31話 風が片寄る
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 31話 風が片寄る
本文
のれんの端だけが、先に持ち上がった。
山門の内側に掛けた布が、右の端だけふわりと浮いて、すぐに落ちる。左は何もなかったみたいに垂れたままだ。高瀬ひなは門柱の脇で竹ぼうきを止め、もう一度だけ布を見た。
次は、左が少しだけ揺れた。
けれど今度は右が動かない。
「何ですかね、今日」
誰に言うでもなく口にすると、車庫のほうから志波恒一が来た。手ぬぐいを首にかけたまま、のれんをひと目見て、それから山門の外を見た。
「風やな」
「そうなんですけど」
「分かっとるなら早い」
軽い返しだった。
それで終わるには、のれんの揺れ方だけが少し変だった。
門の外の木は、葉の裏を一斉に見せるほどには揺れていない。砂利も舞わない。強い風の日の騒がしさはないのに、のれんだけが思い出したように片側から持ち上がる。
ひなは布の端を手で押さえた。指先へ、風の当たる感じはほとんどない。ないのに、離すとまた、右だけがふっとめくれた。
「偏ってるなあ」
思わずそう言うと、恒一は少しだけ笑った。
「そういう日もある」
「雑だなあ」
「細かく言うほどでもないやろ」
その時、縁側のほうで風鈴が鳴った。
ちり、と一度。
夏の高い音みたいに長くは続かず、金具の先だけが軽く当たったみたいな短い音だった。ひなと恒一がそっちを見る。縁側の先の風鈴は、今はもうほとんど季節外れみたいな顔で下がっている。揺れていたのは下の紙だけで、鈴の本体はほとんど動いていない。
「鳴った」
ひなが言う。
「鳴ったな」
恒一はそれだけ受けて、もう山門の中へ戻りかけていた。
気にしないというより、気にしてもそこまで広げない歩き方だった。
茶の間では、卓の端に置いた紙が一枚、畳のほうへずれていた。祭り前の控えの残りで、もう使い終えた白い紙だ。志波文江が湯のみを置こうとして、その紙の端を指で押さえる。
「飛ぶよ」
見れば足りる注意だった。
ひなはそこでようやく茶の間へ入った。障子は半分開いている。いつもの昼と同じくらいだ。そこから入る風なら、卓の手前の紙が先に動きそうなのに、ずれているのは奥の一枚だけだった。
「ここまで来るんだ」
「来るねえ」
文江は湯のみの横へ小皿を置きながら言う。
こ、と小さい音がして、その横で紙の端だけがまた少しめくれた。
ひなは紙を重ねて、湯のみの下へ半分だけ差しこんだ。
それなら動かない。
動かないはずなのに、次は隣の端紙が一枚だけ、卓の木目を滑るように寄った。
「うわ」
大げさに飛ぶわけではない。
ふわっと浮くのでもない。
ただ、気づくと半寸ぶんくらい場所を変えている。
文江がその紙を見た。
「軽いねえ」
言い方は穏やかだった。
軽いから動く。
それだけでも、たしかに間違いではない。
ひなはそこでそれ以上言えなくなった。
変だとは思う。
でも、変だと言い切るほど派手ではない。
戸が鳴り、紙が寄り、のれんの端だけがめくれる。全部そのくらいのことばかりだ。
縁側の戸が、そこでひとつ鳴った。
かた。
開くほどではない。閉まるほどでもない。右の戸だけが指先で押されたみたいに少し揺れて、すぐ止まる。左は動かない。
ひながそちらを見ると、犬は寝床で顔だけ上げていた。風に驚いた顔ではない。音のほうを見ているだけだ。毛の先は揺れていない。
「……片側だけなんですよね」
今度は少しだけ小さい声で言う。
文江は答えなかった。
答えないまま、卓の端の紙を二枚重ね、上に湯のみを一つ置いた。
こ。
その音で紙の動きは止まる。
それから、縁側へ行って戸の桟に手をあてた。
右の戸だけを、ほんの少し内へ寄せる。
隙間が指一本ぶんだけ狭くなる。
「それでいいよ」
短い。
何がいいのかは言わない。
でも戸の鳴りは、そこで少しだけおさまった。
台所から、美琴の声が飛ぶ。
「ひなちゃん、のれん大丈夫です?」
「片側だけ変です」
「じゃあ、洗濯ばさみ一個つけときましょうか」
その返しも、生活側だった。
ひなは門のほうへ戻り、文江が渡してきた木の洗濯ばさみをのれんの端へ挟んだ。右だけ浮くなら、右だけ少し重くする。理屈はそれだけだ。
挟むと、布はたしかに落ち着いた。
左は相変わらずそのままで、右だけが一つ重くなった顔をする。
恒一がその様子を見て言う。
「よう出来たな」
「対症療法です」
「それで回るならええやろ」
軽い。
けれど、それでよかった。
何かを言い当てるより、まず回す。
午後のあいだ、風はずっと強いわけではなかった。
静かな時間もある。
犬が寝返りを打って、湊が小さい器を棚へ戻し、台所で包丁の音が一定に続く。
その合間に、ふと紙だけが寄る。
風鈴が一度だけ短く鳴る。
戸の右側が、思い出したみたいにかた、と言う。
ひなは何度か、そのたびに顔を上げた。
上げるたび、もう止まっている。
誰かに「今の」と言うには少し遅く、言わなくても生活は続く。
文江は二度ほど縁側を見ただけだった。
一度は戸。
一度は風鈴の紙。
それ以上は見ない。
見ないまま、湯のみを下げ、布巾を裏返し、犬の水皿を少しだけ寄せる。
夕方になると、山門ののれんはもうほとんど揺れなくなっていた。洗濯ばさみをつけた右だけが、重さを思い出したみたいにまっすぐ落ちている。
ひなはそれを見て、少しだけ肩を抜いた。
「おさまりましたね」
恒一は門の外を見たままうなずく。
「そうやな」
「何だったんですかね」
「風やろ」
「またそれですか」
「今も分からんしな」
それで話は終わった。
日が少し落ちて、家の音が夕方の顔へ変わる。
台所から味噌の匂いが来て、犬が寝床で鼻を鳴らし、湊がどこかで短い声を上げる。
その中で、風鈴が最後にもう一度だけ鳴った。
ちり。
今度は誰も顔を上げなかった。
ただ、ひなだけが箸を並べる手を少しだけ止めて、縁側のほうを見た。
紙は動いていない。
戸も鳴っていない。
風鈴の下の紙だけが、夕方の薄い風とも違う速さで一度だけ揺れて、すぐ戻った。