと通る。

 犬が寝返りをひとつ打つ。前足が段ボールの端へ触れ、やわらかくと、と鳴る。

 通り道は、そのまま細く一本残っていた。

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