40話 丸山さんの早い話

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/9 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 1,917文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 40話 丸山さんの早い話

本文

山門の石に、細い紙の角がぱたと当たった。

 乾いていて、すぐ消えそうな音だった。けれど昼前の寺では、紙の軽さほどには埋もれない。志波恒一は車庫の脇で手ぬぐいを絞る手を止め、そのほうを見た。

 山門のところに、丸山が立っている。

 酒屋の前掛けをしたまま、自転車の荷台を片手で押さえ、もう片方の手には半分に折った細長い紙があった。紙の口は小さいクリップで留めてある。

「どうも」

 丸山が言う。

「どうも」

 恒一もそのまま返す。

 いつもの荷物の受け渡しみたいな入り方だったが、今日は酒瓶も箱もない。その代わり、紙だけがやけに店の顔をしていた。

「これ、先に耳だけ入れといたほうがええかな思いまして」

 丸山は紙を少し持ち上げた。

 クリップが指に触れて、ちりと小さく鳴る。

「何や」

「まだ決まってへん話です」

「早いな」

 恒一が言うと、丸山は少しだけ笑った。

「店の前は早いんです」

 それだけで、だいたい察しがつく。

 商店街の店先で誰かがひと言言う。

 その横で別の誰かが「ほな、寺さんとこはどうなんやろ」と足す。

 そうやって、まだ寺には届いていない話が、先に酒屋の前で形になる。

 恒一は山門まで行って、紙を受け取った。ざらついた伝票の裏らしい手触りだ。折り目のあいだから、太い字が少しだけ見える。

「何が早かったんや」

「祭りの日の休み場所とか、水とか、そのへんです」

 丸山は言いすぎない。

 誰がどう言ったかまでは足さない。

 ただ、町の中で何がもう寺へ寄ってきているか、その輪郭だけ持ってきた顔だった。

「寺さんとこ、犬もおるし、門も開いとるし、ちょっと寄るのにええやろって」

「勝手に進むなあ」

 恒一は紙の角を親指でなでた。

 乾いた紙なのに、町の手の早さだけは少し湿って乗っているみたいだった。

「まだ返事いらんです」

 丸山が先に言う。

「そういう話になってる、だけです」

「ほな、話だけ置いてくるんやな」

「そうです」

 その返しがきれいで、恒一は少しだけ笑った。

 台所へ回ると、流しの横で美琴が豆をざるへ上げていた。ざるの底へ当たる豆の音が、からからと軽い。恒一が細長い紙を流しの横へ置くと、今度は紙の角が木へ当たって、ぱたと小さく鳴った。

「あら」

 美琴が顔を上げる。

「何です?」

「丸山さんの早い話や」

「早い話ですか」

「まだ決まってへんけど、町のほうで先に進んどるやつ」

 美琴はざるを少し傾けたまま、紙を見る。

 細長い。

 酒屋の伝票の裏らしく、片側だけ赤い罫線が残っている。

「開けます?」

「開けるやろ」

 恒一がクリップを外す。

 紙が一枚開いて、そこへ太い字で三つだけ書いてあった。

 休み

 水

 犬

 紙にはそれしかなかった。

「……早いですねえ」

 美琴が言う。

「やろ」

「でも、分かりやすい」

 そこへ智明が入ってきた。紙を見るなり、顔をしかめる。

「何だそれ」

「丸山さんの早い話」

 恒一がそのまま言う。

「見れば分かる。何が早い」

 智明が紙を取った。ざらりとした指触り。酒屋の控えの裏らしい、少しだけ油を吸ったみたいな紙の肌だ。書いてあるのは三つだけなのに、妙に町の顔をしている。

「……勝手に増えるなあ」

 それが第一声だった。

「まだ決まってへんらしい」

「決まってないのは分かる。分かるけど、早い」

「早いです」

 美琴も受ける。

「でも、耳に入るのは助かるんじゃないですか」

 智明はすぐには答えなかった。

 紙を見る。

 休み。

 水。

 犬。

「返事はまだだな」

 ようやくそう言った。

「丸山さんとこにも、まだ何も返さなくていい」

「そうやな」

 恒一が言う。

「話だけや」

「話だけだ」

 智明はそこで紙をもう一度折った。きれいに半分、さらに半分。クリップは留めず、そのまま卓の端へ置く。風が入れば飛ぶくらいの軽さだった。

 文江が縁側から入ってきて、その紙を見た。

「早いねえ」

 文江は折った紙だけを見ていた。

「町が」

 恒一が答える。

「そう」

 文江はそれ以上聞かない。

 ただ、茶の間の端から空いた小皿を一つ持ってきて、折った紙をその中へ入れた。紙の角が磁器に触れて、ちんと細い音がする。

「置いとくよ」

 紙の置き方まで含めて、もう受けた顔だった。

 湯のみが三つ並ぶころには、茶の間はもう普段の午後の顔へ戻っていた。犬は縁側の外で伏せ、水皿を一度鳴らす。からん、と金属の音がして、その横で小皿の中の紙が少しだけ揺れる。

 智明は湯のみを持ったまま、その紙を見た。

「休み場所は勝手に決めるな」

「うん」

 恒一が軽く返す。

「水もだ」

「うん」

「犬は……まあ、張り紙の犬だ」

「張り紙の犬やな」

 そこで美琴が少しだけ笑った。

「でも、もう町の話の中には入ってるんですねえ」

「入っとるな」

 恒一が言う。

「早いなあ」

 夕方、茶の間の端で小皿を少しずらした時、折った紙の角がまた磁器へ触れた。

 ちん。

 早かった話も、その時にはもう茶の間の端へ収まっていた。

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