第三十九話 暴かれた白兎の秘密
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第三十九話 暴かれた白兎の秘密
ノアは、まだ執務室へ戻っていなかった。
ガルは扉を閉めると、胸ポケットから小さなアリスを取り出し、机の上に広げたハンカチへそっと下ろした。
「廊下の様子を確認します。ノアさんが戻られたら、私からも事情を説明します」
「はい」
「机の端には近づかないでください」
「分かっています」
ガルが扉の外を覗いた、そのわずかな隙だった。
書類の陰から黒い花ネズミが飛び出し、ハンカチの端をぱくりとくわえた。
「えっ、待ってください!」
「ルーシーさん!」
ガルが振り返る。
けれど、花ネズミはすでに机の上を駆け出していた。
ハンカチごと椅子へ飛び降り、そのまま窓枠へ跳ね上がる。ガルの指先が届く寸前、開いていた窓の隙間から外へ飛び出した。
「ガルさん!」
強い風が身体を打った。
空と城壁と赤い屋根が、何度も入れ替わる。
アリスは布へしがみつきながら、必死に叫んだ。
「降ろして! どこへ連れていくんですか!」
やがて、むせ返るような薔薇の香りが押し寄せた。
花ネズミは赤薔薇の茂みの中で足を止めると、ハンカチを地面へ落とした。アリスの顔を一度だけ覗き込み、満足したように鼻を鳴らして、根元の暗がりへ消えていく。
「本当に、自由すぎます……」
アリスはハンカチの中から這い出した。
そこは、ハートの城の赤薔薇の庭園だった。
小さくなったアリスには、薔薇の茎が大木の幹のように見える。重なり合う葉は空を覆い、頭上に咲く赤い花は巨大な天蓋のようだった。
早くガルのもとへ戻らなければ。
立ち上がろうとした時、茂みの向こうから足音が聞こえた。
「白兎」
甘く響く女の声。
その一言だけで、庭園の空気が変わった。
「はい、女王陛下」
続いて聞こえた声に、アリスの心臓が大きく跳ねる。
ノア。
アリスは慌てて太い薔薇の根の陰へ隠れ、葉の隙間から外を覗いた。
赤い薔薇の小道を、ハートの女王がゆっくりと歩いてくる。
豊かな赤い髪。深紅のドレス。閉じた扇子の先が、咲き誇る薔薇を一輪ずつ確かめるようになぞっていた。
その半歩後ろを、ノアが歩いている。
白銀の髪。白い上着。長い白兎の耳。
赤一色の庭園で、ノアの白だけが、切り取られた月のように浮かんで見えた。
「そなた、ルーシーという娘を随分と大切にしているそうだな」
女王は前を向いたまま、何気ないことのように尋ねた。
「迷い子の面倒を見るのは、私の仕事ですので」
ノアは微笑んでいた。
いつもと変わらない、柔らかな笑みだった。
「迷い子、のう」
女王は、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
「お前は昔から、面倒事を拾うことが好きじゃな」
「放っておけば、城の問題になります」
「ふん。便利な言い訳じゃ」
女王の赤い瞳が、横目にノアを見る。
ノアは笑みを崩さない。
二人とも、それ以上は言わなかった。
けれど、言葉にしなかったものだけが、赤い薔薇の間へ重く沈んでいく。
「何をお疑いなのですか」
ノアの声は穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
女王の紅い唇が、わずかに吊り上がる。
「お前は、昔から変わらぬ」
「何がでしょう」
「隠し事をする時ほど、綺麗に笑う」
女王はノアの前まで歩み寄った。
扇子の先が、白い上着の胸元へ触れる。
「十年前も、その顔をしておった」
ノアの赤い瞳が、ほんのわずかに細くなった。
「何のお話でしょう」
「忘れたとは言わせぬぞ、白兎」
女王の声から、甘さが消える。
「お前が、アリスを逃がした夜のことじゃ」
アリスは思わず口元を押さえた。
胸が激しく鳴っている。
女王に聞こえてしまいそうなほど、大きく。
「あの娘の記憶を封じ、扉の向こうへ帰した。裁判にかけられてなお、お前は最後まで何も知らぬ顔をしていた」
「すでに裁きを受けたことです」
「裁きを受けたから、罪が消えるとでも?」
女王の扇子が、ノアの胸元から離れる。
「お前はわらわの命令を破った。そして、あの方へ捧げるはずだったものを奪った」
捧げる。
その言葉が、アリスの胸へ冷たく落ちた。
「奪ったわけではありません」
ノアは静かに答えた。
「あの時は、まだ早かった。それだけです」
「魂は変わらん」
「あれは、未熟な身体には耐えられません」
「ゆえに、勝手に扉の向こうへ返したと?」
「契約を成立させられる時ではありませんでした」
迷いのない答えだった。
今まで何度も繰り返してきた答えなのだろう。
女王は不満そうに目を細めた。
「お前は、それ以外の答えを口にせぬな」
「ほかに申し上げることはございません」
二人の視線がぶつかる。
女王は、ノアの言葉の奥に隠されたものを暴こうとしている。
ノアは、何ひとつ渡すまいとしていた。
やがて女王は、興味を失ったように扇子を開いた。
「まあよい」
それだけ言って、ノアへ背を向ける。
「早すぎたと言うのなら、今度は時を違えるでないぞ」
女王の白い指が、開きかけた薔薇の蕾へ触れた。
柔らかな花びらのすぐそばで、鋭い棘が光っている。
風が止まった。
揺れていた薔薇の葉も、何かを待つように静まり返る。
「十六歳となったその日――」
女王の声は、ひどく穏やかだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
赤い花びらが、一枚、枝を離れた。
「アリスの純潔を、あの方へ捧げる――」
純潔。
その一語だけが、鋭い刃のように耳の奥へ突き刺さった。
アリスは、その意味が分からないほど幼くはなかった。
分かってしまった。
だからこそ、怖かった。
身体が、自分のものではないと告げられたようだった。
誰にも触れられないように守られ、傷つかないように囲われ、十六歳になったら顔も知らない誰かへ渡される。
そんなことが、初めから決められていた。
嫌だと叫びたかった。
けれど喉が凍りつき、声が出ない。
背中を冷たいものが這い上がる。
捧げられたあと、自分がどうなるのか分からない。
帰れるのか。
生きていられるのか。
それとも、自分ではなくなってしまうのか。
怖い。
ただ、怖かった。
「それまで、身体にも、魂にも、契約にも傷をつけてはならぬ」
女王は振り返らない。
「ほかの者の印を許すな。とりわけ、年頃の男には近づけるでないぞ。器が損なわれれば、献上は成立せぬ」
アリスの頭の中に、あの日のノアの声が蘇った。
『僕の許可なく、彼女へ近づかないで』
『二人きりにならないで』
『彼女に触れないで』
ガルを遠ざけたのは、自分を誰にも取られたくなかったからではない。
献上の日まで、条件を損なわないため。
誰にも触れさせず。
傷つけず。
純潔を守るため。
あの時、ノアの言葉に感じた甘さも、独占欲も、すべて自分の思い違いだった。
女王はゆっくりとノアを振り返った。
「見守るうちに、情など移ってはおらぬであろうな?」
扇子の先が、ノアの胸へ触れる。
「今度こそ、お前が守り、お前があの方のもとへ連れてくる。それは、お前自身の願いでもあるはずじゃ」
ノアは一瞬も目を逸らさなかった。
「もちろんです」
迷いのない声だった。
アリスの胸が、小さく軋んだ。
「彼女はあくまで、あの方への大切な献上品。それは昔から、何も変わっておりません」
献上品。
女王ではない。
ノアが、そう呼んだ。
自分を。
人ではなく、誰かへ差し出すためのものとして。
「必ず、私が連れてまいります」
静かな声だった。
あまりにも静かで、何の迷いもないように聞こえた。
何度も助けてくれた手。
朝食を作る白い背中。
頭を撫でる白い指。
寒い夜にかけてくれた毛布。
花も、ポップンキャンディも、優しく呼ばれた名前も。
すべて、あの方へ渡す日まで、壊れないよう守るためだったのだろうか。
胸の奥で、何かが音もなく砕けた。
「同じ過ちは、もう二度と許さぬ」
「承知しております」
ノアは深く頭を下げた。
女王は満足したように微笑み、ノアの胸元から扇子を離す。
深紅の裾を翻し、そのまま薔薇の小道を歩き出した。
去り際、女王は茂みを一度だけ見た。
まるで、その奥に隠されたものまで見透かしているように。
「今度こそ、見誤るでないぞ」
ノアは答えず、女王のあとを追った。
白い背中が、赤い薔薇の向こうへ遠ざかっていく。
アリスには、もう何も聞こえなかった。
耳の奥で、たった一つの言葉だけが何度も響いている。
純潔。
ノアは、それを守るために自分を囲っていた。
自分を大切にしていたのではない。
献上品として、傷つけずに届けるために。
「……いや」
声が震えた。
アリスは薔薇の根元へ座り込んだ。
ノアの家へ帰りたくない。
あの温かな台所も、窓辺の花も、今はすべて違うものに見えてしまう。
ノアの顔を見れば、きっと疑ってしまう。
優しく触れられれば、献上品に傷がないか確かめているのだと思ってしまう。
「ルーシーさん!」
遠くから、激しい足音が聞こえた。
「どこですか! 返事をしてください!」
薔薇の茂みをかき分け、ガルが走ってくる。
黒茶色の髪は乱れ、額には汗が滲んでいた。
青い瞳が、根元にいるアリスを見つける。
「……良かった」
強張っていた表情が、心の底から安堵したようにほどけた。
その声を聞いた途端、アリスの目から涙がこぼれた。
誰かが、自分を探してくれた。
ただ自分を見失ったことを悔やみ、無事だったことに安心してくれた。
「ガルさん……」
ガルは膝をついた。
「怪我はありませんか」
アリスは首を振る。
「花ネズミに運ばれただけで……怪我は、ありません」
「申し訳ありません。私が目を離したせいです」
「違います。ガルさんのせいでは……」
最後まで言えなかった。
涙が次々に落ちていく。
「何があったのですか」
アリスは答えられず、ただ首を振った。
「帰りたくない……」
ガルの表情が強張る。
「ノアのところへ、帰りたくありません」
その時だった。
「……何をしているの?」
背後から、甘く静かな声がした。
アリスの身体が硬直した。
ガルが振り返る。
薔薇の小道に、ノアが立っていた。
いつもの、砂糖菓子みたいに綺麗な笑顔。
けれど、ガルの足元へ視線を落とし、小さなアリスを見つけた瞬間、その笑顔が消えた。
赤い瞳が、わずかに見開かれる。
「……」
ノアは何かを言おうとした。
けれど、声にならなかった。
一歩だけ近づく。
アリスは反射的に後ずさった。
その小さな動きを見た瞬間、ノアの足が止まる。
「どうして……そんな姿に」
掠れた声だった。
「アザレア様のクッキーです」
ガルが立ち上がる。
「女王陛下から隠すため、小さくなるものを食べさせたようです。元へ戻るクッキーは、まだ受け取れていません」
ノアは動揺を押し隠すように、赤い瞳を細めた。
「それで……君が連れ回していた?」
「彼女が、私へ助けを求めました」
「僕には知らせずに?」
「知らせる時間がありませんでした」
ノアの視線が、ガルを責めるように射抜く。
「ガルさんは悪くありません!」
アリスは叫んだ。
「私が、助けてほしいとお願いしたんです」
ノアは何も言わなかった。
ただ、アリスを見つめている。
やがて、ゆっくりと屈み、白い手を差し出した。
「……おいで」
それだけだった。
いつもなら、迷いながらも取っていた手。
けれど今は、その手が自分を誰かのもとへ運ぶためのものにしか見えなかった。
「いや」
差し出された指先が止まる。
「帰りたくない」
アリスは涙で滲む目で、ノアを見上げた。
「ノアのところには、帰りたくありません」
ノアの表情が固まった。
差し出された白い手は、アリスの前で止まったままだった。
赤い瞳が、かすかに揺れる。
アリスとノアの視線が重なった。
ほんのわずかな間だった。
けれど、それだけで分かってしまった。
ノアは気づいたのだ。
アリスが、先ほどの会話を聞いていたことに。
そしてアリスも分かった。
ノアが、もう何を聞いたのか尋ねる必要さえないほど、すべてを察したことに。
ノアの唇が、何かを言おうとするようにわずかに動いた。
けれど、言葉は出てこなかった。
アリスはその手から逃れるように後ずさり、ガルの人差し指へ両腕でしがみついた。
ノアの視線が、その小さな手へ落ちる。
「彼女は、ひどく混乱しています」
ガルがアリスを庇うように、手を胸元へ寄せた。
「今は、私が連れていきます」
「ガル」
ノアの声が低く響く。
けれど、先ほどまでの怒りはなかった。
赤い薔薇の葉が、風にざわめく。
「お二人とも、少し冷静になる時間が必要です」
「君に……何が分かるの」
「今の彼女が、あなたの手を取れないことは分かります」
ノアは何も言い返さなかった。
ただ、ガルの指へしがみつくアリスを見つめていた。
自分の手から逃げるように、震えているアリスを。
やがてノアは、差し出していた手をゆっくりと引いた。
白い指が、力なく閉じられる。
「……分かった」
掠れた声だった。
いつものように笑おうとしたのか、ノアの口元がわずかに持ち上がる。
けれど、その笑顔は砂糖菓子のようには見えなかった。
「連れていって」
ガルの青い瞳が、わずかに揺れる。
「今は……僕が、そばにいるべきじゃない」
その言葉を聞いても、アリスはガルの指から手を離せなかった。
「元の姿へ戻るまで、絶対に目を離さないで」
「承知しました」
「そのあとは……」
ノアの言葉が途切れる。
赤い瞳が、もう一度アリスへ向けられた。
けれど、帰ってきてとは言わなかった。
「彼女の望むようにして」
「分かりました」
ノアの唇が、何かを呼びかけるようにわずかに動く。
けれど、名前は声にならなかった。
「……休んで」
それだけ告げると、ノアは踵を返した。
白い背中が、赤い薔薇の向こうへ遠ざかっていく。
彼は一度も振り返らなかった。
アリスはガルの指にしがみついたまま、その背中を見送った。
胸の中では、ノアの声が何度も繰り返されている。
『彼女はあくまで、あの方への大切な献上品』
『必ず、私が連れてまいります』
今まで受け取ってきた優しさが、すべて違う色へ塗り替えられていく。
ガルは何も尋ねなかった。
ただ、アリスを包むためのハンカチを静かに差し出した。
触れすぎないように。
けれど、ひとりにはしないように。
小さな声は、濃い薔薇の香りの中へ消えていった。
赤い薔薇だけが、何も知らないふりをして咲いていた。