37話 ひなの掃除範囲

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/6 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,274文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 37話 ひなの掃除範囲

本文

茶の間の卓のまわりに、座布団が三枚、先に置かれていた。

 人はまだ誰も座っていない。なのに、柱寄りに一枚、卓の手前に一枚、勝手口に近いところへもう一枚。小皿は二つだけ出ていて、湯のみはまだない。高瀬ひなは勝手口から箒を持って入ってきて、その並びを見たまま少し止まった。

「……何で三枚」

 言いながらも、床のほうが先に気になる。

 犬の毛が細く二、三本。勝手口から入った土の粉がうすく伸びて、台所の手前まで続いている。昼のうちに人が何度か出入りしたのだろう。こういう時は、先に掃いてしまったほうが早い。

 ひなは座布団の端をつまんで持ち上げた。

 その下にも、やっぱり細い毛がある。

 箒の先で集める。さっさっ、と乾いた音。

 土の粉と犬の毛と、誰かの服から落ちた糸みたいな白いのが、ひとかたまりになって寄る。

「そこ、残すよ」

 後ろから文江の声がした。

 振り返ると、文江が流しの横からこっちを見ていた。洗った布巾を腕にかけたまま、短くそれだけ言う。

「え、でも、掃きます」

「掃いていいよ」

「じゃあ、どかしますよね」

「戻すよ」

 説明が少ない。

 少ないまま、文江は柱寄りの座布団だけを自分で少し持ち上げた。ひなが床を掃く。掃き終わると、文江はその座布団を元の位置へ戻す。少しだけ向きを直して、端をとんと整える。

「そこ、誰が座るんですか」

 ひなが聞くと、文江は卓の勝手口寄りの一枚を指でさした。

「ひなちゃん」

「私ですか」

「うん」

 文江はそこで止めた。

 ひなは思わず、自分が今どかしかけた座布団を見た。

 勝手口に近いところ。台所へ手が届きやすい。茶の間の真ん中すぎない。たしかに、何か持たされた時に座らされる場所として、妙にそれっぽい。

「先に言ってくださいよ」

「今、言ったよ」

 文江は短く受けて、それ以上は足さない。

 その代わり、小皿を一つ、茶箪笥の横から出して卓へ足した。

 こと。

 小さい音で、三枚の座布団と三つの皿がようやく揃う。

 ひなはそこで少しだけ負けた顔をした。

 掃除のためにどかしたつもりだったのに、どかした先に自分の場所があったらしい。

 台所の床を掃きながら、ひなはまだ少し納得しきれない。

「でも、掃除するなら全部どけたほうが早いじゃないですか」

「早いねえ」

 文江は認める。

「でも、戻すものは戻すよ」

「何でですか」

「座るから」

 また短い。

 理屈ではなく、手順の言葉だった。

 そこへ智明が茶の間へ入ってきた。帳面を二冊、片手で持っている。卓の端の紙束を見て、それから箒を持ったひなの足元を見た。

「そこ、紙寄せるなよ」

 第一声がそれだった。

 ひなはちょうど、卓の下まで掃こうとしていたところだった。紙の端が少しだけ揺れている。掃いた風が入ったのだろう。

「まだ触ってないです」

「これから触るとこだったろ」

「掃きたいんですよ」

「そこは俺がやる」

 言い方が早い。

 ふわっとした止め方ではなく、はっきり線を引く声だった。

「勝手口から台所の土。濡れたとこ。犬の毛が寄るとこ。そこまでは頼む」

「茶の間は」

「足元だけ」

「卓の上は」

「手を出すな」

「棚の下は」

「缶に当たるな」

「細かいなあ」

「細かくしないと、後で誰が困るか分からないだろ」

 それはそうだった。

 ひなは返事の代わりに、箒の先を少しだけ引いた。

 文江がその横で、小皿の位置をほんの少しずらす。

 湯のみはまだ出ていない。

 でも皿が三つあると、そのうち誰がどこへ座るかまで何となく見えてくる。

「ひなちゃん」

 文江が言う。

「はい」

「濡れたとこ先」

 また短い。

 けれどその一言で、ひなの足は勝手口のほうへ戻った。

 たしかに、そこにはさっきの土の粉の続きと、誰かが洗い物を運んだ時の水が細く残っている。まずそこを拭けば、板の手触りが違ってくる。ひなは布巾を取って、濡れた筋を追った。冷たい。乾いていない板は、指先へすぐ分かる。

 拭いて、布巾を返して、もう一度だけ箒を入れる。

 犬の毛が二本。白い粉がひとかけ。小さい何かが寄る。

 それを集めていると、さっきほど茶の間全体が気にならなくなってきた。

 美琴が台所から顔を出したのは、その頃だった。

「あ、きれい」

「そこだけです」

 ひなが言う。

「そこが大事なんですよ」

 明るく返す。

 それから、もう一度だけ卓を見て、湯のみを三つ持ってくる。

 白いの。厚手の灰色。藍の線が入ったやつ。

 座布団三枚に合わせるみたいに、今度は湯のみが三つ並ぶ。

「ほら」

 美琴が言う。

「だからその、ほら、が強いんですよ」

「でも、座るでしょう?」

 そう言われると弱い。

 ひなは濡れた布巾を絞りながら、勝手口から茶の間までの板を見た。たしかに、今なら人が座ってもそんなに気にならない。犬の毛も土も、少なくとも目につくぶんはもう寄せた。

 智明は卓の紙を自分のほうへ寄せた。

 紙の下の床だけ、自分でさっと布で拭く。

 そこは本当に一瞬で終わる。

「そこは俺」

 智明が言う。

「はいはい」

 ひなが返す。

「そこからこっちは、ひなちゃん」

 文江が足した。

 勝手口から台所まで。

 台所から茶の間の足元まで。

 卓の上と紙の下は智明。

 座布団と小皿は文江が戻す。

 湯のみは美琴が足す。

 ひなはようやく少し笑った。

「分かりましたよ」

「そう」

 文江は短く返した。

「分かったなら、座りな」

「え、今?」

「今」

 もう湯のみが出ている。

 小皿も三つある。

 勝手口の濡れた筋は消えている。

 箒は壁際に立てた。

 ひなは箒から手を離し、さっき一度どかした座布団へ座った。

 勝手口に近い、少しだけ台所寄りの場所。

 座ると、たしかに手が届きやすい。

「……掃除したの、私なのに」

「だから早いよ」

 文江が言う。

 湯のみを持つ。器の肌が少しあたたかい。

 湯のみの底が卓へ小さく触れた。

 それ以上は、もう広がらなかった。

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