30話 一本足りない
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 30話 一本足りない
本文
茶の間の棚で、瓶の底が木へこつと当たった。
昼すぎの静かな茶の間では、そのくらいの硬さでも棚のほうから浮いて聞こえる。志波恒一は棚の前にしゃがみ、並べてあった酒瓶を一本ずつ手に取っていた。
細いの。
太いの。
背の低いの。
紙の包みがまだ半分だけ巻いてあるの。
どれも置き方はまちまちなのに、棚へ寄せると何となく同じ顔になる。
恒一は右から順に指を出した。
「いち、に、さん、し、ご」
そこで止まる。
止まってから、もう一度だけ瓶を見る。
背の高さ。
間の空き。
ラベルの色。
一本、どこかが足りない気がした。
「……あれ」
出た声はそれだけで、棚の前に引っかかりが残った。
縁側のほうでは文江が洗った布巾を畳んでいる。茶の間の棚の前で恒一が止まったくらいでは、まだ顔も上げない。恒一は棚の上の瓶を少しずつ寄せてみた。寄せると、木目の見えるところが広がる。そこへもう一本ありそうな気もするし、最初からこうだった気もする。
もう一度、指を出す。
「いち、に、さん、し、ご」
やっぱり五本だ。
五本だから困るというわけでもない。
困るわけではないのに、どこかで六本あった顔をしている。
その引っかかりだけが、棚の前に残る。
「文江」
恒一が呼ぶと、文江がようやく顔を上げた。
「何」
「一本、足りん気がする」
文江は布巾を膝にのせたまま、棚のほうを見る。
酒瓶の並び。
恒一の出した指。
棚板の空いたところ。
それをひと目で見て、短く言う。
「数えたの」
「今な」
「そう」
文江はそこで止めた。
「いや、そうじゃなくて」
恒一は少しだけ笑う。
「五本なんや」
「五本だねえ」
「六本やなかったか」
文江はそこで少しだけ考える顔になった。長く思い出す感じではない。ただ、瓶の形を目でなぞるみたいに一度見てから言う。
「そういう顔はしてるねえ」
恒一はそこでまた指を出した。
「やろ」
「でも、五本だよ」
その返しがいちばん正しかった。
棚には五本しかない。
六本だった気がする、というのは、今のところ気のほうの話だ。
恒一は一本を持ち上げた。
栓のところに指をかける。まだ開いていない。
隣の瓶も同じ。
その隣も。
開いたものが一本混じっているなら、少しは話が早いのに、どれもきれいな顔をして並んでいる。
「どこやったかなあ」
「どこやったんだろうねえ」
文江はそう言ったが、声に追う感じはなかった。
追うより先に、茶の間の中の空気を見ている声だった。
そこへ台所のほうから、美琴の声がした。
「何か探してます?」
「酒が一本足りん」
恒一が返すと、台所の音が一拍だけ止まった。次に、美琴が顔を出す。手には濡れ布巾。茶の間の棚と恒一の指を見て、状況だけはすぐ取ったらしい。
「あら」
「六本やと思っとったんやけどな」
「今は五本です?」
「五本や」
美琴は棚の前まで来て、瓶を一本ずつ目で追った。
指では数えない。
並びを見て、間の空き方を見て、棚板の木の見え方を見る。
「……五本ですねえ」
「やろ」
「でも、六本の棚っぽいですね」
その言い方が、いちばんしっくりきた。
六本の棚っぽい。
そう、そういう顔なのだ。
瓶が五本あるのに、棚板のどこかが「あとひとつ」で収まる感じを残している。
恒一はそこで少しだけ嬉しそうな顔になった。
「やっぱりやろ」
「やっぱりって言われても、今は五本なんですけど」
「そこなんや」
そのあいだに、犬が縁側の外まで来ていた。棚のほうを見るわけでもなく、茶の間の声が少し集まったので顔を出しただけらしい。前足を板の手前で止め、耳だけこちらへ向けている。
湊も来る。
「なに」
「酒が一本足りん」
「さけ」
「見れば分かる」
「いっぽん」
湊は恒一の指を見た。
いち、に、さん、し、ご。
そこで止まった手を見て、棚を見る。
「ろく」
「そう」
恒一が言う。
「六の気がするやろ」
「ろく、ない」
「ないな」
その会話だけ聞くと、それで十分な気もした。
智明が茶の間へ入ってきたのは、その時だった。帳面を片手に持ったまま、棚の前の人数を見て、嫌そうな顔をする。
「何だその集まり方」
「酒が一本足りん」
恒一が言う。
「見れば分かる。何が足りない」
「酒や」
「それも見れば分かる」
智明は棚の前へ立った。
瓶。
空き。
恒一の指。
文江の顔。
美琴の濡れ布巾。
湊の上向いた顔。
そこまで一度で見て、棚へ目を戻す。
「……五本だな」
「やろ」
「だから何で集まってる」
「六本やった気がするんや」
智明はそこで少しだけ黙った。
否定するより先に、自分でも棚の顔を見たのだろう。
五本の並び。
でも六本の気配。
そういう時の面倒さを、この人も知っている顔だった。
「数え間違いじゃないのか」
「今、二回数えた」
「三回目やります?」
美琴が言う。
「やるか」
恒一が素直に答える。
もう一度、今度は智明が指を出した。
「いち、に、さん、し、ご」
やっぱり五本だった。
誰もそこで「ほら見ろ」とは言わなかった。
五本であることと、六本の気がすることは、別のまま並んでいる。
文江が立ち上がる。
棚の前まで来て、瓶を一本だけ少しずらした。
その音が、こつと木へ触れる。
次に、空いたところの木目を一度見て言う。
「探すほどでもないねえ」
それで、棚の前の話はもう決まりかけていた。
恒一はそこで笑う。
「そうやな」
智明はすぐに返す。
「そういう結論にするなら、最初から呼ぶな」
「気になったんや」
「気になるのは分かる」
そこまでは認めたらしい。
けれど、その先へは行かない。
台所もあるし、紙もあるし、夕方は来る。
一本足りないからといって、棚を全部ひっくり返して探すほどではない。
美琴はそこで布巾を持ち直した。
「じゃあ、その五本で今日は進めましょうか」
「今日はって何や」
「あるぶんで、です」
そう言って、棚の端の一本をひょいと持ち上げる。
瓶の底が棚板から離れて、木が少しだけ軽く鳴る。
こ。
「開けるのか」
智明が聞く。
「開けてもいい顔してますよ」
「瓶に顔はない」
「でも、あります」
明るく返しながら、美琴は台所へ持っていった。
棚に残るのは四本だった。
文江はそれを見て、また短く言う。
「今のが気になったんだねえ」
「五本の時だけな」
恒一がうなずく。
台所から、栓の音がした。
きゅ、と少しだけ固くて、次に軽く抜ける音。
茶の間の棚の前にいた全員が、その音でそちらを見る。
美琴が瓶を持って戻ってきた。
小さいお猪口を二つ、ついでに盆へのせている。
盆を卓へ置くと、瓶の底が板に軽く当たった。
「ほら」
「ほら、じゃない」
智明が言う。
「一本足りない話だっただろ」
「だから、探さず終わるんです」
その返しに、文江が少しだけうなずいた。
恒一はお猪口をひとつ取った。
美琴が注ぐ。
とくとくというほどではない。細く短く、酒が入る音だけがする。
文江が最後にもう一度だけ棚を見た。
四本の並び。
少しずれた木目。
空いたところへ夕方の光が細く入っている。
「まあ、いいよ」
棚の前へ置くには、それで足りる声だった。
探さないまま終わる日の顔が、棚のところへ残った。
夕方の茶の間には、酒の栓の軽い余韻だけが残った。