35話 白井さんの無言

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/4 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,382文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 35話 白井さんの無言

本文

山門の石に、風呂敷の結び目がこつりと当たった。

 大きい音ではない。けれど、午前の寺ではそのくらいの小さい硬さでも耳へ入る。志波智明はその音を自分で鳴らしてから、少しだけ嫌な顔をした。

 持っている風呂敷包みは、見た目より軽い。

 軽いのに、指先へ布のざらつきが残る。中に入っているのは黒い上着と、濃い色の作務衣の上だけだ。どちらも犬の毛と、いつの間にかついた白い埃で、家の中の光だと余計によく見えた。

 台所で払えばいいくらいの汚れではない。

 自分で洗うには少し面倒で、かといって、わざわざ説明するほどの大ごとでもない。

 そういう半端なものを持って、山門のところで少しだけ止まる。

 門の外から、自転車のブレーキが軽く鳴った。

 き、と短く音がして、次に荷台の金具がちりと揺れる。白井栄助が、自転車を押さえたままこちらを見た。前掛けはいつものまま、荷台には何も積んでいない。

 智明は風呂敷を持ち直した。

 説明の言葉を一つ考えかけて、そこでやめた。

 白井は門のところまで来ると、風呂敷包みをひと目見た。

 次に智明の顔を見る。

 それでだいたい済んだらしく、白いカバー袋を自転車の脇からひとつ出した。

 何も聞かない。

 何がついたのかも、どうしてこうなったのかも、今すぐ欲しいのかも聞かない。白いカバー袋の口を開いて、ただ少しだけ手前へ寄せる。

 智明も何も言わず、そのまま風呂敷ごと渡した。

 布越しに、中の上着の金具が白いカバーの口へ触れて、ちいさく鳴る。

 ちり。

 白井は風呂敷をほどかない。

 中身を広げもしない。

 受け取った重みだけを手の中で見て、それから荷台の横へ寄せた。

 ようやく口を開いたのは、そのあとだった。

「どうも」

 用件はもう済んでいる声だった。

 智明は少しだけ肩の力を抜いて、短く返す。

「お願いします」

 白井はうなずく。

 白い引換札を一枚、前掛けの胸から抜き、細い鉛筆で何か短く書く。手元の動きが早い。札を半分に切って、片方を荷台の白いカバー袋へ差し、もう片方を智明へ渡す。

 白い小さい札は、指へ乗せると紙より少しだけ厚かった。

 角がきれいで、乾いている。

 それだけで話は終わった。

 智明は山門のところで一瞬だけ立ったまま、白井の背中を見る。

 自転車が返る。

 荷台の白い袋が、さっきまで自分の手にあった風呂敷の代わりみたいに揺れる。

 白井は一度も振り返らず、そのまま商店街のほうへ行った。

 勝手口へ戻ると、美琴が流しの横で器を拭いていた。

 智明の手元の白い札を見て、すぐに状況を取る。

「あら」

「出してきた」

「白井さん?」

「そう」

 言いながら、智明は引換札を流しの横へ置いた。

 紙の角が木へ軽く触れて、こ、と鳴る。

 美琴は布巾を持ったまま、その札へ目をやる。

「何も言われませんでした?」

「言わない」

「ですよねえ」

 明るい返事だった。

 そこへ、高瀬ひなが学校帰りのまま入ってくる。鞄を肩にかけたまま、白い札と、智明の手の中の空になった風呂敷を見る。

「何ですか」

「クリーニング」

 智明が答える。

「何出したんです?」

「言わなくていいやつ」

「何ですかそれ」

 ひなは率直だったが、そこで美琴がすぐに受ける。

「黒いのですよね」

「そう」

「白井さん、何も聞かないでしょう」

「聞かない」

 それだけで、何となく足りてしまう。

 ひなはまだ少し聞きたそうな顔をしたが、流しの横の白い札を見て、先にそっちへ意識が寄ったらしい。

「これ、なくしそう」

「そうなんです」

 美琴がうなずく。

 流しの横には湯のみ、小皿、伏せた器がいくつか並んでいる。その中に白い札だけがあると、軽すぎて妙に頼りない。濡れた手で触るのも違うし、そのまま紙束の間へ入れると今度は本当に見失う。

 文江が縁側から入ってきたのは、その時だった。

 流しの横の白い札。

 空いた風呂敷。

 智明の少し軽くなった顔。

 そこまでひと目で見て、短く言う。

「器だねえ」

 美琴はすぐに棚の上を見た。

 物置から出てきた小さい器の一つが、ちょうど空いている。白地に薄い青の線が入った、浅いのだ。

「これでいいですか」

「いいよ」

 短いやり取りで決まった。

 美琴がその器を流しの横へ持ってくる。

 智明が白い引換札を持ち上げる。

 紙の厚みが、指から少しだけ離れる。

 器へ置くと、札の角が縁に触れて、ちん、と細い音がした。

 ひながそこで笑う。

「何か、急にちゃんとした」

「札だからねえ」

 文江が言う。

「なくさない顔になった」

 その言い方が、いちばん近かった。

 流しの横にただ置いた時は、ただの白い紙だった。

 器へ入ると、出してきたものの続きの顔になる。

 智明は空いた風呂敷を畳みなおした。

 ほどいた布は、元の結び目の跡が少しだけ残っている。白井は何も言わなかった。けれど何も聞かれなかったぶん、風呂敷の軽さだけが今ははっきり分かる。

「助かりましたね」

 美琴が言う。

「……まあな」

 智明は短く返した。

「何も聞かれないほうがいい時もありますよね」

「ある」

 それはすぐに認めた。

 認めたあとで、余計に何も足さない。

 白井の無言を、ここで長く説明してしまうのは違う気がしたからだ。

 茶の間では、卓の端に紙束が一つだけ残っていた。

 祭り前ほどではないが、まだ何かの控えが混ざっている。智明はそこへ行かず、先に縁側の外を見た。犬が寝床で伏せて、水皿を一度だけ鳴らす。

 からん。

 その音が、さっき山門で聞いた白井の自転車の金具の音と少し似て聞こえた。

 どちらも短くて、長話をしない音だった。

 夕方前、美琴は小さい器ごと引換札を茶の間の棚へ移した。

 白い札が見える向きへ、少しだけ角度を直す。

 器の底が棚板へ触れて、こ、と鳴る。

 茶の間の棚には、もういくつかの小さいものが並んでいる。

 見本の札。

 短い鉛筆。

 小皿。

 白い缶コーヒーの受け皿だった器。

 そこへ今日、白井の引換札がひとつ増えた。

 増えたのに、棚の顔はそんなに騒がない。

 前からそこへ入る場所があったみたいに、白い札だけが静かに収まっている。

 ちん、と鳴った小さい音だけが、しばらく耳に残った。

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