21話 水場の作法
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 21話 水場の作法
本文
水場の音が、少しだけ増えていた。
桶の縁に水が当たる音。
金属のボウルがたらいの中で軽く触れる音。
洗った湯のみを伏せる時の、ことりという小さい音。
縁側の端、台所へ寄ったところにあるその水場は、最近とくに忙しい。茶の間で使う湯のみが増え、物置から出た小皿が増え、犬の水皿まで混ざるようになった。高瀬ひなは流しで軽くすすいだ湯のみを持ったまま、その先の並びを見た。
桶。
たらい。
折った布巾。
伏せてある器。
置くものは同じなのに、文江が動いたあとの水場は、いつも少しだけ収まりがいい。
「ひなちゃん、それ、こっち」
文江が縁側の柱に背を預けたまま言う。
長くは言わない。指で示すのも、湯のみを伏せる板の端だけだ。
「はい」
ひなは湯のみをそこへ置いた。
置いたつもりだったが、口を上に向けたままだった。底が板に触れて、こ、と鳴る。濡れた縁から、細い水が一筋だけ落ちた。
文江は何も言わない。言わないまま、隣の湯のみをひとつ持ち上げ、くるりと返した。口を下にして、板の少し外寄りへ置き直す。
「伏せるよ」
向きだけ直す声だった。
「……はい」
ひなも慌てて自分のを返す。
口を下にすると、さっきより音がやわらかい。こと、と木へ収まるみたいに鳴る。水も板の外へ落ちて、縁側のほうへは来ない。
その時、美琴が台所から顔を出した。
「ひなちゃん、その布巾、そっち濡れますよ」
「え」
見ると、ひなが何となく置いた布巾の端が、ちょうど人の足が通る板のほうへ垂れていた。そこから落ちた水が、板の目に細く溜まっている。
「あ」
布巾を持ち上げようとして、ひなは一度だけ足を引っかけた。
つま先が桶の取っ手へ当たって、かん、と鳴る。体が少しだけ前へ流れ、慌てて柱へ手をつく。
「うわ」
倒れるほどではない。けれど、間抜けなつまずき方だった。
文江がそこでようやく立った。
桶を半歩だけ外へずらし、布巾をひなの手から取って、折り目を替えて置き直す。濡れた端は外、乾いた端は内。板の通り道へ垂れないように、きちんと四角くたたむ。
「濡れは外」
また短いひと言だけ。
ひなは柱へついた手を離し、少しだけ赤くなった。
「そういうの、あるんですね」
「あるねえ」
文江はそれ以上足さない。
何でそうなのか、いつからそうなのかも言わない。ただ、置き直した桶と布巾と伏せた湯のみが、そのひと言のぶんだけよく見える。
たしかに、そのほうがいい。
通り道が乾く。
器の水は外へ落ちる。
手を伸ばす順番も詰まらない。
理屈を長く言われなくても、目の前の並びだけでだいたい分かる形だった。
ひなは次の湯のみを洗った。
水の中から持ち上げると、白い肌が少し冷たい。布巾で拭かず、そのまま板へ持っていく。今度は迷って、いったん手が止まる。
「……こっちか」
口を下。
板の外寄り。
水の切れる向き。
こと。
さっき文江が置いたのと、よく似た音がした。
文江は見ていたのか見ていないのか分からない顔で、柱のところへ戻っていた。湯のみが一つ増えるたび、板の上に小さい白がきれいに並んでいく。
犬が縁側の外まで来て、水場のほうを見た。
新しい音がしても、もう驚かない顔だった。むしろ、洗われるものが増えたぶんだけ、ここが家の音になったのだと知っているみたいに、伏せて耳だけ動かす。
「犬のも洗います?」
ひなが聞くと、美琴が台所から金属の水皿を渡してきた。
「お願いします」
受け取ると、手に少しだけ重い。
湯のみより深くて、縁が丸い。犬の舌が当たるところだけ、いつも少し曇る。
ひなはその皿も水場で洗った。
洗って、板のほうへ持っていくところで、また少しだけ迷う。人の器と同じところへ置くのか、違うところなのか。
文江が横から皿を受け取る。
湯のみの並びから半歩だけ離れた外側、桶の向こうへ伏せる。金属の縁が板に当たって、こん、と乾いた音がした。
「こっち」
「別なんですね」
「混ざるけど、寄せすぎない」
それで十分だった。
説明らしい説明ではない。けれど、その皿の置かれた位置だけで十分だった。茶の湯のみの列と、犬の水皿。そのあいだに桶がひとつ入る。たしかに、寄せすぎない形だ。
午後の終わりまでに、水場の音は何度か鳴った。
湯のみがことり。
小皿がこ。
犬の皿がこん。
桶に水がとととと落ちて、布巾が絞られて、最後にまた静かになる。
ひながそこで何度つまずきそうになったかといえば、最初の一回きりだった。桶の取っ手はもう外へ寄せてあるし、布巾の濡れた端は外へ逃がしてある。伏せる器の向きも、二つ目からは手が先に動く。
日が少し傾いたころ、美琴が茶の間の湯のみを下げにきた。
「ひなちゃん、それもお願いしていいですか」
「はい」
受け取ったのは、白い湯のみが二つと、小さい器がひとつ。
さっきまで甘夏が入っていたらしい器の底に、薄い水気が残っていた。
ひなはそれを水場へ持っていく。
洗って、手の中で少しだけ重さを見て、もう止まらなかった。
湯のみは口を下にして板の外寄り。
小さい器はその手前、音が当たりすぎないところ。
布巾は乾いた端を内。
犬の皿はひとつ離して外側。
こと。
こ。
こん。
音の順まで、少し前よりきれいに並ぶ。
文江がいつの間にか横へ来ていて、その並びを一度だけ見た。
「そう」
ひと言だけだった。
ひなは何も言わずに、たらいの中の水を替えた。桶へ落ちる水の音が、さっきまでよりまっすぐ聞こえる。
最後にひなが犬の水皿を伏せた時、金属の縁が板へ軽く当たった。
こん。
少し前なら手が迷ったはずの場所へ、今はもう迷わず置ける。
水場はそのまま、夕方のほうへ戻っていった。
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