31話 風が片寄る

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/31 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,341文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 31話 風が片寄る

本文

のれんの端だけが、先に持ち上がった。

 山門の内側に掛けた布が、右の端だけふわりと浮いて、すぐに落ちる。左は何もなかったみたいに垂れたままだ。高瀬ひなは門柱の脇で竹ぼうきを止め、もう一度だけ布を見た。

 次は、左が少しだけ揺れた。

 けれど今度は右が動かない。

「何ですかね、今日」

 誰に言うでもなく口にすると、車庫のほうから志波恒一が来た。手ぬぐいを首にかけたまま、のれんをひと目見て、それから山門の外を見た。

「風やな」

「そうなんですけど」

「分かっとるなら早い」

 軽い返しだった。

 それで終わるには、のれんの揺れ方だけが少し変だった。

 門の外の木は、葉の裏を一斉に見せるほどには揺れていない。砂利も舞わない。強い風の日の騒がしさはないのに、のれんだけが思い出したように片側から持ち上がる。

 ひなは布の端を手で押さえた。指先へ、風の当たる感じはほとんどない。ないのに、離すとまた、右だけがふっとめくれた。

「偏ってるなあ」

 思わずそう言うと、恒一は少しだけ笑った。

「そういう日もある」

「雑だなあ」

「細かく言うほどでもないやろ」

 その時、縁側のほうで風鈴が鳴った。

 ちり、と一度。

 夏の高い音みたいに長くは続かず、金具の先だけが軽く当たったみたいな短い音だった。ひなと恒一がそっちを見る。縁側の先の風鈴は、今はもうほとんど季節外れみたいな顔で下がっている。揺れていたのは下の紙だけで、鈴の本体はほとんど動いていない。

「鳴った」

 ひなが言う。

「鳴ったな」

 恒一はそれだけ受けて、もう山門の中へ戻りかけていた。

 気にしないというより、気にしてもそこまで広げない歩き方だった。

 茶の間では、卓の端に置いた紙が一枚、畳のほうへずれていた。祭り前の控えの残りで、もう使い終えた白い紙だ。志波文江が湯のみを置こうとして、その紙の端を指で押さえる。

「飛ぶよ」

 見れば足りる注意だった。

 ひなはそこでようやく茶の間へ入った。障子は半分開いている。いつもの昼と同じくらいだ。そこから入る風なら、卓の手前の紙が先に動きそうなのに、ずれているのは奥の一枚だけだった。

「ここまで来るんだ」

「来るねえ」

 文江は湯のみの横へ小皿を置きながら言う。

 こ、と小さい音がして、その横で紙の端だけがまた少しめくれた。

 ひなは紙を重ねて、湯のみの下へ半分だけ差しこんだ。

 それなら動かない。

 動かないはずなのに、次は隣の端紙が一枚だけ、卓の木目を滑るように寄った。

「うわ」

 大げさに飛ぶわけではない。

 ふわっと浮くのでもない。

 ただ、気づくと半寸ぶんくらい場所を変えている。

 文江がその紙を見た。

「軽いねえ」

 言い方は穏やかだった。

 軽いから動く。

 それだけでも、たしかに間違いではない。

 ひなはそこでそれ以上言えなくなった。

 変だとは思う。

 でも、変だと言い切るほど派手ではない。

 戸が鳴り、紙が寄り、のれんの端だけがめくれる。全部そのくらいのことばかりだ。

 縁側の戸が、そこでひとつ鳴った。

 かた。

 開くほどではない。閉まるほどでもない。右の戸だけが指先で押されたみたいに少し揺れて、すぐ止まる。左は動かない。

 ひながそちらを見ると、犬は寝床で顔だけ上げていた。風に驚いた顔ではない。音のほうを見ているだけだ。毛の先は揺れていない。

「……片側だけなんですよね」

 今度は少しだけ小さい声で言う。

 文江は答えなかった。

 答えないまま、卓の端の紙を二枚重ね、上に湯のみを一つ置いた。

 こ。

 その音で紙の動きは止まる。

 それから、縁側へ行って戸の桟に手をあてた。

 右の戸だけを、ほんの少し内へ寄せる。

 隙間が指一本ぶんだけ狭くなる。

「それでいいよ」

 短い。

 何がいいのかは言わない。

 でも戸の鳴りは、そこで少しだけおさまった。

 台所から、美琴の声が飛ぶ。

「ひなちゃん、のれん大丈夫です?」

「片側だけ変です」

「じゃあ、洗濯ばさみ一個つけときましょうか」

 その返しも、生活側だった。

 ひなは門のほうへ戻り、文江が渡してきた木の洗濯ばさみをのれんの端へ挟んだ。右だけ浮くなら、右だけ少し重くする。理屈はそれだけだ。

 挟むと、布はたしかに落ち着いた。

 左は相変わらずそのままで、右だけが一つ重くなった顔をする。

 恒一がその様子を見て言う。

「よう出来たな」

「対症療法です」

「それで回るならええやろ」

 軽い。

 けれど、それでよかった。

 何かを言い当てるより、まず回す。

 午後のあいだ、風はずっと強いわけではなかった。

 静かな時間もある。

 犬が寝返りを打って、湊が小さい器を棚へ戻し、台所で包丁の音が一定に続く。

 その合間に、ふと紙だけが寄る。

 風鈴が一度だけ短く鳴る。

 戸の右側が、思い出したみたいにかた、と言う。

 ひなは何度か、そのたびに顔を上げた。

 上げるたび、もう止まっている。

 誰かに「今の」と言うには少し遅く、言わなくても生活は続く。

 文江は二度ほど縁側を見ただけだった。

 一度は戸。

 一度は風鈴の紙。

 それ以上は見ない。

 見ないまま、湯のみを下げ、布巾を裏返し、犬の水皿を少しだけ寄せる。

 夕方になると、山門ののれんはもうほとんど揺れなくなっていた。洗濯ばさみをつけた右だけが、重さを思い出したみたいにまっすぐ落ちている。

 ひなはそれを見て、少しだけ肩を抜いた。

「おさまりましたね」

 恒一は門の外を見たままうなずく。

「そうやな」

「何だったんですかね」

「風やろ」

「またそれですか」

「今も分からんしな」

 それで話は終わった。

 日が少し落ちて、家の音が夕方の顔へ変わる。

 台所から味噌の匂いが来て、犬が寝床で鼻を鳴らし、湊がどこかで短い声を上げる。

 その中で、風鈴が最後にもう一度だけ鳴った。

 ちり。

 今度は誰も顔を上げなかった。

 ただ、ひなだけが箸を並べる手を少しだけ止めて、縁側のほうを見た。

 紙は動いていない。

 戸も鳴っていない。

 風鈴の下の紙だけが、夕方の薄い風とも違う速さで一度だけ揺れて、すぐ戻った。

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