41話 山菜の籠
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 41話 山菜の籠
本文
山門の内側に、籠がひとつ置かれていた。
朝からそこにあったわけではない。少なくとも、高瀬ひなが竹ぼうきを持って門の前を掃いた時にはなかった。けれど昼へ寄るころ、ふと顔を上げると、門柱の影にきちんと収まるみたいに置かれていた。
丸い竹籠だった。
浅すぎず、深すぎず。手で提げる細い持ち手がついていて、底のほうには土の粉がうっすら残っている。上には薄い手ぬぐいが一枚、軽くかけられていた。風で飛ばないくらいの重みはあるらしく、布の端だけが少し揺れて、すぐに止まる。
「何ですか、これ」
ひなが言っても、籠はもちろん答えない。
山門の外を見たが、人の気配も足音ももうなかった。置いたまま帰ったのだろう。そういう置かれ方だった。
ひなは門のところまで行って、手ぬぐいの端を少し持ち上げた。そこから、土の匂いがふわりと出る。湿った畑ではなく、もう少し乾いた、山の土の匂いだった。その下に青い茎の切り口みたいな匂いが混ざる。
「……山菜?」
口にしたところで、車庫のほうから恒一が来た。
「出たな」
第一声がそれだった。
「出たって何ですか」
「籠や」
「見れば分かります」
「分かるなら早い」
軽い返しのあとで、恒一は籠の前にしゃがんだ。手ぬぐいの端をひなより少し広くめくる。中には、わらびらしいものが束になっていて、その脇に太めのこごみ、葉の巻いたままの何かがいくつか入っていた。どれも泥はついていないが、洗いきった台所の顔でもない。
「山のやつやな」
「誰が置いたんですか」
「さてな」
恒一はそこで答えを増やさなかった。
さてな、で済ませる顔だったし、そこで済ませていい感じでもあった。ひなは眉を寄せたが、それ以上は続かなかった。続けるより先に、文江が縁側から来たからだ。
布巾を腕にかけたまま、山門のところの籠を見て、手ぬぐいのかかり具合を見て、それから中身へ目を落とす。
「若いねえ」
短くそう言った。
「何がですか」
ひなが聞くと、文江は籠の中のわらびを指で軽く押した。
「やわらかい」
それで十分、扱いが決まる声だった。
説明ではない。けれど、そのひと言で、籠は「どこから来たか」より「今どう扱うか」の顔になる。文江は持ち手へ手をかけた。籠の底が石から離れて、少し土の粉が落ちる。
「入れるよ」
「今ですか」
ひなが言うと、文江はうなずいた。
「陽、回るから」
たしかに門のところへ置いたままでは、昼を越えれば日が寄る。わらびの切り口も、葉のやわらかいところも、そのままにはしておきたくない。理由としてはそれで十分だった。
恒一が先に門をあける。文江が籠を持つ。ひなは慌てて後ろから土の落ちたところへ目をやったが、文江は振り向きもせず言った。
「あとで掃けばいいよ」
その一言で、山門の外の話はほんの少し後ろへ流れた。
台所へ入ると、土の匂いがいっそうはっきりした。流しの横はもう半分ふさがっている。洗った湯のみ、伏せた小皿、犬の水皿を一度置く空き。そこへ籠をそのまま置くには、少し狭い。
美琴がすぐに振り向く。
「あら」
そして、ひと目で状況を取る。
「山菜ですねえ」
「来たよ」
文江が言う。
「誰からですか」
「そこはまだ」
恒一が軽く返す。
美琴はそれ以上聞かなかった。先に流しの横の空いた盆を一枚引き寄せ、伏せてあった器を棚の端へずらす。籠そのものは流しのすぐ脇ではなく、台所の土間寄りの涼しいところへ置く。竹の底が板へ当たって、こと、と鳴った。
「土、落ちますね」
ひなが言うと、美琴はうなずいた。
「落ちますねえ。でも今はこっちのほうが早いです」
その言い方で、また家のほうへ引き込まれる。
文江は籠の上の手ぬぐいを完全に外した。中身がよく見える。わらびの先はまだ巻いていて、こごみの緑は少しつやがある。知らない葉も混じっているが、いかにも山からそのまま来た顔をしていた。
「これ、すぐ灰汁抜きですか」
ひなが聞く。
文江はわらびを一束持ち上げ、重さを手で見た。
「まだいいよ」
「まだ?」
「若いから」
また短い。けれど、持ち上げた手つきが、もう台所のものだった。
美琴はそこへ大きめのざるを持ってくる。いきなり全部洗わない。まず分けるためのざるだ。わらびはこっち、こごみはこっち、葉ものは少し離して。文江の手が先に動き、美琴が受ける。ひなはそこでようやく、籠の由来を聞くより先に、山菜の形を見始めている自分に気づいた。
「何か、強いなあ」
思わず出た声に、美琴が笑う。
「何がです?」
「家のほうがです」
恒一はそこで何も足さなかった。由来を知っているのか、知らないのか、どちらでもいい顔で、ただ台所の入口にもたれている。文江だけが山菜を見て、美琴は手を動かす。籠の置かれた意味は、そのあいだにどんどん薄くなっていく。
ざるへ移したわらびの下から、小さい土の塊が一つだけころりと落ちた。台所の板に当たって、こつ、と小さく鳴る。ひなはそれを拾い上げた。乾いているのに、指先へかすかに山の匂いがついた。
「ほんとに山の匂いする」
「するねえ」
美琴が受ける。
「でも、今日はまず夕飯側です」
明るい言い方だった。
山の匂いはしても、山の話には行かない。
行かないまま、わらびはざるへ分かれ、こごみは別の器へ移される。
台所で分かれたものの一部が、夕方には茶の間へ出た。
小さい鉢に、さっと湯を通したこごみが少し。まだ味つけも薄く、山から来た青さを少し残したまま、卓の端へ置かれる。こと、と器の底が木へ当たる。
湊がそれを見て言う。
「ふえた」
「増えました」
ひなが答える。
「山菜だ」
恒一が言う。
「やま」
湊は短く繰り返したが、それ以上は聞かない。犬は縁側の外で鼻を少し上げて、その青い匂いを一度取って、また水皿へ戻る。
文江は茶の間の端に、空いた竹籠だけを置いた。中身はもう台所へ入ったのに、籠だけがそこに残る。持ち手の竹に少し土の粉がついていて、拭けば落ちるのだろうが、まだ拭かない。
「それ、しまわないんですか」
ひなが聞く。
「まだいいよ」
文江は短く答えた。
「匂いあるから」
たしかに籠の中には、まだ土の匂いが残っていた。山菜を出してしまっても、竹の編み目のあいだに山が少しいるみたいな匂いだった。
夕飯の湯気に混ざるには薄すぎて、でも消えてしまうほどでもない。茶の間の端にそのまま置かれると、籠はもう家の物みたいに静かにしているのに、匂いだけが少し外側のままだ。
ひなは箸を並べながら、その籠を一度見た。
文江が最後にその籠の持ち手を少し内側へ倒した。竹がこすれて、かすかな音がする。
「それでいいよ」
夜へ寄る家の中で、湯のみが鳴り、箸がそろう。
その横で、山の匂いだけがまだ障子の手前に残っていた。