40話 丸山さんの早い話
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 40話 丸山さんの早い話
本文
山門の石に、細い紙の角がぱたと当たった。
乾いていて、すぐ消えそうな音だった。けれど昼前の寺では、紙の軽さほどには埋もれない。志波恒一は車庫の脇で手ぬぐいを絞る手を止め、そのほうを見た。
山門のところに、丸山が立っている。
酒屋の前掛けをしたまま、自転車の荷台を片手で押さえ、もう片方の手には半分に折った細長い紙があった。紙の口は小さいクリップで留めてある。
「どうも」
丸山が言う。
「どうも」
恒一もそのまま返す。
いつもの荷物の受け渡しみたいな入り方だったが、今日は酒瓶も箱もない。その代わり、紙だけがやけに店の顔をしていた。
「これ、先に耳だけ入れといたほうがええかな思いまして」
丸山は紙を少し持ち上げた。
クリップが指に触れて、ちりと小さく鳴る。
「何や」
「まだ決まってへん話です」
「早いな」
恒一が言うと、丸山は少しだけ笑った。
「店の前は早いんです」
それだけで、だいたい察しがつく。
商店街の店先で誰かがひと言言う。
その横で別の誰かが「ほな、寺さんとこはどうなんやろ」と足す。
そうやって、まだ寺には届いていない話が、先に酒屋の前で形になる。
恒一は山門まで行って、紙を受け取った。ざらついた伝票の裏らしい手触りだ。折り目のあいだから、太い字が少しだけ見える。
「何が早かったんや」
「祭りの日の休み場所とか、水とか、そのへんです」
丸山は言いすぎない。
誰がどう言ったかまでは足さない。
ただ、町の中で何がもう寺へ寄ってきているか、その輪郭だけ持ってきた顔だった。
「寺さんとこ、犬もおるし、門も開いとるし、ちょっと寄るのにええやろって」
「勝手に進むなあ」
恒一は紙の角を親指でなでた。
乾いた紙なのに、町の手の早さだけは少し湿って乗っているみたいだった。
「まだ返事いらんです」
丸山が先に言う。
「そういう話になってる、だけです」
「ほな、話だけ置いてくるんやな」
「そうです」
その返しがきれいで、恒一は少しだけ笑った。
台所へ回ると、流しの横で美琴が豆をざるへ上げていた。ざるの底へ当たる豆の音が、からからと軽い。恒一が細長い紙を流しの横へ置くと、今度は紙の角が木へ当たって、ぱたと小さく鳴った。
「あら」
美琴が顔を上げる。
「何です?」
「丸山さんの早い話や」
「早い話ですか」
「まだ決まってへんけど、町のほうで先に進んどるやつ」
美琴はざるを少し傾けたまま、紙を見る。
細長い。
酒屋の伝票の裏らしく、片側だけ赤い罫線が残っている。
「開けます?」
「開けるやろ」
恒一がクリップを外す。
紙が一枚開いて、そこへ太い字で三つだけ書いてあった。
休み
水
犬
紙にはそれしかなかった。
「……早いですねえ」
美琴が言う。
「やろ」
「でも、分かりやすい」
そこへ智明が入ってきた。紙を見るなり、顔をしかめる。
「何だそれ」
「丸山さんの早い話」
恒一がそのまま言う。
「見れば分かる。何が早い」
智明が紙を取った。ざらりとした指触り。酒屋の控えの裏らしい、少しだけ油を吸ったみたいな紙の肌だ。書いてあるのは三つだけなのに、妙に町の顔をしている。
「……勝手に増えるなあ」
それが第一声だった。
「まだ決まってへんらしい」
「決まってないのは分かる。分かるけど、早い」
「早いです」
美琴も受ける。
「でも、耳に入るのは助かるんじゃないですか」
智明はすぐには答えなかった。
紙を見る。
休み。
水。
犬。
「返事はまだだな」
ようやくそう言った。
「丸山さんとこにも、まだ何も返さなくていい」
「そうやな」
恒一が言う。
「話だけや」
「話だけだ」
智明はそこで紙をもう一度折った。きれいに半分、さらに半分。クリップは留めず、そのまま卓の端へ置く。風が入れば飛ぶくらいの軽さだった。
文江が縁側から入ってきて、その紙を見た。
「早いねえ」
文江は折った紙だけを見ていた。
「町が」
恒一が答える。
「そう」
文江はそれ以上聞かない。
ただ、茶の間の端から空いた小皿を一つ持ってきて、折った紙をその中へ入れた。紙の角が磁器に触れて、ちんと細い音がする。
「置いとくよ」
紙の置き方まで含めて、もう受けた顔だった。
湯のみが三つ並ぶころには、茶の間はもう普段の午後の顔へ戻っていた。犬は縁側の外で伏せ、水皿を一度鳴らす。からん、と金属の音がして、その横で小皿の中の紙が少しだけ揺れる。
智明は湯のみを持ったまま、その紙を見た。
「休み場所は勝手に決めるな」
「うん」
恒一が軽く返す。
「水もだ」
「うん」
「犬は……まあ、張り紙の犬だ」
「張り紙の犬やな」
そこで美琴が少しだけ笑った。
「でも、もう町の話の中には入ってるんですねえ」
「入っとるな」
恒一が言う。
「早いなあ」
夕方、茶の間の端で小皿を少しずらした時、折った紙の角がまた磁器へ触れた。
ちん。
早かった話も、その時にはもう茶の間の端へ収まっていた。