30話 一本足りない

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📅 公開日: 2026/7/30 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,793文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 30話 一本足りない

本文

茶の間の棚で、瓶の底が木へこつと当たった。

 昼すぎの静かな茶の間では、そのくらいの硬さでも棚のほうから浮いて聞こえる。志波恒一は棚の前にしゃがみ、並べてあった酒瓶を一本ずつ手に取っていた。

 細いの。

 太いの。

 背の低いの。

 紙の包みがまだ半分だけ巻いてあるの。

 どれも置き方はまちまちなのに、棚へ寄せると何となく同じ顔になる。

 恒一は右から順に指を出した。

「いち、に、さん、し、ご」

 そこで止まる。

 止まってから、もう一度だけ瓶を見る。

 背の高さ。

 間の空き。

 ラベルの色。

 一本、どこかが足りない気がした。

「……あれ」

 出た声はそれだけで、棚の前に引っかかりが残った。

 縁側のほうでは文江が洗った布巾を畳んでいる。茶の間の棚の前で恒一が止まったくらいでは、まだ顔も上げない。恒一は棚の上の瓶を少しずつ寄せてみた。寄せると、木目の見えるところが広がる。そこへもう一本ありそうな気もするし、最初からこうだった気もする。

 もう一度、指を出す。

「いち、に、さん、し、ご」

 やっぱり五本だ。

 五本だから困るというわけでもない。

 困るわけではないのに、どこかで六本あった顔をしている。

 その引っかかりだけが、棚の前に残る。

「文江」

 恒一が呼ぶと、文江がようやく顔を上げた。

「何」

「一本、足りん気がする」

 文江は布巾を膝にのせたまま、棚のほうを見る。

 酒瓶の並び。

 恒一の出した指。

 棚板の空いたところ。

 それをひと目で見て、短く言う。

「数えたの」

「今な」

「そう」

 文江はそこで止めた。

「いや、そうじゃなくて」

 恒一は少しだけ笑う。

「五本なんや」

「五本だねえ」

「六本やなかったか」

 文江はそこで少しだけ考える顔になった。長く思い出す感じではない。ただ、瓶の形を目でなぞるみたいに一度見てから言う。

「そういう顔はしてるねえ」

 恒一はそこでまた指を出した。

「やろ」

「でも、五本だよ」

 その返しがいちばん正しかった。

 棚には五本しかない。

 六本だった気がする、というのは、今のところ気のほうの話だ。

 恒一は一本を持ち上げた。

 栓のところに指をかける。まだ開いていない。

 隣の瓶も同じ。

 その隣も。

 開いたものが一本混じっているなら、少しは話が早いのに、どれもきれいな顔をして並んでいる。

「どこやったかなあ」

「どこやったんだろうねえ」

 文江はそう言ったが、声に追う感じはなかった。

 追うより先に、茶の間の中の空気を見ている声だった。

 そこへ台所のほうから、美琴の声がした。

「何か探してます?」

「酒が一本足りん」

 恒一が返すと、台所の音が一拍だけ止まった。次に、美琴が顔を出す。手には濡れ布巾。茶の間の棚と恒一の指を見て、状況だけはすぐ取ったらしい。

「あら」

「六本やと思っとったんやけどな」

「今は五本です?」

「五本や」

 美琴は棚の前まで来て、瓶を一本ずつ目で追った。

 指では数えない。

 並びを見て、間の空き方を見て、棚板の木の見え方を見る。

「……五本ですねえ」

「やろ」

「でも、六本の棚っぽいですね」

 その言い方が、いちばんしっくりきた。

 六本の棚っぽい。

 そう、そういう顔なのだ。

 瓶が五本あるのに、棚板のどこかが「あとひとつ」で収まる感じを残している。

 恒一はそこで少しだけ嬉しそうな顔になった。

「やっぱりやろ」

「やっぱりって言われても、今は五本なんですけど」

「そこなんや」

 そのあいだに、犬が縁側の外まで来ていた。棚のほうを見るわけでもなく、茶の間の声が少し集まったので顔を出しただけらしい。前足を板の手前で止め、耳だけこちらへ向けている。

 湊も来る。

「なに」

「酒が一本足りん」

「さけ」

「見れば分かる」

「いっぽん」

 湊は恒一の指を見た。

 いち、に、さん、し、ご。

 そこで止まった手を見て、棚を見る。

「ろく」

「そう」

 恒一が言う。

「六の気がするやろ」

「ろく、ない」

「ないな」

 その会話だけ聞くと、それで十分な気もした。

 智明が茶の間へ入ってきたのは、その時だった。帳面を片手に持ったまま、棚の前の人数を見て、嫌そうな顔をする。

「何だその集まり方」

「酒が一本足りん」

 恒一が言う。

「見れば分かる。何が足りない」

「酒や」

「それも見れば分かる」

 智明は棚の前へ立った。

 瓶。

 空き。

 恒一の指。

 文江の顔。

 美琴の濡れ布巾。

 湊の上向いた顔。

 そこまで一度で見て、棚へ目を戻す。

「……五本だな」

「やろ」

「だから何で集まってる」

「六本やった気がするんや」

 智明はそこで少しだけ黙った。

 否定するより先に、自分でも棚の顔を見たのだろう。

 五本の並び。

 でも六本の気配。

 そういう時の面倒さを、この人も知っている顔だった。

「数え間違いじゃないのか」

「今、二回数えた」

「三回目やります?」

 美琴が言う。

「やるか」

 恒一が素直に答える。

 もう一度、今度は智明が指を出した。

「いち、に、さん、し、ご」

 やっぱり五本だった。

 誰もそこで「ほら見ろ」とは言わなかった。

 五本であることと、六本の気がすることは、別のまま並んでいる。

 文江が立ち上がる。

 棚の前まで来て、瓶を一本だけ少しずらした。

 その音が、こつと木へ触れる。

 次に、空いたところの木目を一度見て言う。

「探すほどでもないねえ」

 それで、棚の前の話はもう決まりかけていた。

 恒一はそこで笑う。

「そうやな」

 智明はすぐに返す。

「そういう結論にするなら、最初から呼ぶな」

「気になったんや」

「気になるのは分かる」

 そこまでは認めたらしい。

 けれど、その先へは行かない。

 台所もあるし、紙もあるし、夕方は来る。

 一本足りないからといって、棚を全部ひっくり返して探すほどではない。

 美琴はそこで布巾を持ち直した。

「じゃあ、その五本で今日は進めましょうか」

「今日はって何や」

「あるぶんで、です」

 そう言って、棚の端の一本をひょいと持ち上げる。

 瓶の底が棚板から離れて、木が少しだけ軽く鳴る。

 こ。

「開けるのか」

 智明が聞く。

「開けてもいい顔してますよ」

「瓶に顔はない」

「でも、あります」

 明るく返しながら、美琴は台所へ持っていった。

 棚に残るのは四本だった。

 文江はそれを見て、また短く言う。

「今のが気になったんだねえ」

「五本の時だけな」

 恒一がうなずく。

 台所から、栓の音がした。

 きゅ、と少しだけ固くて、次に軽く抜ける音。

 茶の間の棚の前にいた全員が、その音でそちらを見る。

 美琴が瓶を持って戻ってきた。

 小さいお猪口を二つ、ついでに盆へのせている。

 盆を卓へ置くと、瓶の底が板に軽く当たった。

「ほら」

「ほら、じゃない」

 智明が言う。

「一本足りない話だっただろ」

「だから、探さず終わるんです」

 その返しに、文江が少しだけうなずいた。

 恒一はお猪口をひとつ取った。

 美琴が注ぐ。

 とくとくというほどではない。細く短く、酒が入る音だけがする。

 文江が最後にもう一度だけ棚を見た。

 四本の並び。

 少しずれた木目。

 空いたところへ夕方の光が細く入っている。

「まあ、いいよ」

 棚の前へ置くには、それで足りる声だった。

 探さないまま終わる日の顔が、棚のところへ残った。

 夕方の茶の間には、酒の栓の軽い余韻だけが残った。

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