32話 佐和さんの手土産
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 32話 佐和さんの手土産
本文
台所の流しの横の空きが、もう半分しかなかった。
水切り籠。洗った湯のみ。小皿を伏せた板。犬の水皿を一度置いた跡まで残っていて、今から何かを受けるには少し心細い。志波美琴はその空きを見て、濡れた手を布巾で拭いた。
そこで山門のほうから、包み紙のこすれる音がした。
しゃり。
次に、紙袋の底が石へ当たる軽い音。
「あら」
美琴はそれだけ言って、勝手口から顔を出した。
山門のところに、佐和が立っていた。両手に紙袋を一つずつ持っている。片方は茶色い手提げ、もう片方は白い包み紙を重ねた平たい袋で、腕の内側に小さな風呂敷包みまで引っかけていた。
「こんにちは」
佐和が少しだけ笑う。
「増えました」
第一声がそれだった。
美琴はその時点でだいたい察した。
「あらまあ」
「最初はこれだけだったんですけど」
佐和が茶色の紙袋を少し持ち上げる。
「お店出る時に会った人が、じゃあこれもって」
白い包み紙のほうを見せる。
「その次に、向かいでまた一つ」
最後に風呂敷包みを軽く揺らした。中で器らしいものが小さく当たって、こと、と鳴る。
美琴はそこで一度だけ笑って、それから台所の空きを思い出した。
「ちょっと待ってくださいね」
山門まで出る。受け取る前に、持ち方だけ先に見る。茶色の紙袋は重そうで、白い包みは軽い。風呂敷はたぶん器ごと来ている。三つとも少しずつ重さが違う。
「重かったでしょう」
「思ったより」
「でしょうねえ」
言いながら、美琴はまず白い包みを受けた。軽い。焼き菓子かな、とすぐ分かる軽さだ。次に風呂敷。これはやっぱり器ごとで、持つと中心が少し冷たい。最後に茶色の紙袋。底に丸いものが二つ触れ合って、こつ、と鳴った。
そこで美琴の足が一瞬だけ止まる。
台所の空きが足りない。
その止まり方を、縁側から見ていた文江が、先に立った。
「台所、狭いねえ」
ひと言で済んだ。
「そうなんですよ」
美琴が答えると、文江はもう流しの横へ行っていた。伏せてあった小皿を一つずつ持ち上げ、板の外寄りへずらす。空の盆を一枚引き寄せ、茶の間へ通すものと台所へ残すものの置き場を先に作る。
「それ、こっち」
文江が指したのは、流しの前ではなく、茶の間寄りの小さい卓だった。
美琴はそこでようやく動けた。白い包みは卓へ。風呂敷は流しの横。茶色の紙袋は台所の土間寄りへいったん置く。順番だけ決まると、包みの顔つきまで少し変わる。
佐和が勝手口のところで少しだけ肩を抜いた。
「何か、すみません」
「いえいえ」
美琴は明るく返す。
「こういうの、重なった時のほうが家が出ますから」
「家が出る」
「ええ。誰が何を先に持つか、みたいな」
そこで文江が風呂敷の結び目をほどいた。
ほどく手が速い。
中から出てきたのは、白い小鉢が二つ。中身はきんぴらと煮豆だった。どちらももう食べられる形で、器のふちにはまだ少しだけ出汁の匂いが残っている。
「器だねえ」
文江が言う。
「そうなんです。返さなきゃと思って」
佐和が答えると、文江はうなずくだけで、小鉢を一つ茶の間用の盆へ、もう一つを流しの横へ分けた。
美琴はその動きを見て、茶色の紙袋を開けた。中には瓶が二つ。ひとつは浅漬け、もうひとつは甘夏のマーマレードらしい。瓶の肩が紙袋の中で触れていたらしく、出すとまたこつ、と鳴る。
「瓶ですねえ」
「八百屋さんと、その隣です」
佐和はもう説明係に徹しない。どこから来たかだけを置いて、誰の事情かまでは膨らませない。窓口の顔のままだ。
白い包みは焼き菓子だった。個包装の小さいものが五つ。軽いと思ったぶんだけ、その場で開ける顔をしている。
美琴はそこでほんの一瞬だけ止まった。
焼き菓子は今出せる。
きんぴらは小皿がいる。
煮豆は今夜へ回せる。
瓶は開けない。
器は返る。
その止まり方の横で、文江はもう小鉢の中身を見ていた。
「きんぴら、今」
短く言う。
「煮豆、夜」
「はい」
美琴はすぐ受けた。
「焼き菓子は、今でいいですね」
「いいねえ」
文江はそう言って、茶の間の棚から小さい器を一つだけ出した。前に美月が返しに来た白地に青の線の入った小皿だ。そこへ焼き菓子を二つだけのせる。全部は出さない。全部出すと、今度は茶の間で渋滞する。
佐和はその速さを見て、少しだけ笑った。
「止まるの、一瞬ですね」
「止まりますよ」
美琴が明るく返す。
「でも、そのあと早いのが文江さんなんです」
文江は何も言わず、空いた風呂敷をきれいに畳んでいた。器を返すための布は、また器を包める顔に戻しておく。その手の動きまで先にある。
茶の間では、湊がもう小皿の焼き菓子を見ていた。
「ふえた」
「増えました」
ひなが横から言う。
「何で」
「佐和さんの手土産」
そこで湊は山門のほうを見る。
佐和を見る。
台所を見る。
増えたものの中身より、増えた流れのほうを見ている顔だった。
犬は縁側の外で、きんぴらの匂いに一度だけ鼻を上げたが、すぐに水皿へ戻った。水皿がからんと鳴る。その音が、台所の包み紙のしゃりしゃりした音と混ざる。
美琴は焼き菓子をのせた小皿を茶の間へ出し、煮豆の小鉢を台所の隅へ寄せ、瓶を流しの下の冷たいところへ一度下ろした。どれも大した動きではない。けれど、順番が決まるたびに台所の空きが少し戻る。
「ほら」
美琴が言う。
「入りました」
「入りましたねえ」
佐和が素直に笑う。
「最初、あの空きでどうするんだろうって思いました」
「私も思いました」
「思ったんですか」
「思いますよ」
そこだけは正直だった。
文江がそこで、空になった白い包み紙を二つに折った。
紙の角が揃って、しゃり、と乾いた音がする。
それを流しの横の籠へ入れる。
包みまで、散らからない置き方へ変わる。
「でも、止めないんですね」
佐和が言う。
「止めませんよ」
美琴はきっぱりと言った。
「先に分けます」
佐和はその言い方でようやく本当に肩が下りたみたいだった。
「じゃあ、次からも重なったら持ってきていいですか」
「重ならないほうが楽ですけど」
ひなが横から言う。
みんなが少しだけ笑った。
笑ってから、美琴が受ける。
「重なったら、その時はまた分けます」
見送ったあと、美琴は台所へ戻り、流しの横の小鉢をもう一度見た。きんぴらの匂いはまだ薄く残っている。返す前に洗う器の顔と、今夜分の煮豆の顔は、もうちゃんと別になっていた。
文江が空いた小皿を持ち上げて、流しの横へ返す。
こ、と小さい音がする。
その横で、瓶の肩が紙袋の中でまた一度だけ触れた。
こつ。
今夜分と返す分は、そこでちゃんと分かれていた。