22話 夜にいない

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/22 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,238文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 22話 夜にいない

本文

台所の流しの横で、蓋つきの小鉢がちんと鳴った。

 白い器の縁に、もう一つの器の底が軽く触れた音だった。夕方の台所では、そのくらいの硬さでも耳に残る。志波智明は茶の間の卓で紙を一枚畳む手を止め、そちらを見た。

 志波恒一が、小鉢をひとつ手にして立っている。

 中身は見えない。文江が昼のうちに炊いた菜っ葉か、煮びたしの残りか、そのへんだろうと思えるくらいの重さだった。恒一は蓋のつまみを指で押さえ、手ぬぐいをひょいと肩へかけ直す。

「ちょっと行ってくる」

 言い方は軽かった。

「どこへ」

 智明が聞くと、恒一はもう勝手口のほうへ足を向けていた。

「そのへんや」

「そのへんで済ませるな」

「済むやろ」

 軽く返して、恒一は台所を抜ける。勝手口の戸が一度だけ重く鳴って、外の空気が細く入る。縁側の外にいた犬が顔を上げ、鼻先でその小鉢の匂いをひとつ追った。

 文江は流しの前で、洗った布巾を絞っている。恒一の背中を見送りもせず、短く言う。

「こぼすなよ」

「こぼさんよ」

 返事だけして、恒一はもう庭のほうへ出ていた。

 それで終わるような、小さい出方だった。

 茶の間へ戻ると、智明は紙をもう一度開いた。祭り前の控えがまだ卓の端に残っている。封筒は立ててあるし、端紙も小皿の横へ寄せてある。紙の散らかり方は前よりましだ。それでも、夕方のうちに見ておきたいものはまだいくつかある。

 だから、その時は別に気にしなかった。

 勝手口の音がして、誰かが出ていった。小鉢がひとつ減った。それだけだと思った。

 日が落ちて、茶の間の灯りが板の上へやわらかく乗るころになっても、恒一は戻らなかった。

 先に気づいたのは、犬だった。

 縁側の外で伏せていたのが、二度ほど顔を上げて、庭の暗くなりかけたほうを見る。誰かの足音が来たわけでもないのに、耳だけがそちらを向く。

 智明もそこで時計を見た。

「まだか」

 口に出すと、台所で味噌汁をよそっていた美琴が振り向く。

「恒一さんですか」

「さっき、小鉢ひとつ持って出たきりだ」

「そうでしたっけ」

「勝手口で鳴ってただろ」

「鳴ってましたねえ」

 美琴はそこで少しだけ考える顔をしたが、すぐに味噌椀を盆へ戻した。

「じゃあ、先に食べます?」

「先に食う」

 智明は即答した。

 返事が早いのは、自分でも分かっていた。待つかどうかで迷い始めるほうが面倒だからだ。待つなら待つ、食うなら食う。条件だけは先に決めておきたい。

 茶の間へ盆が出る。

 椀の底が卓へ触れて、こ、と鳴る。

 小鉢が一つ、二つ、三つ。

 湯のみが並び、箸が置かれる。

 その並びの中に、恒一の分だけはまだ入っていなかった。

 文江が茶の間へ入ってきて、卓の端を見る。何も言わない。そのまま食器棚を開け、湯のみを一つだけ出した。白でも灰色でもない、前に近所から広がってきた中の、厚手の湯のみだ。持つと少し重い、恒一がよく使うやつ。

 それを卓へは置かず、茶箪笥の横へそっと寄せる。

「置くんですか」

 智明が聞く。

「置くよ」

 文江は短く答えた。

「帰ったら飲むだろ」

 文江はそこまでしか言わなかった。

 待つとも、心配とも、探すとも言わない。湯のみをひとつ出す。その手だけが先に動く。

 夕飯はそのまま始まった。

 湊は最初のうち、障子の向こうを何度か見た。

「まだ」

「まだだ」

 智明が返す。

「どこ」

「そのへんらしい」

「そのへん」

 湊は少しだけ考えて、それから味噌汁へ戻った。子どもの中でも、「そのへん」はだいたい曖昧だ。曖昧なまま、今はごはんの匂いのほうが強い。

 美琴は明るく受けて、冷ややっこへ薬味をのせ、犬の水皿も一度替えた。生活の手はそのまま動いている。誰か一人がいないくらいで、鍋の火加減までは止まらない。

 ただ、茶の間の端の厚手の湯のみだけが、そこへ座りそこねたみたいな顔をしていた。

 食後、智明は縁側の戸を半分だけ開けた。

 夜の空気が少し入る。板に手をつくと、昼のぬくみはもうなくて、乾いた冷たさだけが残っていた。犬がそこから庭を見ている。

「まだ帰らないな」

 今度は独り言に近かった。

 文江がその横へ来る。手には小さい盆。

 さっきの厚手の湯のみと、急須ではなく、小さい保温ポットがのっている。ポットの表面はつるりとして、まだ少しだけあたたかい。

「そこ置くのか」

 智明が言うと、文江はうなずいた。

「縁だよ」

 言いながら、縁側の端へ盆を置く。

 こと、と木へ当たる音がした。

 湯のみの口はまだ空のまま。ポットだけがその横で小さく湯気を残している。

「冷めるだろ」

「冷めるねえ」

 文江はそれ以上言わなかった。冷めるなら冷めるでいい、という顔でもなかったし、だから急いで飲ませる、という顔でもなかった。ただ、帰ってきた時にそこにある形を先に置いただけだった。

 湊はもう舟をこぎ始めていて、美琴が「先に歯みがきですよ」と言って連れていく。流しのほうで水の音がする。

 家の夜の手順は、そのまま続いている。

 縁側の端の盆だけが、ひとつぶん空けたままだ。

 智明はそこへ手を伸ばし、湯のみの向きを少しだけ直した。取っ手はない。厚手の縁が、指先へひやりと当たる。空の器の冷たさだ。

「親父、こういう時だけ遅いな」

 文句というより、確認に近い声だった。

 文江は庭を見たまま言う。

「夜にいないねえ」

 短い。

 それだけで足りる声だった。

 犬が縁側の外で顔を上げる。

 遠くで、誰かの戸の閉まる音がした。

 それが恒一の足音ではないと分かると、また前足へ顎を戻す。

 智明は最後にもう一度だけ、縁側の盆を見た。

 厚手の湯のみ。

 小さい保温ポット。

 誰も座っていない場所。

 帰ってくれば、そのまま手が伸びるように置かれていた。

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