33話 湊の忘れ物
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 33話 湊の忘れ物
本文
山門のところで、布の袋の中身がかちりと鳴った。
軽いのに、妙にはっきりした音だった。高瀬ひなは竹ぼうきを止め、門柱の影へ顔を向けた。そこに立っていたのは朝倉だった。学校帰りではなく、先生の顔のほうの朝倉で、手には小さい給食袋みたいな布の巾着を持っている。
「こんにちは」
朝倉が言う。
「こんにちは」
ひなが返すより先に、茶の間のほうから智明が出てきた。山門のところに先生の顔がある時点で、背筋が少し伸びる。
「どうしました」
朝倉は巾着を少し持ち上げた。
その拍子に、中の箸箱がもう一度、かち、と鳴る。
「湊くんの忘れ物です」
言い方はやわらかかった。責めるでもなく、隠すでもなく、ただそこにある事実だけ置く声だった。
湊はその音で、すぐに分かったらしい。智明の後ろから顔を出して、巾着を見る。
「あ」
短い声だった。
「それ、おれの」
「そうですね」
朝倉がかすかに笑う。
「机の横にかかったままでした。明日でもよかったんですが、ちょうどこの近くだったので」
智明が受け取る。巾着は手のひらへ軽くて、中の箸箱だけが少し硬い。布はくたっとしていて、昼の手の跡がそのまま残っているみたいだった。
「すみません」
「いえ」
朝倉はそこで終わらせる顔をした。
学校側の窓口として来て、置いて、引く。
それ以上は広げない。
湊は巾着を見上げたまま言う。
「わすれた」
「見れば分かる」
智明が返す。
「何で忘れるかな」
「かかってた」
「だから忘れたんだろ」
そこで朝倉がわずかに肩をゆるめた。先生の前で怒鳴るほどでもなく、でも家の中ではちゃんと現実の言い方になる。そのくらいの受け方だった。
「じゃあ、私はこれで」
「ありがとうございます」
朝倉はうなずいて、山門の外へ戻っていく。鞄の角が石へ一度だけ触れて、かすかな音がした。犬はその背中を少し見送ったが、吠えはしなかった。
台所へ回ると、智明は巾着を流しの横へ置いた。
布が木へ触れて、くたりと沈む。
小さいのに、そこだけ学校の気配が混ざったみたいだった。
「何が入ってるんです?」
美琴が聞く。
「給食袋だろ」
智明は紐をほどいた。中から出てきたのは、箸箱と、小さいランチョンマットと、手拭きタオルだった。タオルだけが少し湿っている。乾ききっていない、学校の水場の匂いが少しした。
「あら」
美琴が言う。
「これ、そのままはだめですね」
「だろうな」
智明はタオルを二本の指で持ち上げた。冷たくはないが、畳んだまま置いておくにはまだ少し湿っている。ランチョンマットも端がくしゃっと寄っていて、箸箱のふたには細い水の跡が残っていた。
「だから、忘れるなって」
智明が言うと、湊は流しの前に立ったまま、タオルを見ていた。
「ぬれた」
「濡れたまま置いてきたんだろ」
「うん」
「うん、じゃない」
そこで美琴がすぐに手を出した。
「はい、じゃあ分けます」
返事が早い。
箸箱はこっち。
タオルは広げる。
ランチョンマットはしわを伸ばす。
巾着はあと。
それぞれの置き場が決まると、忘れ物の顔が少し変わる。ただの「忘れたもの」から、家の中で処理する順番に変わる。
「ひなちゃん、その洗濯ばさみ一つ取ってもらえます?」
「はい」
ひながすぐ戸棚の横から木の洗濯ばさみを取る。
美琴は手拭きタオルを広げて、台所の風の通るところへ留めた。
ぱちん、と軽い音がして、湿った布がようやく一枚の形になる。
「これで乾きます」
「早いなあ」
ひなが言う。
「濡れたまま戻すほうが面倒でしょう」
もっともだった。
智明はランチョンマットの端を引いて、しわを伸ばした。布の手触りがまだ少しざらついている。学校の机の木目が移ったみたいな硬さだった。
「これも明日持ってくんだぞ」
「うん」
「箸も」
「うん」
「巾着も」
「うん」
返事だけは早い。
早いが、そのままだとまた忘れそうな早さでもある。
文江がそのあたりで来た。流しの横の巾着、広げたタオル、伸ばされたマット、智明の手にある箸箱をひと目で見て、短く言う。
「ばらけたねえ」
「忘れ物ですから」
智明が答えると、文江はうなずいた。
「なら、戻す場所が要るよ」
文江はそこで言葉を足さなかった。
茶の間では、卓の端が少し空けられた。祭り前の紙束が今は片づいていて、そこへ小さい盆が一枚置ける。美琴は盆を出し、乾いた箸箱を先にのせた。プラスチックのふたが木へ触れて、かち、と鳴る。
その音で、湊が振り向く。
「そこ」
「そこです」
美琴が言う。
「明日の、忘れないところ」
それは棚ではなく、茶の間の卓の端だった。夜のうちに何度も目へ入る場所。朝、座ったままでも見える場所。通り道ではないけれど、しまいすぎてもいない場所。
智明はその置き方を見て、肩の力を少し抜いた。
「……それなら、まあ」
「まあ、ですね」
ひなが笑う。
「救われました?」
「何がだ」
「明日の朝に『ない』ってなるやつです」
智明は返事をしなかったが、否定もしなかった。
夕方、タオルはちゃんと乾いた。
木の洗濯ばさみを外すと、布がやわらかく戻る。
ランチョンマットも畳み直され、巾着の中へ収まった。
茶の間の卓の端の盆の上に、箸箱。
その横に畳んだランチョンマット。
上にタオル。
最後に、巾着。
全部戻すと、最初に山門で鳴った忘れ物の音が、ようやく収まった気がした。
「これでいい?」
湊が聞く。
智明は盆の前にしゃがみ、巾着の紐を少し引き直した。ぎゅうっと固く結ばず、朝すぐ開けられるくらいの強さで止める。その手つきは父親の顔で、言葉よりやわらかかった。
「これでいい」
「わすれない?」
「忘れるな」
「うん」
短いやり取りだった。
夜になる前、湊は一度だけ巾着を持ち上げてみた。中で箸箱がまた、かちりと鳴る。山門で朝倉が持っていた時と同じ音なのに、今はずいぶん家の中の音に聞こえた。
智明はその音を聞いて言う。
「明日はそれ、先に持つんだぞ」
「うん」
「先に、だ」
「うん」
返事はやっぱり早い。
卓の端の盆の上で、巾着の中の箸箱がもう一度だけ、小さく鳴った。
かち。
それで、先の順番だけは残った。