37話 ひなの掃除範囲
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 37話 ひなの掃除範囲
本文
茶の間の卓のまわりに、座布団が三枚、先に置かれていた。
人はまだ誰も座っていない。なのに、柱寄りに一枚、卓の手前に一枚、勝手口に近いところへもう一枚。小皿は二つだけ出ていて、湯のみはまだない。高瀬ひなは勝手口から箒を持って入ってきて、その並びを見たまま少し止まった。
「……何で三枚」
言いながらも、床のほうが先に気になる。
犬の毛が細く二、三本。勝手口から入った土の粉がうすく伸びて、台所の手前まで続いている。昼のうちに人が何度か出入りしたのだろう。こういう時は、先に掃いてしまったほうが早い。
ひなは座布団の端をつまんで持ち上げた。
その下にも、やっぱり細い毛がある。
箒の先で集める。さっさっ、と乾いた音。
土の粉と犬の毛と、誰かの服から落ちた糸みたいな白いのが、ひとかたまりになって寄る。
「そこ、残すよ」
後ろから文江の声がした。
振り返ると、文江が流しの横からこっちを見ていた。洗った布巾を腕にかけたまま、短くそれだけ言う。
「え、でも、掃きます」
「掃いていいよ」
「じゃあ、どかしますよね」
「戻すよ」
説明が少ない。
少ないまま、文江は柱寄りの座布団だけを自分で少し持ち上げた。ひなが床を掃く。掃き終わると、文江はその座布団を元の位置へ戻す。少しだけ向きを直して、端をとんと整える。
「そこ、誰が座るんですか」
ひなが聞くと、文江は卓の勝手口寄りの一枚を指でさした。
「ひなちゃん」
「私ですか」
「うん」
文江はそこで止めた。
ひなは思わず、自分が今どかしかけた座布団を見た。
勝手口に近いところ。台所へ手が届きやすい。茶の間の真ん中すぎない。たしかに、何か持たされた時に座らされる場所として、妙にそれっぽい。
「先に言ってくださいよ」
「今、言ったよ」
文江は短く受けて、それ以上は足さない。
その代わり、小皿を一つ、茶箪笥の横から出して卓へ足した。
こと。
小さい音で、三枚の座布団と三つの皿がようやく揃う。
ひなはそこで少しだけ負けた顔をした。
掃除のためにどかしたつもりだったのに、どかした先に自分の場所があったらしい。
台所の床を掃きながら、ひなはまだ少し納得しきれない。
「でも、掃除するなら全部どけたほうが早いじゃないですか」
「早いねえ」
文江は認める。
「でも、戻すものは戻すよ」
「何でですか」
「座るから」
また短い。
理屈ではなく、手順の言葉だった。
そこへ智明が茶の間へ入ってきた。帳面を二冊、片手で持っている。卓の端の紙束を見て、それから箒を持ったひなの足元を見た。
「そこ、紙寄せるなよ」
第一声がそれだった。
ひなはちょうど、卓の下まで掃こうとしていたところだった。紙の端が少しだけ揺れている。掃いた風が入ったのだろう。
「まだ触ってないです」
「これから触るとこだったろ」
「掃きたいんですよ」
「そこは俺がやる」
言い方が早い。
ふわっとした止め方ではなく、はっきり線を引く声だった。
「勝手口から台所の土。濡れたとこ。犬の毛が寄るとこ。そこまでは頼む」
「茶の間は」
「足元だけ」
「卓の上は」
「手を出すな」
「棚の下は」
「缶に当たるな」
「細かいなあ」
「細かくしないと、後で誰が困るか分からないだろ」
それはそうだった。
ひなは返事の代わりに、箒の先を少しだけ引いた。
文江がその横で、小皿の位置をほんの少しずらす。
湯のみはまだ出ていない。
でも皿が三つあると、そのうち誰がどこへ座るかまで何となく見えてくる。
「ひなちゃん」
文江が言う。
「はい」
「濡れたとこ先」
また短い。
けれどその一言で、ひなの足は勝手口のほうへ戻った。
たしかに、そこにはさっきの土の粉の続きと、誰かが洗い物を運んだ時の水が細く残っている。まずそこを拭けば、板の手触りが違ってくる。ひなは布巾を取って、濡れた筋を追った。冷たい。乾いていない板は、指先へすぐ分かる。
拭いて、布巾を返して、もう一度だけ箒を入れる。
犬の毛が二本。白い粉がひとかけ。小さい何かが寄る。
それを集めていると、さっきほど茶の間全体が気にならなくなってきた。
美琴が台所から顔を出したのは、その頃だった。
「あ、きれい」
「そこだけです」
ひなが言う。
「そこが大事なんですよ」
明るく返す。
それから、もう一度だけ卓を見て、湯のみを三つ持ってくる。
白いの。厚手の灰色。藍の線が入ったやつ。
座布団三枚に合わせるみたいに、今度は湯のみが三つ並ぶ。
「ほら」
美琴が言う。
「だからその、ほら、が強いんですよ」
「でも、座るでしょう?」
そう言われると弱い。
ひなは濡れた布巾を絞りながら、勝手口から茶の間までの板を見た。たしかに、今なら人が座ってもそんなに気にならない。犬の毛も土も、少なくとも目につくぶんはもう寄せた。
智明は卓の紙を自分のほうへ寄せた。
紙の下の床だけ、自分でさっと布で拭く。
そこは本当に一瞬で終わる。
「そこは俺」
智明が言う。
「はいはい」
ひなが返す。
「そこからこっちは、ひなちゃん」
文江が足した。
勝手口から台所まで。
台所から茶の間の足元まで。
卓の上と紙の下は智明。
座布団と小皿は文江が戻す。
湯のみは美琴が足す。
ひなはようやく少し笑った。
「分かりましたよ」
「そう」
文江は短く返した。
「分かったなら、座りな」
「え、今?」
「今」
もう湯のみが出ている。
小皿も三つある。
勝手口の濡れた筋は消えている。
箒は壁際に立てた。
ひなは箒から手を離し、さっき一度どかした座布団へ座った。
勝手口に近い、少しだけ台所寄りの場所。
座ると、たしかに手が届きやすい。
「……掃除したの、私なのに」
「だから早いよ」
文江が言う。
湯のみを持つ。器の肌が少しあたたかい。
湯のみの底が卓へ小さく触れた。
それ以上は、もう広がらなかった。