心配症
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
大学2年生の橘ひなたは、ごく普通の女子大生。ある日、学校一のイケメンと噂される林武蓮と同じゼミになったことで、自然と彼を意識するようになる。 しかし蓮は恋愛に全く興味がなく、女の子から告白されても断り続けるクールな男。ひなたが話しかけても素っ気ない態度ばかり。 それでも一緒にいる時間が増えるうちに、ひなたは彼の不器用な優しさに少しずつ惹かれていく。 恋愛に無関心なイケメンが、初めて「恋の病」にかかるまでのドキドキラブコメ!
本文
帰り道、ひなたはキャンパスの道を歩いていた。少し先に、見覚えのある後ろ姿があった。
林武だった。少しふらつきながら、ゆっくりとした足取りで歩いている。普段ならまっすぐ伸びている背筋が、今日は少し丸まっているように見えた。
大丈夫なのかな、あれ。
そう思いながらも、ひなたは少し迷った。声をかけるべきか、それともそのまま放っておくべきか。関わるとまた面倒なことになりそうな気もする。でも、あの様子を見て何もしないのも、なんだか気が引けた。
結局、ひなたはバッグの中をそっと探った。ポーチの底に、確かに入っていたはずだ。風邪気味の時のために、いつも数枚持ち歩いている使い捨てのマスク。母親が「念のため」と渡してきたものだったが、こんな形で役に立つとは思ってもいなかった。
あった。
それを掴むと、ひなたは少し足を速めて林武に近づいた。
「あの、待って」
声をかけると、林武が足を止めて振り返った。怪訝そうな表情だった。その顔色は、講義中よりも幾分か白く見えた。
「……何」
ひなたは少し迷ったが、思い切ってマスクを差し出した。
「これ、使って」
林武がマスクとひなたの顔を交互に見た。意外そうな顔だった。
「……なぜ」
「咳、ひどかったし。風邪なら人にうつしたくないでしょ。マスクすれば少しは楽になるかもしれないし」
林武はしばらくマスクを見つめたまま、何も言わなかった。受け取るべきか迷っているような、そんな様子だった。
沈黙が少し続いて、ひなたは内心で少し気まずくなった。やっぱり余計なことだったかもしれない、と思い始めた頃、林武がようやく口を開いた。
「いらない?」とひなたが聞くと、林武は小さく首を振った。
「……いや」
そう言って、ようやく手を伸ばし、マスクを受け取った。指先がひなたの手に軽く触れて、ひなたは少しだけ手を引いた。
「ありがとう」
林武の声は、いつもより小さかった。素直にお礼を言えるのか。良い人なのかも?
「……別に、大したことじゃないし」
ひなたはそう言いながら、視線を逸らした。マスク一枚渡しただけなのに、こんなにお礼を言われると、なんだか居心地が悪かった。
林武はその場でマスクの包装を開け、ゆっくりと着けた。それだけの動作なのに、なぜか様になっていた。マスクをしてもなお、整った輪郭の線がはっきりわかる。きれいな人は、こういう時もきれいなんだな、とひなたは少し場違いなことを考えた。
「……無理して講義出なくてもいいんじゃないの」
ひなたが言うと、林武は少し黙ってから答えた。
「出ないと、課題が溜まる」
「それで体壊したら本末転倒じゃない?」
意外にも、林武は素直に頷いた。いつもなら「平気だ」で押し切るところを、今日は少し違った。体調なんなのだろうか。
「真面目すぎるんじゃない、それ」
「……そうなのか」
林武は本当にわかっていないような顔をした。その反応がなんだか妙に可笑しくて、ひなたは少し笑ってしまった。
風が吹いて、ひなたは少し肩をすくめた。林武はマスクの上から小さく咳をして、それを手で押さえた。
「家、近い?」
ひなたが聞くと、林武は一瞬戸惑ったような顔をした。
「……それなりに」
「じゃあ、ちゃんと休んで。今日くらいは」
林武はひなたの顔を見て、それから小さく頷いた。
「……わかった」
「ご飯ちゃんと食べてね。風邪は寝てるだけじゃ治らないから」
「……詳しいんだな」
「普通だよ、これくらい」
ひなたが少し胸を張って言うと、林武はまた小さく頷いた。それ以上は何も言わなかったけれど、否定もしなかった。
「じゃあ、私こっちだから」
「……ああ」
ひなたは林武に背を向けて歩き出した。少し歩いてから、こっそり後ろを振り返る。林武はまだその場に立っていて、マスクの位置を直しながら、ひなたが渡したマスクの包装紙を丁寧に折ってポケットにしまっていた。
あの無愛想な態度からは想像もつかない、妙に丁寧な仕草だったな。ゴミ一つでもきちんと処理するところに、彼の性格の一端が見える気がした。
帰り道、ひなたはさくらにメッセージを送った。
『林武にマスク渡した』
すぐに返信が来た。
『は!?なんで急に!?』
『風邪っぽかったから。それだけ』
『それだけって言葉で済むと思う?www』
『本当にそれだけだよ。具合悪そうだったから渡しただけ』
『まあひなたらしいけどね、そういうところは』
軽い返信だった、さくらしい言い草だな。
ひなたはそれに小さく笑って、スマートフォンをポケットに入れた。からかわれるのはわかっていたけれど、別に変なことをしたつもりはなかった。
誰だって、目の前で苦しそうにしている人がいたら、何かしてあげたくなるものだろう。それだけのことだ。
それでも、あの「ありがとう」という声の感じは、なんとなく頭に残った。普段の素っ気ない態度とは違う、少し意外な反応だったから。
そんなことを考えながら、ひなたは家までの道を歩き続けた。