41話 山菜の籠

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📅 公開日: 2026/8/10 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,673文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 41話 山菜の籠

本文

山門の内側に、籠がひとつ置かれていた。

 朝からそこにあったわけではない。少なくとも、高瀬ひなが竹ぼうきを持って門の前を掃いた時にはなかった。けれど昼へ寄るころ、ふと顔を上げると、門柱の影にきちんと収まるみたいに置かれていた。

 丸い竹籠だった。

 浅すぎず、深すぎず。手で提げる細い持ち手がついていて、底のほうには土の粉がうっすら残っている。上には薄い手ぬぐいが一枚、軽くかけられていた。風で飛ばないくらいの重みはあるらしく、布の端だけが少し揺れて、すぐに止まる。

「何ですか、これ」

 ひなが言っても、籠はもちろん答えない。

 山門の外を見たが、人の気配も足音ももうなかった。置いたまま帰ったのだろう。そういう置かれ方だった。

 ひなは門のところまで行って、手ぬぐいの端を少し持ち上げた。そこから、土の匂いがふわりと出る。湿った畑ではなく、もう少し乾いた、山の土の匂いだった。その下に青い茎の切り口みたいな匂いが混ざる。

「……山菜?」

 口にしたところで、車庫のほうから恒一が来た。

「出たな」

 第一声がそれだった。

「出たって何ですか」

「籠や」

「見れば分かります」

「分かるなら早い」

 軽い返しのあとで、恒一は籠の前にしゃがんだ。手ぬぐいの端をひなより少し広くめくる。中には、わらびらしいものが束になっていて、その脇に太めのこごみ、葉の巻いたままの何かがいくつか入っていた。どれも泥はついていないが、洗いきった台所の顔でもない。

「山のやつやな」

「誰が置いたんですか」

「さてな」

 恒一はそこで答えを増やさなかった。

 さてな、で済ませる顔だったし、そこで済ませていい感じでもあった。ひなは眉を寄せたが、それ以上は続かなかった。続けるより先に、文江が縁側から来たからだ。

 布巾を腕にかけたまま、山門のところの籠を見て、手ぬぐいのかかり具合を見て、それから中身へ目を落とす。

「若いねえ」

 短くそう言った。

「何がですか」

 ひなが聞くと、文江は籠の中のわらびを指で軽く押した。

「やわらかい」

 それで十分、扱いが決まる声だった。

 説明ではない。けれど、そのひと言で、籠は「どこから来たか」より「今どう扱うか」の顔になる。文江は持ち手へ手をかけた。籠の底が石から離れて、少し土の粉が落ちる。

「入れるよ」

「今ですか」

 ひなが言うと、文江はうなずいた。

「陽、回るから」

 たしかに門のところへ置いたままでは、昼を越えれば日が寄る。わらびの切り口も、葉のやわらかいところも、そのままにはしておきたくない。理由としてはそれで十分だった。

 恒一が先に門をあける。文江が籠を持つ。ひなは慌てて後ろから土の落ちたところへ目をやったが、文江は振り向きもせず言った。

「あとで掃けばいいよ」

 その一言で、山門の外の話はほんの少し後ろへ流れた。

 台所へ入ると、土の匂いがいっそうはっきりした。流しの横はもう半分ふさがっている。洗った湯のみ、伏せた小皿、犬の水皿を一度置く空き。そこへ籠をそのまま置くには、少し狭い。

 美琴がすぐに振り向く。

「あら」

 そして、ひと目で状況を取る。

「山菜ですねえ」

「来たよ」

 文江が言う。

「誰からですか」

「そこはまだ」

 恒一が軽く返す。

 美琴はそれ以上聞かなかった。先に流しの横の空いた盆を一枚引き寄せ、伏せてあった器を棚の端へずらす。籠そのものは流しのすぐ脇ではなく、台所の土間寄りの涼しいところへ置く。竹の底が板へ当たって、こと、と鳴った。

「土、落ちますね」

 ひなが言うと、美琴はうなずいた。

「落ちますねえ。でも今はこっちのほうが早いです」

 その言い方で、また家のほうへ引き込まれる。

 文江は籠の上の手ぬぐいを完全に外した。中身がよく見える。わらびの先はまだ巻いていて、こごみの緑は少しつやがある。知らない葉も混じっているが、いかにも山からそのまま来た顔をしていた。

「これ、すぐ灰汁抜きですか」

 ひなが聞く。

 文江はわらびを一束持ち上げ、重さを手で見た。

「まだいいよ」

「まだ?」

「若いから」

 また短い。けれど、持ち上げた手つきが、もう台所のものだった。

 美琴はそこへ大きめのざるを持ってくる。いきなり全部洗わない。まず分けるためのざるだ。わらびはこっち、こごみはこっち、葉ものは少し離して。文江の手が先に動き、美琴が受ける。ひなはそこでようやく、籠の由来を聞くより先に、山菜の形を見始めている自分に気づいた。

「何か、強いなあ」

 思わず出た声に、美琴が笑う。

「何がです?」

「家のほうがです」

 恒一はそこで何も足さなかった。由来を知っているのか、知らないのか、どちらでもいい顔で、ただ台所の入口にもたれている。文江だけが山菜を見て、美琴は手を動かす。籠の置かれた意味は、そのあいだにどんどん薄くなっていく。

 ざるへ移したわらびの下から、小さい土の塊が一つだけころりと落ちた。台所の板に当たって、こつ、と小さく鳴る。ひなはそれを拾い上げた。乾いているのに、指先へかすかに山の匂いがついた。

「ほんとに山の匂いする」

「するねえ」

 美琴が受ける。

「でも、今日はまず夕飯側です」

 明るい言い方だった。

 山の匂いはしても、山の話には行かない。

 行かないまま、わらびはざるへ分かれ、こごみは別の器へ移される。

 台所で分かれたものの一部が、夕方には茶の間へ出た。

 小さい鉢に、さっと湯を通したこごみが少し。まだ味つけも薄く、山から来た青さを少し残したまま、卓の端へ置かれる。こと、と器の底が木へ当たる。

 湊がそれを見て言う。

「ふえた」

「増えました」

 ひなが答える。

「山菜だ」

 恒一が言う。

「やま」

 湊は短く繰り返したが、それ以上は聞かない。犬は縁側の外で鼻を少し上げて、その青い匂いを一度取って、また水皿へ戻る。

 文江は茶の間の端に、空いた竹籠だけを置いた。中身はもう台所へ入ったのに、籠だけがそこに残る。持ち手の竹に少し土の粉がついていて、拭けば落ちるのだろうが、まだ拭かない。

「それ、しまわないんですか」

 ひなが聞く。

「まだいいよ」

 文江は短く答えた。

「匂いあるから」

 たしかに籠の中には、まだ土の匂いが残っていた。山菜を出してしまっても、竹の編み目のあいだに山が少しいるみたいな匂いだった。

 夕飯の湯気に混ざるには薄すぎて、でも消えてしまうほどでもない。茶の間の端にそのまま置かれると、籠はもう家の物みたいに静かにしているのに、匂いだけが少し外側のままだ。

 ひなは箸を並べながら、その籠を一度見た。

 文江が最後にその籠の持ち手を少し内側へ倒した。竹がこすれて、かすかな音がする。

「それでいいよ」

 夜へ寄る家の中で、湯のみが鳴り、箸がそろう。

 その横で、山の匂いだけがまだ障子の手前に残っていた。

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