39話 笛と犬
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 39話 笛と犬
本文
縁側の柱に下がった笛は、昼の光だと少し飴色に見えた。
細い紐で結ばれて、柱の釘にひっかけてある。風吹けば鳴るような重さではないが、通るたびに目へ入るくらいの高さだった。志波湊はその下で立ち止まり、犬の背中を見た。
犬は寝床の上で横になっている。段ボールの下に古タオル、その上に毛布。前より少しだけ広くなった寝床の端から、土色の毛がふわりとはみ出していた。体温のある場所だけ、毛のふくらみ方が少し違う。
「ぬくい」
湊はしゃがんで、背中へ手を置いた。
犬は目を開けないまま、耳だけを少し動かした。嫌がるでもなく、迎えるでもなく、そこにある手の重みだけ受けるような動きだった。湊はそのまま、もう片方の手で柱の笛を見上げた。
「ふく?」
誰に聞くでもなく言う。
縁側の端で文江が布巾を畳んでいた。洗ったばかりの布が一枚、二枚、膝の上で四角くなる。湊の声を聞いて、顔だけ少し上げた。
「庭じゃなくて、ここで?」
短い問いだった。
湊は笛と犬を見比べた。
「ここ」
「そう」
文江はそこで一度だけ、犬の寝床の脇の水皿を見た。金属の縁に、昼の光が細くのっている。犬はまだ伏せたままだ。
「一回だよ」
それだけ言った。
湊は笛を釘から外した。紐が柱を軽くこすって、かすかに鳴る。犬はそこでようやく片目を開けたが、起き上がりはしない。
笛を口へ持っていく。頬が少しだけふくらむ。
ぴい。
細い音は前より短かった。けれど近かった。庭へ放った時より、縁側と茶の間のきわにまっすぐ落ちる。
犬が、すぐに起きた。
前足を突き、寝床の上で半歩だけ体を持ち上げる。毛がふるえて、首が上がる。吠えはしない。ただ、目が開いて、耳がぴんと立った。次の瞬間、爪が板の手前で二つ鳴る。
かつ、かつ。
茶の間の中で、湯のみがひとつだけ小さく触れた。こ、と鳴って、すぐ静かになる。台所では包丁の音が止まったらしく、そこだけ空気がひと拍空いた。
「お」
湊が言った。
犬は笛のほうを見ている。笛そのものというより、音の出た湊の口元を見ている顔だった。前足を寝床の端まで寄せて、体を半分だけ起こしたまま動かない。
文江は布巾を膝にのせた。
「聞いたねえ」
短くそう言う。
台所から美琴が顔を出した。手にはまだ濡れた菜箸を持っている。縁側の湊、笛、起きた犬、その三つを見て、すぐに状況だけ取ったらしい。
「反応しますね」
「するな」
智明も茶の間から来た。紙を一枚手に持ったまま、縁側の手前で止まる。笛を吹いたことそのものより、その音で犬がどう動いたかを先に見ている顔だった。
「もう一回吹くなよ」
第一声がそれだった。
湊は素直に笛を下ろした。
「きいた」
「聞いたな」
智明が返す。
「だから今日は一回でいい」
そこで犬がようやく動いた。寝床から出るのではなく、前足だけを揃え直して、もう少し体を起こす。鼻先が笛のほうへ向く。毛の奥の温かさが、起きたぶんだけ形を変えて見えた。
湊は笛を握ったまま、犬の前にしゃがむ。
「こわい?」
犬は返事をしない。代わりに、鼻を一度だけ鳴らした。ふん、と短い音で、それから笛の先へ少し顔を寄せる。嗅いでいるのか、見ているのか分からないくらいの近さだ。
「怖くはないんだろうな」
智明が言う。
「驚くんだ」
「驚くねえ」
文江が受ける。
美琴はそこで台所へ引かず、先に水皿を少しだけ犬の前へ寄せた。からん、と金属が鳴る。犬はその音にも耳を動かしたが、笛からは目を離さなかった。
「何が違うんですかね」
ひなが勝手口から入ってきて言う。
「庭で吹いた時も反応してましたけど、今のほうが近い」
「近いからやろ」
恒一が車庫のほうから来た。いつの間にか縁側の外側へ回っていて、犬の視線の向きだけ見ている。
「庭は外向きや。ここは家のきわや」
「そういう言い方ずるいですね」
ひなが言うと、恒一は笑った。
「犬は賢いんやろ」
そこへ犬が、ようやく水皿のほうへ顔を向けた。半歩だけ向きを変え、金属の縁へ鼻先を寄せる。舌が水を打つ。
ぴちゃ。
からん。
さっきまでの張った空気が、その音で少しだけほどける。
「聞いたら飲むんですね」
ひなが言う。
「飲むねえ」
文江はそこで立ち上がった。布巾を脇へ置き、湊の手の笛をひとつ受け取る。湊は抵抗しない。文江は笛を柱の釘へ戻した。さっきより少しだけ高い位置だ。
「ここ」
湊が言う。
「ここだよ」
文江は短く返す。
「犬が見えるとこ」
言うことはそこまでだった。
美琴がそこで台所へ戻る。
「ごはん前に、もう一回吹かれると鍋が止まりますからね」
「もう吹かん」
湊は素直に言う。
「今日は、な」
智明が足した。
「今日は」
湊もそのまま返す。
縁側の空気は、もう普段の昼へ戻りかけていた。茶の間の紙は紙のまま、台所の包丁の音もまた始まる。犬だけが少しだけ違う。寝床へ戻っても、さっきより頭の位置が高い。完全には伏せきらず、笛のある柱のほうをちらちら見ている。
湊はその横へ座った。手を伸ばして、背中の毛へ触れる。
「ぬくい」
さっきと同じことを言う。
今度は犬が小さく息をついた。起きたあとの体温は、寝ている時より少しだけはっきり手に返る。毛の下の熱が、湊の手のひらへじんわり広がる。
文江は縁側の端へ腰を下ろしたまま、笛と犬のあいだを見ていた。長くは見ない。けれど、さっき一回で犬が起きたことも、そのあと水を飲んだことも、もう家の中の並びに入れた顔だった。
「反応するんだねえ」
ぽつりと言う。
「うん」
湊が答える。
「聞くんだ」
「聞くねえ」
それで会話は終わった。
夕方、茶の間の灯りがついてからも、犬は一度だけ柱の笛を見上げた。見上げただけで、動かない。水皿の横へ伏せ直し、前足を揃えて、今度はちゃんと顎をのせる。
金属の皿に、縁側の灯りが細く映る。
からん、と鳴るほどではない。
文江が最後に水皿をほんの少しだけ寝床のほうへ寄せた。
金属が板にかすかに触れて、から、と小さく鳴った。