35話 白井さんの無言
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 35話 白井さんの無言
本文
山門の石に、風呂敷の結び目がこつりと当たった。
大きい音ではない。けれど、午前の寺ではそのくらいの小さい硬さでも耳へ入る。志波智明はその音を自分で鳴らしてから、少しだけ嫌な顔をした。
持っている風呂敷包みは、見た目より軽い。
軽いのに、指先へ布のざらつきが残る。中に入っているのは黒い上着と、濃い色の作務衣の上だけだ。どちらも犬の毛と、いつの間にかついた白い埃で、家の中の光だと余計によく見えた。
台所で払えばいいくらいの汚れではない。
自分で洗うには少し面倒で、かといって、わざわざ説明するほどの大ごとでもない。
そういう半端なものを持って、山門のところで少しだけ止まる。
門の外から、自転車のブレーキが軽く鳴った。
き、と短く音がして、次に荷台の金具がちりと揺れる。白井栄助が、自転車を押さえたままこちらを見た。前掛けはいつものまま、荷台には何も積んでいない。
智明は風呂敷を持ち直した。
説明の言葉を一つ考えかけて、そこでやめた。
白井は門のところまで来ると、風呂敷包みをひと目見た。
次に智明の顔を見る。
それでだいたい済んだらしく、白いカバー袋を自転車の脇からひとつ出した。
何も聞かない。
何がついたのかも、どうしてこうなったのかも、今すぐ欲しいのかも聞かない。白いカバー袋の口を開いて、ただ少しだけ手前へ寄せる。
智明も何も言わず、そのまま風呂敷ごと渡した。
布越しに、中の上着の金具が白いカバーの口へ触れて、ちいさく鳴る。
ちり。
白井は風呂敷をほどかない。
中身を広げもしない。
受け取った重みだけを手の中で見て、それから荷台の横へ寄せた。
ようやく口を開いたのは、そのあとだった。
「どうも」
用件はもう済んでいる声だった。
智明は少しだけ肩の力を抜いて、短く返す。
「お願いします」
白井はうなずく。
白い引換札を一枚、前掛けの胸から抜き、細い鉛筆で何か短く書く。手元の動きが早い。札を半分に切って、片方を荷台の白いカバー袋へ差し、もう片方を智明へ渡す。
白い小さい札は、指へ乗せると紙より少しだけ厚かった。
角がきれいで、乾いている。
それだけで話は終わった。
智明は山門のところで一瞬だけ立ったまま、白井の背中を見る。
自転車が返る。
荷台の白い袋が、さっきまで自分の手にあった風呂敷の代わりみたいに揺れる。
白井は一度も振り返らず、そのまま商店街のほうへ行った。
勝手口へ戻ると、美琴が流しの横で器を拭いていた。
智明の手元の白い札を見て、すぐに状況を取る。
「あら」
「出してきた」
「白井さん?」
「そう」
言いながら、智明は引換札を流しの横へ置いた。
紙の角が木へ軽く触れて、こ、と鳴る。
美琴は布巾を持ったまま、その札へ目をやる。
「何も言われませんでした?」
「言わない」
「ですよねえ」
明るい返事だった。
そこへ、高瀬ひなが学校帰りのまま入ってくる。鞄を肩にかけたまま、白い札と、智明の手の中の空になった風呂敷を見る。
「何ですか」
「クリーニング」
智明が答える。
「何出したんです?」
「言わなくていいやつ」
「何ですかそれ」
ひなは率直だったが、そこで美琴がすぐに受ける。
「黒いのですよね」
「そう」
「白井さん、何も聞かないでしょう」
「聞かない」
それだけで、何となく足りてしまう。
ひなはまだ少し聞きたそうな顔をしたが、流しの横の白い札を見て、先にそっちへ意識が寄ったらしい。
「これ、なくしそう」
「そうなんです」
美琴がうなずく。
流しの横には湯のみ、小皿、伏せた器がいくつか並んでいる。その中に白い札だけがあると、軽すぎて妙に頼りない。濡れた手で触るのも違うし、そのまま紙束の間へ入れると今度は本当に見失う。
文江が縁側から入ってきたのは、その時だった。
流しの横の白い札。
空いた風呂敷。
智明の少し軽くなった顔。
そこまでひと目で見て、短く言う。
「器だねえ」
美琴はすぐに棚の上を見た。
物置から出てきた小さい器の一つが、ちょうど空いている。白地に薄い青の線が入った、浅いのだ。
「これでいいですか」
「いいよ」
短いやり取りで決まった。
美琴がその器を流しの横へ持ってくる。
智明が白い引換札を持ち上げる。
紙の厚みが、指から少しだけ離れる。
器へ置くと、札の角が縁に触れて、ちん、と細い音がした。
ひながそこで笑う。
「何か、急にちゃんとした」
「札だからねえ」
文江が言う。
「なくさない顔になった」
その言い方が、いちばん近かった。
流しの横にただ置いた時は、ただの白い紙だった。
器へ入ると、出してきたものの続きの顔になる。
智明は空いた風呂敷を畳みなおした。
ほどいた布は、元の結び目の跡が少しだけ残っている。白井は何も言わなかった。けれど何も聞かれなかったぶん、風呂敷の軽さだけが今ははっきり分かる。
「助かりましたね」
美琴が言う。
「……まあな」
智明は短く返した。
「何も聞かれないほうがいい時もありますよね」
「ある」
それはすぐに認めた。
認めたあとで、余計に何も足さない。
白井の無言を、ここで長く説明してしまうのは違う気がしたからだ。
茶の間では、卓の端に紙束が一つだけ残っていた。
祭り前ほどではないが、まだ何かの控えが混ざっている。智明はそこへ行かず、先に縁側の外を見た。犬が寝床で伏せて、水皿を一度だけ鳴らす。
からん。
その音が、さっき山門で聞いた白井の自転車の金具の音と少し似て聞こえた。
どちらも短くて、長話をしない音だった。
夕方前、美琴は小さい器ごと引換札を茶の間の棚へ移した。
白い札が見える向きへ、少しだけ角度を直す。
器の底が棚板へ触れて、こ、と鳴る。
茶の間の棚には、もういくつかの小さいものが並んでいる。
見本の札。
短い鉛筆。
小皿。
白い缶コーヒーの受け皿だった器。
そこへ今日、白井の引換札がひとつ増えた。
増えたのに、棚の顔はそんなに騒がない。
前からそこへ入る場所があったみたいに、白い札だけが静かに収まっている。
ちん、と鳴った小さい音だけが、しばらく耳に残った。