22話 夜にいない
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 22話 夜にいない
本文
台所の流しの横で、蓋つきの小鉢がちんと鳴った。
白い器の縁に、もう一つの器の底が軽く触れた音だった。夕方の台所では、そのくらいの硬さでも耳に残る。志波智明は茶の間の卓で紙を一枚畳む手を止め、そちらを見た。
志波恒一が、小鉢をひとつ手にして立っている。
中身は見えない。文江が昼のうちに炊いた菜っ葉か、煮びたしの残りか、そのへんだろうと思えるくらいの重さだった。恒一は蓋のつまみを指で押さえ、手ぬぐいをひょいと肩へかけ直す。
「ちょっと行ってくる」
言い方は軽かった。
「どこへ」
智明が聞くと、恒一はもう勝手口のほうへ足を向けていた。
「そのへんや」
「そのへんで済ませるな」
「済むやろ」
軽く返して、恒一は台所を抜ける。勝手口の戸が一度だけ重く鳴って、外の空気が細く入る。縁側の外にいた犬が顔を上げ、鼻先でその小鉢の匂いをひとつ追った。
文江は流しの前で、洗った布巾を絞っている。恒一の背中を見送りもせず、短く言う。
「こぼすなよ」
「こぼさんよ」
返事だけして、恒一はもう庭のほうへ出ていた。
それで終わるような、小さい出方だった。
茶の間へ戻ると、智明は紙をもう一度開いた。祭り前の控えがまだ卓の端に残っている。封筒は立ててあるし、端紙も小皿の横へ寄せてある。紙の散らかり方は前よりましだ。それでも、夕方のうちに見ておきたいものはまだいくつかある。
だから、その時は別に気にしなかった。
勝手口の音がして、誰かが出ていった。小鉢がひとつ減った。それだけだと思った。
日が落ちて、茶の間の灯りが板の上へやわらかく乗るころになっても、恒一は戻らなかった。
先に気づいたのは、犬だった。
縁側の外で伏せていたのが、二度ほど顔を上げて、庭の暗くなりかけたほうを見る。誰かの足音が来たわけでもないのに、耳だけがそちらを向く。
智明もそこで時計を見た。
「まだか」
口に出すと、台所で味噌汁をよそっていた美琴が振り向く。
「恒一さんですか」
「さっき、小鉢ひとつ持って出たきりだ」
「そうでしたっけ」
「勝手口で鳴ってただろ」
「鳴ってましたねえ」
美琴はそこで少しだけ考える顔をしたが、すぐに味噌椀を盆へ戻した。
「じゃあ、先に食べます?」
「先に食う」
智明は即答した。
返事が早いのは、自分でも分かっていた。待つかどうかで迷い始めるほうが面倒だからだ。待つなら待つ、食うなら食う。条件だけは先に決めておきたい。
茶の間へ盆が出る。
椀の底が卓へ触れて、こ、と鳴る。
小鉢が一つ、二つ、三つ。
湯のみが並び、箸が置かれる。
その並びの中に、恒一の分だけはまだ入っていなかった。
文江が茶の間へ入ってきて、卓の端を見る。何も言わない。そのまま食器棚を開け、湯のみを一つだけ出した。白でも灰色でもない、前に近所から広がってきた中の、厚手の湯のみだ。持つと少し重い、恒一がよく使うやつ。
それを卓へは置かず、茶箪笥の横へそっと寄せる。
「置くんですか」
智明が聞く。
「置くよ」
文江は短く答えた。
「帰ったら飲むだろ」
文江はそこまでしか言わなかった。
待つとも、心配とも、探すとも言わない。湯のみをひとつ出す。その手だけが先に動く。
夕飯はそのまま始まった。
湊は最初のうち、障子の向こうを何度か見た。
「まだ」
「まだだ」
智明が返す。
「どこ」
「そのへんらしい」
「そのへん」
湊は少しだけ考えて、それから味噌汁へ戻った。子どもの中でも、「そのへん」はだいたい曖昧だ。曖昧なまま、今はごはんの匂いのほうが強い。
美琴は明るく受けて、冷ややっこへ薬味をのせ、犬の水皿も一度替えた。生活の手はそのまま動いている。誰か一人がいないくらいで、鍋の火加減までは止まらない。
ただ、茶の間の端の厚手の湯のみだけが、そこへ座りそこねたみたいな顔をしていた。
食後、智明は縁側の戸を半分だけ開けた。
夜の空気が少し入る。板に手をつくと、昼のぬくみはもうなくて、乾いた冷たさだけが残っていた。犬がそこから庭を見ている。
「まだ帰らないな」
今度は独り言に近かった。
文江がその横へ来る。手には小さい盆。
さっきの厚手の湯のみと、急須ではなく、小さい保温ポットがのっている。ポットの表面はつるりとして、まだ少しだけあたたかい。
「そこ置くのか」
智明が言うと、文江はうなずいた。
「縁だよ」
言いながら、縁側の端へ盆を置く。
こと、と木へ当たる音がした。
湯のみの口はまだ空のまま。ポットだけがその横で小さく湯気を残している。
「冷めるだろ」
「冷めるねえ」
文江はそれ以上言わなかった。冷めるなら冷めるでいい、という顔でもなかったし、だから急いで飲ませる、という顔でもなかった。ただ、帰ってきた時にそこにある形を先に置いただけだった。
湊はもう舟をこぎ始めていて、美琴が「先に歯みがきですよ」と言って連れていく。流しのほうで水の音がする。
家の夜の手順は、そのまま続いている。
縁側の端の盆だけが、ひとつぶん空けたままだ。
智明はそこへ手を伸ばし、湯のみの向きを少しだけ直した。取っ手はない。厚手の縁が、指先へひやりと当たる。空の器の冷たさだ。
「親父、こういう時だけ遅いな」
文句というより、確認に近い声だった。
文江は庭を見たまま言う。
「夜にいないねえ」
短い。
それだけで足りる声だった。
犬が縁側の外で顔を上げる。
遠くで、誰かの戸の閉まる音がした。
それが恒一の足音ではないと分かると、また前足へ顎を戻す。
智明は最後にもう一度だけ、縁側の盆を見た。
厚手の湯のみ。
小さい保温ポット。
誰も座っていない場所。
帰ってくれば、そのまま手が伸びるように置かれていた。
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